MEDUSA
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ここ最近カカシが優しい。以前から目下のイルカに対しても丁寧な態度だったとは思うけど、それでも隠しきれない無関心さが漂っていたような気がするが、今はまるで子供のように真っ直ぐ目を見て話をしてくれる。
イルカの部屋に髪の長いくのいちが侵入してきた晩には動転したイルカの傍にずっと居てくれて、それ以来居間で一緒に寝起きをするようになったし、アカデミーに出勤するようになって、毎日見守られているのは案外居心地の良いものだった。
火影にカカシを監視役として付けられたときは非道く息苦しく感じたものなのに、今では空気のようにあって当然のような存在になり、その自分の心境の変化に伴いカカシを優しいと感じるようになったのかもしれない、とイルカは思う。最初からカカシには悪意は無かったのだから――――。
イルカはカカシを敵だと思っていた。イルカの恋路を阻む障害であり、煩わしいお目付役だと断じていた。
しかし、カカシはそんなこと露ほどにも意識しておらず、ただ忠実にイルカの監視を務めていたし、夜になれば夜這いの人間からイルカを護衛していた。
事の起こりがイルカのカカシに対する敵愾心に因るものだからこそ、カカシには何の非もなく、今となっては犠牲者の一人だという気もしてくる。
そうした心の変化がカカシの評価を変えていくのは理解できることだが、イルカはそれだけじゃないような気がしている。
真実カカシが優しくなってきているような気がしていた。
そして、イルカは不思議なことにパートナーを渇望する心が萎縮しているのにも気が付いていた。自来也に万古蘭を差し出され使ったあの時や、その力を満喫していたときの気持ちがウソのように、自分が落ち着いているのを感じる。あの時の状態を餓えだというのなら、今は間違いなく満たされていると言っていい。
今となっては、自分の中の何が周りが見えなくなるほどにモテたい衝動へと突き動かしていたのか分からず、時折影響下に居る人々を煩わしく思ったりもする程。あの時の見境の無さを眼前に突きつけられているようで、その人々を見るのがイルカは辛かった。
元の仕事に復帰して子供達と会えるのはとても嬉しいことだが、自分が腑抜けにしてしまった同僚達と顔を合わせた上、その所為での仕事の不手際は歓迎どころか容認できるものではなく、イルカは一日に何度も火影にアカデミー勤務辞令の撤回を求めようかと考えていた。
そんな中、イルカはある日その現場を目撃した。
その日はイルカがアカデミーへと復帰して丁度十日目で、影響下にある人々にもそうでない同僚にも、イルカには写輪眼のカカシの監視がついているという事実が浸透しきった頃で、ようやくアカデミーでの仕事が休職以前と同じように円滑に進み出していた時期だった。
その頃になると、流石にある程度同僚達との協力関係を築くことに成功して、カカシが四六時中傍に就いていなくても諍いが起こることはなく、イルカも一人で自由にアカデミー内を歩けるようになっていた。
昼食も最近ではカカシと二人きりで摂るよりも、同僚達と食堂で摂ることが多くなった。最初の内は自分の居なかった間のアカデミーの様子や変化を聞けて、とても充実した時間で楽しかったのだが、それも何度も続くと今度はカカシの方が心配になってきた。
イルカがカカシの監視対象となってからイルカがアカデミーに復帰するまで、ほぼ三食一緒に摂っていたのに、今は一人で食べているのかもしれない、と思うと何だか申し訳なく感じるのだ。そう考えた瞬間から、なぜか同僚達との昼食も素直に楽しいと感じられなくなってしまったイルカは、その日はカカシと一緒に食事を摂ろうと、仲間達の誘いを断ってカカシの姿を捜したのだった。
普段カカシはイルカの担当するクラスの窓から望める木の陰に潜んでいる。そこからならば職員室もよく見えるからだろうとイルカは考えている。教室を見渡すだけならもう少し居心地の良い枝振りの木があるのに、カカシは少し角度の悪い貧弱な枝を定位置としているからだ。
しかし、最近は午のチャイムが鳴ると姿を消してしまう。一度イルカが同僚達と昼食を一緒に摂るからと、カカシとの昼食を断ってからそういうふうになってしまった。監視を止めているわけではないだろうから、イルカのすぐそばにいるのだろうとは思うけれど、それでも姿を見つけることが出来なくて、イルカはうろうろとアカデミー内を探し回った。
