MEDUSA
「…やけに正直になりましたね…」
カカシが妙に感心するので、これまでの自分がどう写っていたのかとても知りたくなったイルカだが、懸命にもその衝動は意志の力で押しとどめた。ショックを受けるのは目に見えていたから、その意見を甘んじて受け入れておく。
イルカは、この力に目が眩んでいたのかもしれない、と正直に認め、これからのことを考えた。
火影の決定に従いカカシに監視を任せ、コハルに薬を作って貰い、どうにかこの事態は収束するだろう。ならば自分はこの力がこれ以上他人に影響を及ぼさないようにじっと息を潜めていることしか出来ない。もしも自分が影響を及ぼした人間の一人一人に何らかの治療が必要となるとしたら、事態は深刻だ。
モテた数週間は浮かれきっていて、イルカはそんなことにさえ頭が回らなかった。
確かにあの仙人――――自来也はこの万古蘭の名の由来となった人物について「穏やかな最期を送れなかった」と言っていて、自分ももう少しでそうなってしまうところだった。
「…さて、自来也が捕まるかのう…」
火影は側仕えの忍を呼び、鷹を連れてくるように指示する。
「何か知ってるとしたらあの人しか居ないでしょうけど、放浪癖のある人ですからねえ…」
カカシは自来也のことを良く知っているようで、火影とそんな話をしている。カカシは随分幼い頃から忍をやっている所為か、同世代よりも自分より十以上歳の離れた人間との方が仲良く見えて、イルカには少し羨ましい。
連れてこられた鷹に火影は自ら手紙をくくりつけて、何事か囁くようにその鷹に言い含める。鷹はきょろきょろと首を左右に振り周囲を観察しながら聞いている素振りを見せなかったが、火影が窓辺に連れていくと了承したとばかりに一声高く啼いて空へと羽ばたいていった。
「そもそもあやつがそういう保険無しで同胞に秘薬を渡すとは思えんからな…、そっちの存在は期待できるにしても、いかんせん、居所がなあ…」
「…そうですね…。何処の温泉郷に居ることか…」
カカシと里長は揃ってはあ…と溜息を吐き、イルカはどうすることも出来ずにただ小さくなるばかりだった。
「…せめてどうにか連絡を取れたらいいんじゃがのう…」
火影の『連絡』という単語にびくりとイルカは一瞬体を硬直させた。
何か忘れているような気がして、急にそわそわと落ち着かなくなるが、一体自分が何を忘れているのか思い出せなくて、更に不安が募り始める。
「そもそもあの人は何でイルカ先生にその万古蘭…?ていう薬を渡したの?」
いきなりカカシに水を向けられて自分の世界に片足を突っ込んでいたイルカは思わずびくりと体を震わせた。
「あ、あの取材だと…」
「…さっきもそんなこと言ってたね…。それで?」
「…それでとは…?」
「どんなことを取材していったの?」
取り乱したイルカに苛立つことなく、カカシは言葉を重ねる。火影も黙ってそれを見ていたから、しどろもどろになりつつイルカはその時のやりとりを出来るだけ詳細に伝えようと、記憶を探った。
「そ、その時は…、特に何もなくて、目薬だけ受け取って自宅に戻って資料としての一滴とそれから両目に一滴ずつの三滴使ってから、ガマ松って言うカエルに渡したんです」
「…それじゃあ、全く使用後の効果を自来也の方に報告できて無いじゃない…」
「あの、そうじゃなくて…それから一週間おきに式が来て報告を…書くことに……、……」
イルカがそう言ったところで、一瞬に空気が変わり、イルカもまた青ざめた。
何かを忘れているということは自覚していた。しかし、効果が出てすぐに火影とカカシによって住まいを移されたために一度もその報告書を返信していない。もしかしてあのガマ松のようなどでかいカエルが家に何匹も居たらどうしようと青ざめたのだが、カカシと火影の反応は違った。
「ならば今お主の家に戻ればすぐにでも自来也との連絡が付けられると言うことじゃな!」
と里長は半分興奮した様子で、早速外出の時には必ず身につける火影の笠を被った。
「何をぼんやりとしておる、行くぞ!」
自分の手紙や飛ばせた鷹が無駄になることも厭わず、火影は戸惑うイルカの背中を押してまで案内を促す。まだ陽が高くイルカが通りを歩くには人が多い時間なのだが、問題はないものなのか。助けを求めてイルカはカカシを振り返ると彼は呆れた様子で逸る火影をイルカに代わって押しとどめてくれた。
「少しだけ待ってて下さい。ちょっとオレに考えがありますから…」
そう言うとカカシも一度退室してしまった。
