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MEDUSA




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 厄介な人間が監視に就いたものだ、とイルカは歯がみする思いだった。
 まさか、あのはたけカカシが自分の監視につくとは思いもしなかった事態だ。
 そもそも万古蘭という点眼薬の効きさえ半信半疑で、その後のことなんてモテることしか想像していなかったのだから、血を見ることや火影やカカシを巻き込む事態に発展することなどイルカの想像の範疇を軽く越えている。
 怪我をしてしまった二人のくのいちにも心を砕いてくれる火影にも申し訳ない気持ちはあるものの、この力の種明かしをするためにはあの仙人のことを話すことになるし、何より喋ってしまうことによって眼力を失ってしまうことに繋がるのではと、イルカは恐れていた。
 木の葉は当代随一の忍の隠れ里。つまりは黙っていたところで早かれ遅かれ何らかの情報をつかんで万古蘭の存在は彼らの知るところになるだろう。それまではせめて我が世の春を楽しむのだと心に決めた。
 決めたのに――――流血事件であっという間に目を付けられたイルカは春を楽しむ間もなくカカシの管理下に置かれる羽目になってしまった。
 浮かれていたという自覚はあるし、ここまでの効果があるとは思いもしなかったイルカはただただ楽しくてその眼力を遣いまくった。最初は遣いすぎて簡単に疲れ、眩暈や頭痛に襲われていたが、だんだんコツを掴んできた。
 ただじっと見つめて少し念じるだけでいい。『あの子可愛いな』とか『ちょっと握ってみたい手だな』と目を見るだけで、その相手はイルカに心を許してくれるようになる。更にうれしい誤算で、ある程度男性にも効果があり、殆どの男性もイルカに甘くなった。残業を変わってくれたりするし、『懐が寂しいな』と思えば昼飯を奢って貰える回数も増えた。勿論それは火影も例外ではなかった。
 しかし、それがあのはたけカカシには一切効かない。
「…何の因果なんだろう…」
 思わずイルカは呟いてしまった。
 はたけカカシに思い人が懸想していた。それからカカシのような眼力を身につけたいと思い万古蘭を使ったイルカ。他の人間にはことごとくイルカの身につけた眼力が効いていくのに、彼にだけは効かない。
 同性にも効くと事実が判明すると、イルカは真っ先にカカシのことを考えた。もし、この力でカカシを下すことが出来れば、それこそ溜飲が下がるというもの。こっそりと会える時を楽しみにしていたし、実際見えたときにはこれでもかと目に力を込めた。しかしカカシは唯一晒された右目を僅かに顰めただけでそれ以上の反応を見せず、期待していただけに落胆は大きかった。そして、この力が万能ではないことにようやく気が付いたのだった。
 そして、カカシは今もイルカに張り付いていて、火影からの命令を鋭意遂行中である。今日もイルカの仕事は余り使われていない書庫の整理だが、カカシはそれを手伝うでもなくイルカの視界に入らないところからしっかりと監視している。
 一度姿が見えず気配も感じられなかったからそれを良いことに書庫から抜け出そうとしたら、書庫から五歩とも離れていない場所で捕まり、凍りそうな冷たい目で見下された。
 天然物の眼力の持ち主には急拵えの眼力など通用しない――――とイルカはそのとききっちちりと心のメモに書き留めながら、猫の子よろしく首根っこを掴まれて書庫に戻されたのだった。
 またこの書庫にいることがかなり心を荒ませる。片づけが必要なくらい散らかっているのは当然のこと、扱っている書類や本の種類は今から二十年ほど前からの処刑記録だ。その一つ一つを確認していき年代別に並べて、刑種別に受刑者と入っている棚をメモしていかなければいけない。
 イルカの思った以上に忍の犯罪者が多い事実に胸が痛くなる。忍は一般人よりも力や特殊能力を持った集団だから、遥かに強者の立場だ。本来は里の民を守るべきなのに、強姦致死や、強盗、強請などが後を絶たず極刑を受けているものも少なからず居た。
 時々その中に知っている名前を見つけると酷く胸が塞ぐ。二十年くらい前で名前を知っているとすればそれは父や母の知り合いである可能性が高いからだ。慰霊碑に無いなと思ったら、こんな所に名を残していたのかと辛くなってくる。慰霊碑に処刑された人間の名前は記されない。
 自分もどこでこうして間違った道を踏むことになるか分からないな、とイルカは嘆息して、また鬱々と仕事に戻るのだった。

