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MEDUSA




 昼になればいつものように適当に弁当を調達し――――その時々により作ったり買ったり気分次第だが、今日は有名店で買い、イルカを伴って屋上で食べたが、イルカはその弁当のブランドに気付くことなく平らげてしまって少し切ない思いをした。
 午後はイルカの仕事場に例の影響下にある人物が二人ほど侵入を試みていたが、カカシは勿論それを見過ごさず、一人は無傷で追い返し、もう一人は昏倒させて病院に放り込む。彼らも火影の方からイルカと接触することを禁じられているはずなのに懲りないことだ。
 火影を長に据えるこの里において、彼の人の言葉は絶対だという身に染み込んだ筈の掟さえ見えなくなってしまうようなそんな衝動にカカシは期待してしまう。イルカの持つ力は自分をどう餓えさせるのか、幸せにしてくれるのか、カカシはそのときが楽しみで浮かれようとする気持ちを理性で押さえ込み、平常を装って生活を続けた。
 その日の夜もカカシは早く自室に引き込んだ。イルカは疑った様子もなく、疲れた様子のカカシに
「昨日も大丈夫だったんですから、今日も大丈夫ですよ。もうほとぼりは冷めてきたんでしょうね」
 ――――と、全く現実の見えていないことを言って、カカシを部屋へと追い立てたのだ。本当は『悶絶宣言』を見たかったのだが、こんな好機を見逃す手はなく、イルカに勧められるがままテレビを我慢してじっと息を殺しイルカが寝入るのを待った。勿論昨日と同じように各所に忍犬を配置して他の侵入者を排除する方策は採ってある。
 イルカは一時間半居間で過ごし、それから暫く動き回ったかと思うと、カカシの部屋の隣である自室へと戻ったようだ。自室でもなにやらごそごそと落ち着きが無く過ごした後、ついにイルカの部屋の明かりが消されたのは、カカシが退散してから二時間を過ぎた頃、日付が変わった直後だった。
 ――――これだったら悶絶宣言は見られたな。
 などと思いながら、暫く壁越しに様子を窺うが、イルカの部屋からは物音一つ聞こえない。人が寝入るのに要する時間はそれぞれで、イルカの寝付きが良いことをカカシはこの生活の中ですでに知っていたが、用心をしてそれから半時動きを見ていた。
 イルカが寝入ったと確信に至ったときが、行動開始時間だ。
 カカシはそっと影分身でもう一人自分を作り出す。そして、本体の方は万古蘭の影響下にあって普段からイルカを狙っている上忍のくのいちに変化した。二度三度カカシも対峙したことがあるから姿を写すことくらい造作もない。
 そして、その姿のまま本体のカカシは気配を消して自室の窓からイルカの部屋の窓へと飛び移った。不用心なことに鍵が開けっぱなしにしてあり、容易く無音侵入に成功する。この人本当に狙われているという自覚があるのかなあ、と些か心配になりながら視界の邪魔になる長い髪を掻き上げ、イルカの横たわるベッドに近寄った。
 イルカは侵入者の様子に気付くことなく、安心しきったような顔で眠りこけている。それをのぞき込みカカシは抑え込んでいた気配を一気に解放し、ついでに殺気も混ぜる。
 びりっと空気が変わるのがカカシ自信にも分かるほどの変化に、周囲に配置していた忍犬の気配がすぐに警戒色に変わり、そして、ばちっとイルカも目を覚ました。
「…なっ!」
 自分の頬に垂れた長い髪を咄嗟に振り払い、イルカはくのいちに変化したカカシの体を容赦なく突き飛ばすと、ベッドから跳ね起きる。
「何でこんな時に…っ!」
 態と床に背中から落ちて、カカシは受け身を取り、暫くその場に蹲る。その瞬間にぐっと空気が重くなるのを感じた。
 イルカがあの目を使っているとすぐにカカシは理解できた。すぐにカカシは写輪眼の自己防衛能力を遮断するためにチャクラを覆った左手でその目を覆う。するとその特有の空気の重さは全く感じられなくなったし、特にイルカも自分を睨み付けているようにしか見えなかった。
 何も、変化を感じられない。
 ――――失敗か!