「うーむ…、早くこの事態を打開せんと、いつまで経ってもイルカを受付に入れることができんからなあ…」
という火影のつぶやきを聞いてしまったが、聞き流して置いた。自分は火影のお気に入りだと言うことを知っているが、周囲の目のこともあり公然のことにはしたくなく、それならば触らない方が無難だとこれまでの人生で学習しているからだ。
少しだけお淋しそうだとは思ったものの、木の葉の民全ての父でなければならない人に自分ばかり目を掛けさせるわけにもいかず、時折こちらから突き放すことも必要だとイルカは考えながらも、今回の事態に申し訳ない気持ちで一杯になる。
今後はカカシの目から逃れることを考えるのではなく、元に戻るまでの期間しっかり監視して貰おうと覚悟を決めた。
カカシは退室してから五分と経たずに戻ってきた。相変わらず守り人に取り次いで中から開けられるのを待つでもなく、自ら扉を開け放ったカカシの手には見慣れぬ黒いものがあった。そして、カカシはそれをイルカに差し出す。
「これがあれば多分影響が抑えられるでしょう」
エビスから借りてきました、というそれは黒いサングラスだ。
「……」
コレを掛けろと言うのか。
手に取るのを躊躇うような物体に、イルカは思わず生唾を飲む。エビスの愛好しているサングラスは掛ける人間を選ぶ類のもので、万人向けではなく、自分には到底似合うとは思えなかった。
しかし、火影はそんなイルカの心境など全く汲んでくれず、「おおそれは良い考えだ」などとカカシの行動を評価している。
確かにイルカも好みか否かだけで行動できるような立場でなく、本能が抵抗を感じながらもおずおずとその黒眼鏡を受け取った。畳んであったつるを開き、自分の顔に寄せる段になって手が震えていることに気が付いたが、これ以上迷惑をかけられないという一念で己を捨てて、顔に掛けた。
おそるおそる前を向く。しかし、暗くなった視界の中カカシも里長もイルカが想像した以上に反応が薄く、似合うとか似合わないとかそう言う感想の一切が無く、ただ「それじゃ、行きましょうか」と促されただけだった。それには些か拍子抜けしながらも、変に思われてないのなら構うまいと己を慰めながら先んじて歩く二人に附いていった。
こんな視界で良くもまあエビスは普通に生活できるものだ、と感心しながらイルカは初めての黒眼鏡体験に足下の注意を怠らない。エビスは黒眼鏡のまま夜の宴会に参加したりしていたが、帰りに夜道だからと言って外したところを見たこともなかった。そこら辺が中忍と特別上忍の差なのかなあとぼんやり考えながら、自宅への道を久しぶりに辿る。
里長を連れて歩いているのでどうしても三人は目立ってしまい、街へのお出ましに誰もが里長に声を掛ける事態となり歩みは遅々として進まず、火影は屋敷に戻ることになった。
「自来也から何らかの報せがあったなら急いで教えるのじゃぞ」
一人で戻るのが酷く不服そうに彼は二人何度もそう念を押し、こっそり附いてきていた暗部の護衛を引き連れ帰ってしまった。
「帰ったらきっとコハルさんの大目玉が飛びますよ」
そんな火影の背中を見送りながらカカシはそう呟いた。そう言えばコハルにはイルカの家へ向かうとは一言も告げていない。今まで第一線で働き生きながらえてきた彼女が秘める気性の強さは並み居るくのいちに引けを取らず、烈火のごとく怒り火影に小言を浴びせる姿が脳裏に浮かんだ。
「……ご冥福をお祈りしましょう…」
しんみりとそう呟くカカシにようやくイルカはふっと笑いがこみ上げてくるのを感じた。それだけのことで重かった気持ちを不意に忘れて、少しだけ体が軽くなったような気がする。いつもなら「失礼なことを…!」とカカシに対して憤慨していたかもしれないのに。
「…急ぎましょうか」
カカシに促され、二人は急いでイルカの自宅を目指した。
その場所から十分と掛からないところだが、イルカの影響を考慮して、民家の屋根や塀伝いに真っ直ぐそのアパートを目指した。
そうして、イルカはおよそ一月ぶりに自宅の扉の前に立った。
鍵は常に携帯しているし、いざとなったら針金一本でも開けられる。カカシに連行される前に洗濯物も腐りやすいものも移動してあるから酷い匂いなどはしないはずだ。それが分かっているのに、イルカはその扉を開けることを躊躇った。まるで良い予感がしない。
「…? 開けないんですか?」
自室前で立ちつくすイルカに痺れを切らし、背後のカカシが「鍵、開けましょうか?」なんて言ってくる。
「…い、いえ…大丈夫です…」