――――朝から昼ご飯に誘っておけばよかったかなあ…
きょろきょろと周囲を見渡しながらイルカは構内を歩き回る。その手には朝からこっそり作っておいた弁当だ。カカシの驚く顔が見たくて内緒にしておいたのだが、こんな事なら素直に誘っておけば良かったかもしれない。
「カカシ先生…!」
すぐそばに居るはずだから声を掛けてみるが、反応は返ってはこず、イルカはカカシの居そうな場所を探して歩き続けた。そして所々でカカシの名前を呼んでみる。
しかし、時折イルカの声を聞きつけた同僚が顔を覗かせるぐらいで、他に反応はなく、そろそろ昼休みの半分を使い切ろうとしていたときだった。
貯水池兼鯉の飼育池となっている水辺の傍で、話し声がするのに気が付いた。明瞭なものと、低いものと二つの声で、恐らく男女二人組なのだろうとイルカは推察した。もしかしてカカシを見ていないだろうか。イルカはお邪魔だろうな、と思いながらも尋ねてみることにして池に近づいてみる。
「…放課後の短い時間だけで良いんです…っ」
そういう女性の声が聞こえたが、それに対する男の反応は聞こえない。声が低くて通りが悪いのだろう。もしかして修羅場中なのだろうかと、ひょいと顔を覗かせると、そこには捜していたカカシが居た。
「…カカシ先生…!」
思わず、イルカは声を上げてしまい、二人はばっとイルカの方を振り返った。
「…イルカ先生…!」
そして、カカシと対峙していたもう一人も振り返る。それは髪の長い女性で、あの時イルカを振った同僚のユイで、確か彼女はカカシを好きだと言って、イルカのことを振ったのだった。
だとすると、この場は――――。
この場の意味をびくりと悟った途端、ユイからの鋭い視線を認識し、イルカは咄嗟に身を翻した。
――――うーわー…! えらいもんに遭遇しちゃった…!
がさがさと物音を立てるのをものともせず、イルカは中身の詰まったままの弁当を腕と共に大きく振りながら、校舎の方に戻った。
咄嗟に戻ってきてしまったため、カカシに声を掛ける余裕さえなかったし、何でこんなに慌てたのか分からないけれど、息も上がっていた。
あの場は、もしかしてユイの告白の場だったのかもしれない。
そう思って、イルカははた、と考え直す。
もしかして、ユイとカカシが付き合っている可能性もあるのではないか。ユイのあのイルカを睨み付けた視線は、あからさまに『邪魔者め』と語っていた。もしもあの場が告白の場だったとしても、恋人達の逢瀬の場だったとしても、ユイがイルカを邪魔者扱いするのは辻褄が合っている。恋人同士の場合ならば更に事態は深刻だ。イルカは四六時中カカシに付き添われていて、ユイとの逢瀬を楽しむ時間が一切無い。
もしかして、この昼休みは束の間の逢い引きの時間だったのかもしれない。
――――悪いことしちゃったな…。
そう思いながらイルカはちくりと痛んだ胸を右手で押さえた。やはり好きだった人間が自分以外の他の誰かと上手くいっている可能性に悲鳴をあげているのに違いなかった。
その痛みに何でもない振りで、時計を確認してみると午後の授業開始の予鈴まであと三分に迫っている。もうこの弁当をカカシと食べているような余裕はなかったし、空腹感も最早ピークを過ぎているようで、食べる気にはなれなかった。
手の中の弁当は重く、昨日の晩からの浮かれていた気分が滑稽に思えて、イルカは誰にも聞きとがめられないように溜息を吐いた。
午後の授業が始まるといつの間にかカカシは定位置の木の枝に姿を見せていた。気が付くのはいつもイルカだけで、時々補助ではいる教師や子供達は誰も彼に気が付かない。気配を消しているからだろうか。
ただ、今日はその視線がとても痛く感じられて、イルカはカカシを見ない振りで授業を続けた。
授業が全て終わり、職員室に戻ったイルカは身を焼かれそうな視線を感じた。いつも感じる万古蘭影響者から浴びるそれとは違い、視線の主を思わず捜してみると、それはかつてのイルカの片思いの相手だったユイがそこにいた。彼女はイルカと視線が合うと、悪びれもせずに、そのまま舌打ちでもしそうな表情で視線を逸らしてしまった。
まだ、彼女のことを好いているかと言えば、恐らくそれはない。だから、今の態度に幻滅するほどではないにしても、あからさまにイルカを敵視している態度には少し傷つく。重苦しい空気を感じながらイルカは事務机に就き、少しでも早く帰宅できるように残務整理に精を出すことにした。
