MEDUSA
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イルカは知らないようだったが、カカシとイルカが共同生活をする家には何度か侵入者があった。そのどれもがイルカの瞳術にはまった人間ばかりで、少数派ではあるものの中には男も混じっていて、瞳術の効果の高さにカカシは内心驚くばかりだった。
カカシ以外に免疫を持つ人間が見つからず一人で監視と護衛を行うため、満足に眠れない夜が続き、仮眠を取れるのはイルカが仕事に熱中している昼間だけという生活を強いられていたが、それもおおよその期限が切られた。解毒剤の存在が明らかになったためだ。
そして、原因が万古蘭という点眼薬だと判明し、イルカも逃げなくなったため監視の仕事は軽減し、免疫を持つ人間の当たりもつけやすくなったことで、カカシの負担はだいぶ和らぐだろう。
それにしたってあの点眼薬の効果は凄まじい。その影響下に置かれた人間と対峙したことのあるカカシにはそれが催眠とは明らかに一線を画す効果があること身を以て知っていた。イルカを狙うその誰もが生半可な気持ちではなくて、本気の本気なのだ。カカシがイルカを守っていると知り、一度は怯むものの、必ずと言っていいほどイルカのことを拉致監禁する悪漢にカカシを見立てて刃向かってくるのだ。彼を解放するのは自分だと、そう言いながらカカシに伸されてしまう。
もともとイルカに瞳術の素質があったのかもしれないが、他人のため己の命を顧みず敵いもしない相手に楯突かせるのは非道く困難なことで、もしこれが禁薬とならず忍社会に蔓延していたら恐ろしいことになっていたに違いないとカカシはこっそり鳥肌を立てる。効果は絶大で、死や敗北を恐れない軍隊が作られていたことだろう。相手の恐怖を煽り、それを足がかりに相手を攻略していく忍にとってこれほど恐怖の相手はない。
それほどまでにイルカに傾倒している人間の勢いは凄かった。カカシが思わずその勢いを軍隊ならばと置き換えて考えてしまうほどに。
自分の命を省みないほど相手を好きになるとはどういう気持ちなのだろう。カカシには相手から迫られることはあっても迫ったという経験はない。言い換えればそれほどにまで人を好きになった経験がなかった。知識としては知っていても真に理解しているとは思えなかったカカシには、彼らの気持ちに興味があった。
「あの人達はどういう気分なんでしょうね」
カカシは一度イルカに聞いてみたことがある。その時のイルカはむやみにその力を使うことはせず、「少しばかり存在感のある人」に落ち着いていて、妙な圧力を感じることは無かった。
イルカは最初カカシの質問の意味が分からないようだった。
「あなたを追いかけてくる人達ですよ。どういう気分なんでしょう」
「さあ…」
イルカの答えは当事者とは思えない適当さだった。
「どこが好きだとか、どういった気分なのかとか聞いたこと無いので分かりませんし、万古蘭の力を使うときも、そんな具体的なことを念じるわけでもないので」
夕食を食べた後だというのに、寝ころんで煎餅を頬張りながらのその言葉にカカシは無責任という単語を思い浮かべたが、それを口にすることはなかった。自分にもそれが当てはまらないとは言えないからだ。
遊びで関係した女は何人も居た。みんなカカシには優しかったが、カカシはそのどれも本気になれずに、使い捨てのように乗り換えていたのだ。幼い頃はそれでも真実の愛とやらを捜していたのかもしれないが、長じるに連れ、それは惰性に代わり、女性達はすぐに次を求めて離れていこうとするカカシに、悪鬼のように変化した。あんなに優しくしたのに、こんなに愛しているのに――――という言葉を振りかざして彼女たちはカカシを責め、復縁を求めるのに嫌気が差し始めたのがここ数年。すっかり恋愛とは縁遠くなっていたのだが、イルカのこの一件でその地獄絵図を目の当たりにして、再び興味を抱いた。