 毎日の夕食はカカシが材料を買ってきて四苦八苦しながらイルカが作る。昼食はいつもカカシがどこからか持ってくる弁当。たまにはうどんだとかラーメンとかを食べたい気もするけど、その弁当は非常に旨いので文句はない。昼食は慰霊碑の近くやアカデミーの屋上など人気のない場所にほぼ無理矢理連行されて二人きりで摂る。そのことはあまり味気なかったが、景色が悪いわけでもないし、書庫で食べるよりは随分ましなので文句は無かった。
 それにカカシは想像していたより遥かに親しみやすい人物だった。話しかければきちんと返してくれるし、博学で、イルカの作ったあまり美味しいと言えない夕食も文句の一つも言わずに食べてくれる。
 カカシが監視についてから彼としか喋ってない日々が続いていたけれども、それでもイルカの寂しさは軽微に留まっているのは、カカシが良い話し相手になってくれているからに他ならない。多少の息苦しさを感じながらもイルカはこの生活にようやく慣れてきていた。



 その日は昼食が終わるとイルカは火影屋敷へと連れて行かれた。
「火影様から話があるそうですよ。聞きたいこともあるそうです」
 カカシはイルカを振り返らずにそう言った。今更何の話があるのだろう。それにイルカも話せることは全部話してきたつもりだ。同じことの繰り返しになるのかと思うとうんざりして、カカシが振り返らないことを良いことに逃げてしまおうかとも考えるが、以前に一度試して失敗に終わったので、今度も同じことの繰り返しになるのはイルカでも分かる。あの時のカカシの恐ろしさはなかった。
 まるで連行されていく囚人のようだと自分を客観的に見つめながら、イルカは覚悟を決めてカカシの後に続いた。
 執務室の前に着くと、二人の忍が守る扉をカカシは勝手に開け放ったが、二人は黙認しているのかカカシの行動をただ見守っている。普通ならばどちらかに来意を告げて中に取り次いで貰わなければいけないのだが、今回は例外らしい。それともカカシが例外なのか。
 自ら開け放った扉の中にすたすたと迷い無い足取りで進んでいくカカシに、イルカは二人の忍に会釈をしてから敷居を跨いだ。
 火影は執務机に就き、その傍らにご意見番のコハルを置いて熱心に書類に目を走らせていたが、すぐにカカシとイルカに気が付いて顔を上げる。
「おお、来たか」
 その表情は柔らかいものではなく、何か憂いのあるときの色だとすぐにイルカは理解した。カカシは一言二言火影と言葉を交わしてそのまま窓側に退いた。そして、すぐに里長の視線はイルカへと移った。
「…イルカ…」
「はい」
 神妙な里長の声にイルカの体は一瞬にして芯を持ったかのように直立になる。偉大な火影に従属の意を示すかのように。
「コレに見覚えがあるか」
 と、火影がイルカの顔の前に掲げたのはビニール袋。その中にはラップでくるまれた白い紙が入っていた。
――――それは。
 冷蔵庫の中にしまって置いたはずの万古蘭だ。そう認識した途端に体がびくりと素直に反応してしまった。それをこの場にいる火影もコハルもカカシも見逃しはしない。
「見覚えがあるようじゃな…」
 落胆したような声色で火影はそう断じると、それを執務机の上に置いた。
「い…家を勝手に捜索したんですか…?」
 そのイルカの質問にはカカシが静かな声で応えた。
「冷蔵庫だけですよ。他には何も荒らしていません」
 振り返ってみてもカカシの顔色からはなにも伺うことはできない。それだけに家を荒らしたことに対して罪悪感を抱いていないように見えた。
 いずれ万古蘭の存在は明らかになるとは思っていたがまさかこんな方法で、こんなに早いとは思いもしていなかったイルカは、落胆した。
「お主の異常な眼力はコレのせいだったのだな、イルカ…。お主はコレが何だか知っておったのか…?」
 コハルが年相応の嗄れた声でイルカの返答を促す。
「…点眼薬の『万古蘭』です…」
「…いかにも。禁薬第二種に指定される薬だ」
 その言葉に半ばふてくされて俯けていた顔をばっと上げる。それは初耳だった。
「禁薬第二種…!」
 そんなのは聞いていない。聞いていればそんなものに手を出したりはしなかった。
 禁薬は主に三つに分けられることは薬にそんなに詳しくないイルカでも知っている。
 第一種はその存在だけでも大量殺人を犯してしまえるようなもの。第二種は利用方法如何では大量殺人を引き起こせるもの、第三種は主に医療行為に使われるが使用方法によっては猛毒になるもの。