イルカはごそごそとポケットを漁り鍵を取りだして、カカシに見せる。カカシは納得したように頷いて、ただイルカが扉を開けるのを待っていた。
何があっても、例えイルカが卒倒したとしてもカカシが何とかしてくれるはず――――イルカは自分にそう言い聞かせて鍵を差し込み、後は勢いのまま鍵を下ろして、扉を開けた。
途端にイルカの視界に入ってきたのは成猫ほどの大きさのカエルが十数匹。彼らは一斉に部屋の主を振り返り途端にゲエエっとまさに合唱を始めた。
「ヒ…ッ!」
ほんの一ヶ月足らず留守にしただけだというのに、想像すらしていなかったカエルの多さに一瞬イルカは視界が白くなったのを感じた。自分の後ろでカカシが酷く低いテンションで「わあ」という声をあげている。カエルは一斉に何かを訴えるようなテンションでしきりに啼き喚き、イルカめがけて跳躍してきた。
「――――ッ!」
まさか、こんな所まで万古蘭の影響が――――と思いながら、カエルのやけに白い腹が降り注いでくるのを目前に、イルカは失神してしまった。
ぼそぼそと人の低い話し声で意識が引き上げられたイルカは、一瞬そこが何処なのか分からなかった。自室だとすぐに分からなかったのは、いつも寝ている方向と逆でベッドに横たわっていた所為だった。
どうして自室で逆さまに寝ているのか分からなくて、イルカはぼんやりとしたまま起きあがった。すると隣室――――台所の方から聞こえていた話し声が途絶え、イルカの起きる気配を察知したのか、顔を覗かせた人物が居た。
「大丈夫ですか、イルカ先生」
そういつもと代わらない穏やかな声色で尋ねてきたのはカカシだった。そこでようやくイルカは自分の家の中に大量のカエルを見て失神したのだと思い出した。カエルは嫌いではないがあれだけ大きくて多いと流石に叫んで逃げ出したくなる。
カカシは一度顔を引っ込めると、グラスに水を汲んできた。思っていた以上にのどが渇いていたようで、イルカはカカシの手の中に水があると認識した途端に視線がそこに縫いつけられたようになって、コップを受け取るなり、ぐうっと一息に呷った。
「…ありがとうございます…」
ただの温い水道水だったのだが酷く甘く感じて、イルカはほうと弛緩した溜息を吐いた。
「邪魔しておるぞ」
ふと台所の方から別の声が掛けられて、その声の主がのっそりとイルカの前に姿を現した。カカシの銀色とも違う白い連獅子のような頭、今にも鴨居に頭をぶつけてしまいそうな長身。独特の装束のその人物はあの日出会った仙人に間違いなかった。
「あ…っ」
「いやあ、すまんかったのう。あんまりにもお主が連絡を寄越さんもんだから、ばっくれやがったと思って嫌がらせにちょいと沢山送りつけてやったんだよ」
そういう男の足下からゲエという一啼きが上がる。ぎょっとして見るとそこには一匹だけカエルが残っていた。近づけないで欲しいと思いながら尻を使ってじりじりとそこから離れるイルカに、自来也はにやにやと笑っているだけだ。
「まあ、火影とこいつに監視されてたらそうもいかんわなあ」
がははと喉の奥まで見えそうなほど豪快に笑い、自来也はばんばんとイルカの肩を叩いた。あの時は酔っていたし振られた直後で変なテンションだったから平気だったものが、今は何だか酷く堪える。自来也の底抜けの明るさについていけないイルカは溜息が零れそうになるのを何とかこらえて、ベッドから立ち上がり台所へと向かった。
「…えーと…、お見苦しいところを見せて済みません…。今お茶でも淹れますので…」
「あーわしゃ、茶よりも酒が良いのう」
そんな自来也の意見を無視してイルカは薬缶を火に掛ける。ふと見上げた時計は既に午後五時を回っていて、イルカは三時間ほど寝ていた計算になる。そろそろ夕食の支度も始めないといけない。カカシはどうするつもりで居るだろうか、とそんなことを考えながら三人分の湯飲みを用意した。勿論揃いの湯飲みなど無いから、イルカの分は普段使いのマグカップになる。
カカシと自来也もごそごそと台所に設えてあるテーブルの方に寄ってきて、めいめいが勝手に椅子に座った。イルカは予備の折り畳みスツールに腰掛けた。
イルカの家の台所はそれほど広い作りではなく、そもそもが一人暮らし用の住居であるから、標準体型より縦の長い男が三人も入ると酷く窮屈で、息苦しささえ感じる。しかしそんな空気を感じているのはイルカだけのようで招かれざる客であるカカシも自来也もリラックスしているようで、居心地の悪さを感じているのはこの部屋の主たるイルカだけだ。
「それで、さっきの話ですけど、結局あるんですか? 解毒剤」