――――あんな風に人を追い求めるのはどんな気持ちなのだろうか。
イルカを追いかける彼らはイルカに餓えているようにも見え、その餓えは人を窮地に追い込むけれど、強くさせることもしばしばある。
それにもしかして追いかける方は楽しいのかもしれない――――という気もするカカシだ。楽しくなければあれだけ執拗に追ってくる理由が分からないし、その行動に説明が付かない。
恋愛は人を鍛えて、そして楽しい――――カカシにとって未知の世界はこの上なく甘美に見えた。
そして、今彼のすぐ傍にそういった特殊な眼力を持った人物が居る。
その報告を受けたのは自来也を捕まえてからおよそ十日後の午後だった。イルカと二人で日差しが強くなってきたから人気のない木陰で昼食を摂り、イルカの仕事先である書庫に戻れば火影の使いが来ていた。
それは姿の愛らしい白文鳥で、どこから入り込んでいたのか、まだ片づけの終わっていない書類を食んでいた。カカシの姿を見つけるとすぐにその手に停まり、姿を巻物へと変えた。
「呼び出しですか」
うららかな日差しと満たされた腹の具合に眠そうな声でイルカが尋ねる。
「ええ、火影様の呼び出しです」
「ああ、行ってきて下さい…。オレはあなたが来るまで大人しくここで仕事をしていますから…」
離れたところにだが暗部の護衛が二人就くとその呼び出し状にも書かれてあったので、カカシは納得してその場を離れ、火影屋敷へと向かった。書庫から少し離れた木の陰にひっそりと暗部が着いているのを確認し、小さく会釈されたのに片手をあげて返事にした。
火影の執務室でカカシを待っていたのは火影とコハルだ。彼ら二人に加え自来也が今イルカの使用した万古蘭の解毒剤について調査している。
「おお、来たか」
来意も告げずに入ってきたカカシに気付いた火影がカカシを出迎える。
「何か分かりましたか」
この二人がカカシを出迎えると言うことは万古蘭のことについてに他ならない。二人に歩み寄れば彼らは巻物を見ていたようだった。
「自来也からの書簡じゃ。解毒剤のことについて書かれておる。その名は『マライヒ』。摩擦の摩に雷の妃と書いて『摩雷妃』という薬だそうな」
「ただ原料収集と精製、鼠を使った実用試験に時間が掛かるのでな、およそ三週間ほどと言ったところか」
コハルがカカシにそう言いながら自来也からの巻物を差し出した。それを受け取り目を走らせると、薬の調合書を発見した旨とその調合書の写し、それから今後の予定逗留地などが記されている。自来也のその逗留先は悉く薬草の山地として有名なところで、きっとこの摩雷妃精製のために奔走していることだろう。
「イルカにはこのことは内緒にしておれよ。もしかして治したくないと今でも考えておるかもしれんからな」
火影の言葉にカカシは同意を示す。普段の生活では大人しいとはいえ、心の奥底では何を考えているのかカカシでも分からない。それを推し量ることは出来るけれども、カカシの目に映るもの全てが真実とは限らないのだ。
「自来也から材料が届き次第精製に着手する。その時にはまた報せるよ」
「はい」
カカシは自来也からの手紙の内容を全て把握するとそれをコハルの手に戻した。
「それからもう一点。イルカの護衛監視の件じゃが、二名の増員を考えている。お主を含めて三交代にすれば大分仕事も軽減されるだろう」
「免疫のある者の見込みはついたのですか?」
「うむ。万古蘭は瞳術を人工的に編み出す薬で、それにお主の写輪眼は抵抗できた。となれば、他の瞳術も対抗できるのではないかと思ってな。今日向家や観音家に人員を借りられんか打診しておる」
確かにカカシの借り物写輪眼で対抗できた万古蘭だから、その二家の瞳術ならば対抗できるに違いない。これでカカシが四六時中イルカについて回る必要もなくなり、影分身を使って下忍の指導をするというしんどい作業から解放されるのだが――――。