家に持ち帰らないために今日中に済ませておきたい仕事は、採点と明日の予習だ。まず赤ペンを取りだして採点を始める。何も考えないで良い機械的作業は今のびくついた気持ちにはもってこいの作業だ。写経などをして心を落ち着かせるという修行があるけれども、それとよく似ている。軽快に○と×、時々部分点を加味しながら次々と藁半紙をめくっていく。十人分も済む頃には自分が何を思い煩っていたのかさえ忘れて、イルカは採点に没頭した。○×を書き終えてから点数を計算し、その成績を別の名簿に書き込んで、ようやく採点の作業は終了した。
そこまで終了したところで、ふとイルカは現実に戻り、溜息を吐く。明日の予習が終わってしまえば家に帰らなければいけない。しかも、食べられなかった重い弁当を持って。もうきっと中は腐ってしまって食べられなくなっているだろう。そのことを考えるだけでも気が重いのに、さっきのユイとカカシの会話が気になっていた。
『…放課後の短い時間だけで良いんです…っ』とユイは言っていた。カカシがそれにどう応えたかイルカには聞き取れなかったけれども、きっと意志の強いユイのことだから何かしらの行動を取るのだろう。
カカシの二十四時間は今、全てイルカのためにあると言っても過言ではなく、放課後も例に漏れずイルカのために費やされるため、カカシがユイのために時間をとらず任務を優先させれば、イルカはきっとその場に遭遇することになる。
それは億劫だったし、その後のカカシと二人きりの時間を考えただけで困ってしまう。
それに、イルカはようやく気が付いてしまった。
もしかして今まで我慢していただけで、カカシにはユイとは言わず誰か特別な人が居て、イルカのためにカカシの時間が犠牲になっているのではないかという可能性だ。勿論彼女が居ようと居なかろうと、腕利きの上忍の貴重な時間をイルカ一人に浪費させているという事実は変わらない。ただ、そこに悲しんでいる人間が居ると思うだけで自分が非道く悪いことをしているような気分になってしまい、また自分の浅はかさに嫌気が差して、イルカは小さく息を吐いた。
「溜息ばかり」
そんな声は背後から聞こえた。
振り返ればそこにはいつもと同じ様子で、カカシが立っている。いつも彼はイルカの仕事の様子を見計らって声を掛けてくれるのだ。今日もいつもと変わらずに声を掛けてくれたことにほっと安堵すると同時に、ぞわっと毛穴が収縮するような寒気を感じた。カカシもイルカと同様のものを感じたらしく、すっと雰囲気が切り替わり、周囲を窺い、すぐに焦点を定める。その先を視線で辿れば、そこにはユイが立っていた。
しかし、視線の主がユイだと知ったカカシはすぐに興味を失ったように彼女から視線を外し、イルカにそれを向けてきた。
「仕事、終わりました?」
その表情はいつもと変わらず、例えユイの射殺しそうな視線の中であってもさざ波が立つことさえなく、凪いだ穏やかな視線でイルカを見下ろす。その平然とした様子に、イルカの方が戸惑うくらいだ。
「あ、あの…。…ええ…」
しどろもどろになった結果、咄嗟に仕事は終わったことになってしまい、イルカはそのままカカシに促されて帰る支度を済ませた。イルカの休職で授業は予定より随分と遅れているため予習は必須だが、こうなってしまえば教科書の幾つかは持って帰り、残りは明日の朝少し早めに来てやるしかない。
「それじゃあ、お先に失礼します」
周囲でまだ働いている同僚に会釈をしてから、先導するカカシに附いて職員室を出た。すんなり職員室を出られたことにイルカは少し驚いていた。ユイが何かコンタクトを取ってくるものと思っていたからだ。しかし、振り返っても彼女が追いかけてくる様子も無く、もしかして杞憂だったのかもしれない。
「今日は買い物して帰りますか?」
校門を出て右に曲がるか直進するか。その質問にイルカはざっと冷蔵庫の中を思い出す。挽肉もキュウリも今日の食べられなかった弁当に使ってしまって、残っているのは卵と牛乳、保存の利く缶詰くらいしか思い浮かばない。また、気持ちが少し重くなるのを感じながら、イルカは「買い物、行きましょうか」とカカシに答えた。
その時だった。
「待って!」
頭上からの声にイルカはびくりと仰ぎ見ればそこはアカデミーの職員室だった。その窓から顔を覗かせていた人物が身を乗り出して、飛び降りる。
それはイルカの恐れていたユイだった。
「話をしたいと言ったはずです…!」
立ち上がるなりユイはイルカの後ろに立つカカシに向かってそう切り出した。イルカは居たたまれなくなり、カカシとユイを結んだ直線上から一本後ずさり、二人を交互に眺める。しかし、カカシは一度もユイを見ることはなく、いきなりイルカの手を取った。