自来也と対峙したカカシが切り出した話題に、急に自来也は真剣な雰囲気になり、一言「ある」と低く呟いた。話が見えなくてイルカはコンロの前の席で首を傾げていると、カカシが「万古蘭のことですよ」と助け船を出してくれた。
「ただのう、まさか万古蘭がそんな禁薬と指定されているとは知らんかったから作り置きなど無い。改めて作るとなればおそらく――――一月…位はかかるだろうのう…」
「…一月…」
それは長いようにも思えたが、万古蘭を実際に試してみて今日までのことを考えるとアッという間だったような気もしてくる。掟破りに知らず荷担してしまった心が焦る気持ちを生んでいるのだと分かっていても、イルカにはやはりどうすることもできない。
イルカは湯を沸かしていたコンロの火を止めて、自来也とカカシの前にグラスを置いた。二人はいきなりのイルカの行動に唖然としていたがそれに構わずに床下収納から一升瓶を取りだしてイルカは二人に見せた。イルカの虎の子、大吟醸「清譚」。カカシはまだ唖然としていたが、自来也はそれを見て顔を喜色に染めた。
「おお、清譚か! なかなか良い酒だ!」
「…い、イルカ先生。まだ早くないですか? それにこれ、火影様に新年の祝いに頂いたものでしょう」
戸惑ったカカシに良いんです、とイルカは首を横に振る。
「オレが浅はかな所為で迷惑をおかけすることになったんだし、この事態を解決することも出来ないので…」
「…殊勝な心がけですけど…、イルカ先生、自来也様が諸悪の根源なんですから、あの人には酒をついであげる必要はありませんよ」
そのカカシの意見に自来也がえーっと子供みたいな抗議の声を上げた。
「だいたい自来也様がなんの確認もなく他人に使おうとするからこういう事態になったんですよ。少しは反省していただかないと」
「自分が使っては客観的なものは書けんだろう。わしも試したかったのじゃが…」
それはもう少し先の人生で…などと呟いた自来也にカカシが一睨みを利かせると、「うそうそ冗談冗談」と取り繕う自来也だが、カカシもイルカも信じていなかった。こんなことが起こらなければ試していたに違いないと確信する。
まるでどちらが年上か分からないようなやりとりを傍目に、イルカは二つのコップに酒を注いだ。
「もう暫くよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げたイルカに自来也が「おう」と返事をしてそのすぐ後にごくごくっという喉を鳴らす音が聞こえた。顔を上げたカカシも苦笑してそのコップを掲げた。
「こちらこそ」
それからイルカは冷凍庫に入れっぱなしだった一月前の肉と野菜で――――忍だから耐性ついている筈――――と念じながら二人に簡単なつまみを作って出した。しかし一時間も経つとそれだけじゃ酒もつまみも足りない宴会に発展して、カカシがわざわざ忍犬を口寄せして買い物に行かせ、三人で深夜近くまで盛り上がり――――結果、早い内に報告するようにとの火影の言葉を無視した形になって、いい大人が三人揃って翌日大目玉を食らったのだった。
火影と会ったその足で自来也は一度住処の山に戻るという。万古蘭の解毒剤のレシピを取りに帰るためだ。その後コハルと協力して精製することを火影と約束させられていた。
「無論無償でじゃ。イルカ、お主も五万両なんて払う必要ないぞ。騙されておったんじゃからな」
最期まで材料費が〜とみみっちいことを言っていたが、その火影の言葉に渋々自来也は了承して出ていってしまった。
カカシの目を盗んで外に出ようとしていたイルカは最早居ないけれども、カカシの目を盗んでイルカの所に来ようとする人物が実は後を絶たないらしいので、監視とは名ばかりの護衛のようなものとして、カカシは継続してイルカの傍につくことになった。
イルカの本心を言えば戻りたくない気持ちも少しだけは残っているけれども、これ以上迷惑を掛けるのは嫌だったし、犯罪者になりたくもない。そして、冷静になった今ではモテている時期がそんなにイイものでも無かったような気がしていて、それならば何故このままがいいと思うのか、イルカは自分の気持ちを把握できずにいた。
ただ、今日も誰にも迷惑を掛けないように一人黙々と書庫の片づけで一日を過ごし、カカシと一緒に郊外の家へと帰る。
今度カカシに適当な色つきの伊達眼鏡を買ってきて貰おう。そうすればイルカ一人でも外出できるし、カカシの負担の軽減にもなるだろうから。
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