「今のところ一人で十分ですよ。休みが欲しくなったらまた言いますので、その時に」
と、その増員の話を断った。勿論火影も話を聞いていたコハルも怪訝な顔をしていた。
「何じゃお主。最初は増員を望んでおったではないか」
確かにそれは認める。カカシは神妙な顔をして頷いた。
「ええ。ですが最近はイルカ先生も治療と隔離に協力的ですし、今では慣れて、それほど負担には感じなくなりましたので…。三人体制で行うほどのことでは無くなりましたし、新しく着く予定の二人にはもっと別の任務を与えた方が里の利益になると思います…」
もっともらしいことを口から出るに任せて吐き出せば、火影とコハルは現場がそう言うのならばと、納得していたようだった。
イルカとの共同生活は一番最初に思っていたよりも随分と楽だった。最初からイルカはある程度の敬意と遠慮をカカシに対して持ち合わせてくれていたようだし、こちら側に万古蘭の使用を知られてしまって以降はカカシの目を欺こうとする気配さえ見せなくなって、夜も忠実な忍犬たちに警護を任せてぐっすりと眠れる。ただ、料理の腕前がそれほどでもなく食事に不満があったけれども、食べられないことはないし黙っていても作ってくれるので、毎日それを頂いている。
摩雷妃という解毒剤も見つかり、イルカとのその共同生活も期限が切られて、カカシは純然たる好奇心からあることを実行しようとしていた。
イルカの眼を見ようと思っている。それも意識的に写輪眼の自己防衛能力を遮断して。 ともすればこれは里に対して裏切り行為になるかもしれないし、自らの破滅を招くことになるかもしれない。それは分かっているけれども、自らの意志で人を好きになることが出来るのなら試してみたいと思う。子供じみた考えだと思いながらもカカシはそうした気持ちを止められなかった。
イルカが男だから躊躇うとかそんな気持ちは一切無かった。家を襲った万古蘭影響下の人物に男性が混じったとき、自分を含めたイルカの同性でもでもこうなってしまうのかと妙に納得してしまい、嫌悪はまるで感じなかった。
期限が切られているのならばなおさらだ。お手軽にその気持ちを味わえるというのだから見過ごす手はない。
しかし、このところイルカが万古蘭の力を行使することはなく、影響下に置かれている人間も増えていないように見える。カカシとイルカの仮宿を襲撃する人間も徐々に減っていっているような状況で、イルカがその眼で見てくれるかどうかが彼にとって一番の問題点だった。
イルカは自来也の話から察するに女性にフラれそれに悩んだ末、万古蘭を使用することを決意したらしいが、今はその片鱗さえ見せずにめっきり落ち着いてしまい、恋愛はどうでもいいように見える。
自分を見ろと強要するのも変な話だし、自分がイルカならそれは絶対に退くし、絶対に見ない。
では、自分がイルカならどういったときに見ようとするか――――
それを突き詰めて考えて、カカシはようやく一つの案に辿り着き、それを実行する計画を上忍の周到さと狡猾さで着々と整えるのだった。
「カカシ先生…?」
ぼんやりと居間でテレビを見ていたカカシの前にお茶が運ばれてくる。それが毎日の習慣なのかイルカは夕食後に必ずお茶を淹れてくれた。そして買い置きしていた煎餅を二三枚囓る。今日もいつものようにお茶を準備してくれたイルカは普段とカカシの様子が違うことに気が付いた。
「もう裏番組で『マル秘どっきり体験記』が始まりますよ。見なくて良いんですか?」
いつもならば、毎週この時間は勝手にリモコンを操作してイルカが見ている国営放送からお気に入りの民法に変えてしまうカカシなのに、今日はぼんやりとそのまま国営放送を見続け、既にニュースの時間になっている。
「ん〜…」