 すぐにそう悟ってカカシは侵入してきたときと同じように窓から外へと逃げ出した。それを合図に、すぐに分身で作っておいたカカシがイルカの部屋に踏み込み、軽いパニックになったイルカが「カカシ先生」と叫んでいるのが逃げる背中に聞こえた。忍犬たちは逃げるカカシに一瞬とまどいはしたものの、すぐに主だと気が付いて吠えることはなく、カカシはそのまま誰にも見とがめられず、近くの森に身を潜めた。そこでようやく変化を解く。
 呆気なかった。
 イルカの瞳術などあんなものなのか。カカシには効果があったように思えず、期待していただけに落胆は激しかった。
「…なんだよ…」
 昨日今日の自分の努力がひどく空しいものになったことに、思わず一人ごち、森の堆積した枯れ葉の上に大の字になって寝転がる。変化を解けば寝間着だったが、そんなことは気にも止めず、木々の葉が作る闇の隙間に濃紺の夜空を眺めた。
 さっき見たイルカの眼の色だとカカシはぼんやり思った。
 夜目の利くカカシにはイルカの視線をしっかり捕らえることが出来たし、イルカが咄嗟に万古蘭の能力を使ったことも分かっている。イルカが万古蘭を禁薬だと知る前に何度と無くその力の前に晒されて味わったことのある感覚だったからだ。それなのに写輪眼の力を抑えた途端にそれを感じなくなったというのは一体どういうことなのだろうか。もっと強い勢いで浚われてしまうような感覚が突き抜けるものだとカカシは勝手に期待していたが、それは期待はずれで終わり――――。
 まがい物の写輪眼に備わるなけなしの効果だったのではなく、カカシ自身が持つ何らかの抗体が働いて結局は利かなかったのかもしれないし、暗部に入る前に受けた耐薬試験で摩雷妃を投薬されている可能性も否定できない。
 どちらにしろカカシには万古蘭が効いたような感覚はなく、徒労感と落胆に身を委ねて、目をつぶった。
 カカシは明け方までその場で待ち、イルカがトイレに立った隙を見計らって影分身を吸収して一人に戻った。
 分身の記憶ではどうやらイルカはくのいちの存在に驚いたというより、起き抜けに長い髪が真上から覗き込んできたという方に恐怖を感じたらしく、カカシの発した殺気と相まってパニックを起こしたようだ。イルカは一晩中落ち着かなかったらしく、分身のカカシを巻き込み居間で一晩を過ごしたようだ。なんだかカカシにはそれが面白くない。自分が体験したことの筈なのに実感が伴わない。
「もう大分落ち着きましたか」
 居間に戻ってきたイルカに何食わぬ顔でカカシがそう尋ねると、イルカは弱々しく笑って頷いた。
「ええ、取り乱して済みません…。長い髪っていうのがあんなに怖いものだとは思いませんでした」
 気恥ずかしそうにイルカは隈の出来た目を擦っている。
「出勤までもう少し時間がありますから、ちょっとだけでも寝たらどうですか?」
 空も白んできたからそろそろ平気だろうと思ってそう声を掛けてみるものの、イルカは困ったように立ちつくしてしまった。もしかしてお化けとかそう人ならざるものの存在に非道く怯える人だったのかもしれない。
「も、もう…今日は良いです、起きています…」
 イルカはそう言いながら、食卓の前に座りテレビを点ける。しかし時間が早すぎてカラーコードか通販番組か、砂嵐しか選べない。
「でも眠いんでしょう?」
 今にもイルカは目蓋を落としてしまいそうな様子でリモコンを握り、しきりにチャンネルを変えている。きっと一人になるのが怖いのだろう。
 悪いことをしたなあと思いつつも、カカシは少しだけ呆れて溜息を吐いた。
「部屋に一人で居るのが怖いならここで眠ればいいじゃない。オレもここに居ますから」
 そのカカシの言葉に、イルカは勢い良く反応した。
「…本当ですか…っ?」
 それは溺れる人の藁をつかむ様に似た必至さで、思わずカカシは二度三度頷く。
「じゃあ、毛布取ってきます…!」
 イルカは顔を喜色に輝かせて、勇んで毛布を取りに一度部屋に戻った。どたどたと激しい足音をたててすぐに布団を引きずり戻ってくると、その内の一枚をカカシに差し出した。座布団を半分に畳んで枕がわりにして、イルカは畳の上に直接横になる。
「なんかこう言うの、合宿みたいで良いですね…!」
 急に目が覚めてしまったようなはつらつとした顔でイルカがカカシに同意を求めてくる。あいにくカカシは合宿などというかわいらしい経験をしたことが無くて、そんなものなのかなあ、と「はあ」と曖昧に返事をしておいた。イルカは楽しそうで、暫く寝付いてくれず、いつもなら面倒くさいと思うはずが、全く苦ではなく、イルカが子供のように無邪気に誘った隣へと寝転がり彼が寝入るまで相手をすることになった。