「え…っ」
その手に驚いて思わず手を引くが、拘束は緩まず、カカシは平然とした顔でイルカを促した。
「行きましょう。タイムセールが始まっちゃいますよ」
そう言ってぐいぐいとイルカを引っ張るようにして校門を通ろうとする。イルカは引きずられるような形になり、無視されているユイを振り返った。彼女は痛みをこらえる表情で唇を噛み、それからイルカを睨み付けると二人に駆け寄り、イルカを引きずるカカシの前に立ちはだかった。
「あんなの、理由にならない…! イルカ先生を監視しなきゃいけないから時間がないなんて、そんなの…!」
彼女は今にも泣きそうな声で感情的にカカシへ訴える。カカシは静かな瞳のまま動じた様子も見せずに言い切った。
「理由にもなってない理由で退けられる。それが理由」
まともな理由も言って貰えない、つまりは、それだけ価値がないという意味か――――イルカはカカシを見上げる。ユイもその場に凍り付いていた。
「忍の端くれならそれで気付きなさい。そうすれば無駄に自分の品位を貶めることもないのに」
そのカカシの言葉にイルカは思わず職員室の窓を仰ぎ見れば、そこにはこの騒ぎを聞きつけて、校門を見下ろしている同僚達の顔が並んでいた。この騒ぎはユイの衝動的な行動によって自ら周囲に知らしめることになってしまったのだ。明日にはきっと知らぬものなど居ないような状態になってしまうだろう。
それがイルカにも簡単に想像できて、思わず彼女に同情する気持ちと、申し訳ない気持ちが浮かび上がってくると同時に、カカシに恨み言の一つも言いたくなる。カカシの言ったことは事実だけれど、ここで自分のことを引き合いに出さずとも良いではないか。これではイルカがユイから恨まれろと言ってるものと同じだ。
「…はたけ上忍も連中と一緒よ…」
その低い声は最初ユイのものとは思えなくて、イルカは耳を疑うが、彼女は火を宿したような視線でカカシを睨み付けている。
「うみのイルカ信奉者と何も変わりはしないわ!」
そのユイの言葉をカカシは静かに受け止めて、もう一度イルカの手を引き、彼女の横を通り過ぎる。イルカはすれ違い際にぎっと強い視線で睨み付けられる。もしも視線で人を殺すことが出来るのならば、今日一日でカカシとイルカは二度か三度殺されていることだろう。
今度は彼女は二人を追おうとはせず、カカシに引っ張られて右に曲がったイルカからはすぐに見えなくなってしまった。
烈しい女であることは知っていた。かつてのイルカはそんな彼女の強さやそれに裏打ちされた自信に満ちた態度に惹かれていた。
去り際のユイの瞳を思い出してイルカは一度ふるえる。
彼女は、カカシの事を好きだと言っていた。あの時は――――イルカが彼女に思いを告げたときには、こんな目をしてカカシを語っては居なかったのに。好きという感情が裏切られると同じ強さで全く逆の方向にベクトルが動くものなのだろうかと、イルカはぞっとする。それならば、イルカの瞳術で影響下に置かれて、イルカのことを思ってくれている人々はカカシに抑圧されどうなってしまうのだろう。カカシによって阻まれ、イルカには抗われる彼らの気持ちは、ともすればいずれユイが見せたように自分へと向けて爆発するのかもしれない。その想像にぞっとするものを覚えながらも、それはそれで仕方のないことだとイルカは思う。彼らの気持ちを弄んでいたのはイルカで、彼らには報復する権利があるのだ。いずれその時が来ればイルカは腹を括らなければいけないだろう。
ただ、その時、この手はどうなっているのだろうか。
視界に入ったイルカの右手は相変わらずカカシの左手に繋がれたままで、時折すれ違う人々が興味深そうにその手と二人の顔を交互に見やり、勝手にしたり顔を浮かべているのが何だか気恥ずかしい。彼らの目にはどういう風に映っているのだろうか、想像に難くないだけにむず痒く、自然と顔を伏せがちになる。
だけど、イルカにはその手を強く振り払う気にはなれなくて、振り返らずに黙々と歩くカカシに引きずられるまま歩いた。
さっきまでは億劫に感じていたのに、今はこのまま郊外の二人の家に連れて帰ってくれないだろうかとイルカは思い、スーパーに寄らなければいけない状況がひどく残念に感じられた。
いつまで、この手を繋いでいられるのだろうか――――。
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