カカシの気のない返事にイルカが顔を覗き込んでくる。そもそもカカシは家でも口布を外さないし、額宛を外していても写輪眼の左目は閉じたままだから顔色など殆ど分からない。それでもイルカがそう言った行動に出るのは子供達の相手をしている所為だろう。幼い子供達は不意に熱を出したり体調不良になったり不安定だからだ。
「ちょっと失礼しますね」
そう言いながらイルカはそっとカカシの額に触れる。熱を計っているのだろうが、カカシにはイルカの手の方が余程熱く感じた。案の定イルカは「熱は無いようですね」と呟いている。
「いつも一人でオレの監視をしているから、気を張って疲れてるんじゃないですか? 今日くらい早く寝たらどうです?」
「そんなにニュースが見たいんですか…?」
同居して初めの内は一台しかないテレビのチャンネル権で揉めたこともあり、暗にそれを持ち出せばイルカは苦笑した。
「もうそれは諦めてますよ。具合が悪そうだから心配してるんです。一日くらい大丈夫ですよ。安心して寝ていて下さい」
「…分かりました…」
カカシはイルカが淹れてくれたお茶を一口だけ飲むと、それを台所に片づけて先に自室へと退散した。寝る前にカカシは八匹の忍犬を召喚して家を守るように命じ、それからもぞもぞとベッドへと潜り込んだ。
結局その日は何事もなく夜が明け、朝方忍犬達の報告によれば不審人物が一人発見されて建物に近づく前に威嚇して追い払ったと言うことだった。
まだまだ寝たがる体をおして、イルカが用意してくれた朝食を一緒に摂る。それからイルカに急かされながらのろのろと出掛ける準備をして、いつものように影分身を一体作った。本体の方はイルカの警護、影分身は下忍の指導を担当する。
本体のカカシはイルカに伴われて定刻通りに家を出る。分身の方のカカシは一度慰霊碑に寄ってから子供達と合流するのが日課になっていた。
通勤は人とかち合わないようにいつも屋根の上を飛んだ。余程のことがない限り忍は屋根を飛び越えたりしないから絶好の通勤路だった。道なりにではなく真っ直ぐ進むことが出来るから通勤時間の短縮にななったが、郊外に居を移しているので出勤時間はそれまでと変わらない。
タイムカードを押すでもなく、出勤簿にチェックを入れるでもなく、イルカとカカシはまっすぐにイルカの仕事場である書庫へとやってきた。一番最初に宛がわれた場所はもう整理が終了し、二つ目の書庫に仕事場を移していた。
「昨日はよく眠れましたか?」
鍵を開けて中に入り、今日の仕事に取り掛かりながらイルカが不意にカカシにそう尋ねてきた。
「ええ、おかげさまで」
手近なところにある書類の端をテーブルでとんとんと揃えて、手伝いの真似事をしながらカカシは当たり障りのない受け答えをした。しかしイルカは気にした様子も見せずに言葉を続ける。
「昨日は特に何もありませんでしたし、このまま事態は収束するのかもしれないですね」
イルカはどうやら昨日訪れた不審人物には気付かなかったらしい。カカシも気付かない間に忍犬が追い払ってくれたのだから当然と言えば当然だが、容易い思考にカカシは失笑した。
「そうですね、そうかもしれません」
イルカの眼にそのカカシがどう写ったか簡単に想像がつく。イルカはにこやかにそうですよね、と同意を得られたことに満足しているようだった。
「このまま万古蘭の能力が消えたら、影響下にあった人達はそのまま自然にオレのことを忘れて行くんでしょうね」
それでも少しだけ淋しそうにイルカはそう呟いて、本格的に仕事を開始してしまった。きっとカカシもイルカの惜しむその内の一人になるのだろうと、その背中を眺めながら思ったが、勿論カカシはそんなことをイルカに告げる気は更々なくて、その日を楽しみにしていた。
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