 それはとても穏やかで満ち足りた時間だった。





「そろそろイルカをアカデミーに戻そうかと思うのじゃが」
 その火影の切り出しに、カカシは渋面になり、イルカは喜んだ。アカデミーや受付などイルカの働いていた部署には当然のごとく万古蘭の影響下にある人間が多い。教師ベテランの域にあるイルカが長い間仕事から離れるというのは、万古蘭のことさえなければ百害あって一利無しだ。一日でも早く現場復帰させたいのが里と現場の本音だろう。イルカも職場を愛しているから復帰を心待ちにしているのは知っている。しかし、そうなれば、カカシの負担が増えるのは火を見るより明らかだ。
「イルカには咄嗟の場合でも万古蘭の効果を遮断できるように特殊なコーティングをした伊達眼鏡で出勤して貰う。それにそろそろ片づけて貰う書庫も無いのじゃよ」
 確かに里にある書庫の多くが片づけの必要な状態ならば、里はきっとたちゆかない。そうそうイルカの手を入れるわけにもいかない所だってあるだろう。
「それで、いつから…!」
 イルカは渋い顔のカカシの様子など気付かずに火影を促す。こっちの苦労も知らないで――――と毒づきたくもなったが、振り返ったイルカが余りにも嬉しそうだったから、一瞬にしてそんな気持ちは失せてしまった。自分の仕事に対してこれだけの熱意を持てることはとても素晴らしいと思うし、邪魔など出来るはずもない。
 結局自分は火影とイルカの二人で決めたことには従ってしまうのだろうな、と落胆して成り行きを見守ることにした。
 そうして決まったことは、イルカの復帰は来週月曜からで、護衛は相変わらずカカシのみ。周囲を巡回している暗部にもそれとなく話は通しておいてくれるらしいが、それでもイルカの様子を見守るのはカカシ一人きりだ。必ず万古蘭抑止用の伊達眼鏡を掛け、大人との接触は必要最低限に抑えること。カカシ以外の人間と二人きりにならないようにどんな場所でもカカシを同行させること。
 それからカカシにはイルカの仕事について口出ししないことを申しつけられた。
「お主の仕事はイルカの監査ではなく護衛兼監視じゃからのう」
「…言われなくても分かっていますよ」
 わざわざ釘を刺されたという事実に、自分がそんな差し出がましい人間に思われているのかと少しだけ釈然としないカカシだったが、この条件が後になって自分を緩やかに苦しめていくことを、このときはまだ知る由もなかった。
 週末にはイルカは喜々としてアカデミーへと出勤する準備を整えて、前日になってようやく届いた特殊フィルタのついた眼鏡を掛けたり外したりという子供のような浮かれようを見せていた。眼鏡はごく普通のメタルフレームのもので、この前かけさせたエビスの色つき眼鏡よりは遥かに似合っていた。
 その楽しそうなイルカの様子を見てカカシは少しだけ苛ついたような気分になる。それが自分のどこから生じる感情なのか把握できていないものの、それが里の決定と己に言い聞かせることで精神の安定を図り、何とか成功していた。
 なぜこんなもやもやとした予感めいたものを感じるのか、当日になってみれば分かるのだろう。



 そして、その当日眼鏡もびしっと決めたイルカが登校するなり、その周りにあっという間に人垣が出来てしまったのをカカシは更に苛立ちながら見ていた。
 イルカの掛けている眼鏡は万古蘭の力を抑制し新たな影響者を出さないためのものであり、一度影響下に入れてしまった人間への効力を無かったことにすることは出来ない。
 今現在イルカが一歩も前に歩き出せないような状況なのに、誰かがイルカに手を出そうとかイルカのことで揉め始めたりしないかぎりカカシには手を出せない。カカシにはそっとイルカを影から見守ることしか出来ずに、いらいらと奥歯に力を込めた。
 授業があと五分で始まるという予鈴を受けてようやくイルカとその周囲を取り巻く十数人の人間が校舎の中へと吸い込まれるようにして入っていくのをカカシは見届けてから、すぐにイルカの担当するクラスを一望できる木陰を見つけてそこに待機する。本鈴が鳴れば流石にイルカにかまけていた教師達も仕事に散っていくだろうと考えていた。
 しかし、カカシの考えは甘かったのだった。いざ本鈴が鳴り暫く経ってもイルカはその教室に姿を現さない。チャイムで席に就いた子供達も時間が経つに連れて遊び出したい己の欲求に歯止めが掛からなくなって、席を立って歩き回ったり、ざわついているのが外からでも簡単に把握できた。
――――あいつら〜…!
 きっと職員室でイルカのことを解放して居ないのだろう。普段の業務にさえ支障を来すほどの影響力を持つイルカの眼力に舌を巻きながら、カカシはアカデミーに駆け込んだ。職員室を見つけるとその扉を遠慮なく開け放ち、視線をぐるりと巡らせれば、イルカを囲む一同が確かにそこにあって、闖入者であるカカシのことを振り返っていた。
「か、カカシ先生…!」
 突然のカカシの出現にぎょっとした取り巻きの中心であるイルカだけが、カカシの姿に反応して、ほっと安堵の表情を浮かべている。その顔を見た途端に、この取り巻き達がイルカに無理強いをしてここに止めていた様子が脳裏に浮かび、カカシは珍しくこめかみにぷちっという音を聞いた。
「あんた達はいつもやってる仕事さえまともに出来ないのか!」
 火影に、仕事について口出しするな、と言われていたことはすっかり忘れて、カカシが上忍の殺気を露わにすれば、何人かが震え上がり、何人かは完全に気圧されてその場で尻餅をつく。
 呆然とするイルカの手を取ると、カカシは暫くまともな機能をしないことが目に見えてわかる職員室を後にした。
「…こんなことが続けばアカデミーが機能しなくなることは分かりますよね」
 カカシは手を引くイルカを振り返らずにそう尋ねる。イルカは弱々しい声で「はい」と応えた。
「もしもアカデミー勤務を続けたいのなら、びしっと言わないと。子供達に迷惑掛けるようならそんな教師は居ない方がましです」
 そう言うと、急にイルカを引く手が重くなる。イルカは立ち止まって、今にも泣きそうな顔をしていた。
「…済みませんでした…」
 イルカは顔を俯けて唇を震わせている。悔しそうな、泣いているようなそんな姿に見えた。
「…俺に謝ったって仕方ないでしょうに…」
 迷惑を被っているのはアカデミー生達の未来だ。もしかしてイルカはそんなところにまで万古蘭の悪影響が及ぶとは思いもしていなくて、彼はそれを悔やんでいるのかもしれない。想像力が貧困なことは思いもしない罪を招くものだと、カカシはイルカの姿を見て思った。
「ほら、行きなさい」
 カカシはイルカの手を引いて彼の担当するクラスの前まで送り届けた。扉の向こうの教室は非道く賑やかなことになっている。既に授業開始から十分は経過していた。
 手を解いたイルカは教室に入る前にカカシを一度振り返り、カカシに向かって丁寧に頭を下げた。
「あなたが居てくれるお陰で、いつもオレは助けられています」
 そして、固まったカカシに泣き笑いの表情で告げる。
「ありがとうございます、カカシ先生」
 硬直したカカシをその場に捨て置いて、イルカは教室の扉を開けた。
「ほらー、席に就け! 授業を始めるぞ!」
 すぐに閉ざされた扉の向こうで、いつもの調子に戻ったイルカの凛とした声と、久しぶりの担任の出現に沸いた子供達の歓声がカカシの耳に届いてようやく我に返った。
 胸の内側に奇妙な感覚の残滓があって、思わずそこに手を宛てた。
 それは特殊な任務の際に抱く緊張感に似ていて、カカシは首を傾げたが、虫の知らせか何かだろうかとその時には歯牙にも掛けなかった。
 その日は一日中その無視の報せの正体を探って気を張っていたのだが、それらしきものの報告はなく、ただ平穏無事にイルカを眺めて過ごしたのだった。



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