「『万古蘭』は使用した人間に瞳術の能力を不随する目的で作られたもの。それにより大量の人間を強力な催眠状態に陥らせる効果がある。その結果他人を傷つけあうことも厭わない…、つまり争いの起こりやすい環境を作れる薬で、禁薬第二種に指定されておる」
 確かにイルカを巡ってもう何度か争いが起きている。このまま里長が止めることもなくカカシの監視がなければ、イルカはもっと大きな争いを引き起こしていたかもしれないということで、イルカは思わず鳥肌を立てた。
 それはさっきまで片づけていた書庫にのみ残る忍達の末路を自分に重ねたためだった。
 想像力が欠如していた所為で負わなくてもいい罪を背負った忍達が何人も居た。父の友人だってその内の一人だ。彼らはその無念さを嘆き、己の浅慮さをその報告書の中で悔いていた。
 そうならないようにと、自分も心の中で思っていたはずなのに――――。
「お主がその薬を調剤できないことは分かっておる。お主にそれを渡した人間のことを教えてくれないか」
 こうなってしまえば結局イルカは騙されたものと同じだ。契約者との守秘義務よりも自分の身を守ることを優先しても構わないはずだ。
 イルカは悔しさと己の愚かさを後悔しながら何度も頷いた。
「一月ほど前でした。いきなり声を掛けられたんです。自分のことを元忍の仙人だと名乗る男で、歌舞伎の連獅子みたいな立派な白髪に身の丈が六尺以上もある男で…」
「………」
 そこまで語ると、イルカは何故か場の雰囲気が動揺しているのに気が付いた。カカシでさえ眉を寄せている。
 そのカカシが一歩イルカの方に踏み出してきて、躊躇うように口を挟んだ。
「…その男は、額宛に『油』の一文字がありませんでしたか…?」
 そういえばあったような気がする。木の葉の額宛を確認しようとしたら、角の生えたような変形鉢鉄に油の文字を彫り込んであった。イルカは一つ頷いて肯定を示す。
「…それで、大きな巻物を背負うとらんかったか…」
「背負ってました」
「…カエルを召還せんじゃったか?」
「しました。ガマ松というでっかいヤツを」
 何でみんな知っているような質問を投げかけてくるのだろうと思いながらイルカはそのどれもに応えていく。下駄を履いていなかったかとか、鼻にピアスがなかったかとか、隈取りのような化粧をしてなかったかとか、最早その本人に見当がついているといわんばかりの質問の仕方で、一通りその応酬が終わると、イルカ以外の三人はぐったりと疲れ切っているように見えた。
「…あやつじゃ…」
「あの人ですね…」
 交互に呟かれる彼らの声は酷く沈んでいる。呆れていると言ってもいいかもしれない。
「? 誰なんですか?」
 その質問に火影が溜息を吐きつつイルカに応えてくれた。
「自来也じゃ」
「………」
 名前をぽんと出されてもイルカにはよく分からない。あの仙人の名前は自来也というのか。火影やご意見番より年若そうには見えたが、明らかに自分やカカシよりは二十以上は年上に見えた。
「木の葉の伝説となった三忍を知っているでしょう? 一人は大蛇丸、一人は綱手姫。そしてそのもう一人が」
 と注釈してくれたカカシの言葉にようやくイルカは理解した。
「あの伝説の三忍の自来也っ?!」
 そうは見えなかった。チャクラだって普通だったし、確かに未だに忍として鍛えていそうではあったし、口寄せの術も見事だったが、風変わりなおっさんにしか見えなかった。
「…あ、アレが…伝説の三忍…」
 呆然と呟くイルカをよそに、その呆然とする状態を越してしまった三人は「あやつならばやりそうなことだ…」とおのおのがあきれ果てた声を出していた。
「あやつなら原料となる蘭を隠し持っていたとしてもおかしくないし、精製することも難しく無いだろう」
「え〜…取材…ですかね…」
 ぼんやりと呟かれたカカシの言葉にイルカは我に返る。
「しゅ、取材だって言っていました…! あの人は物書きですよ!」
 そうだ。だから伝説の三忍の一角であるはずがない。
 そう期待していたのに、カカシが困った顔で取りだしたのは一冊の本だった。タイトルには大きく『イチャイチャパラダイス』と頭の良くない文字が踊っている。
「コレの作者が自来也なんですよ…」
 イルカでも知っている官能小説。それの作者が伝説の三忍とは。再びイルカは奈落の底に突き落とされたような感覚を味わう。憧れていただけに落差が激しく、暫く立ち直れそうにない。
「でも相手は自来也だし取材だと言っていたなら万古蘭が瞳術を開眼させるための薬だと知らなかった可能性もありますね…」
「…知らなかったとしても罪は罪。この騒ぎを起こしたことに対して何らかの責任をとって貰わねばならんの…」
 火影はそう苦々しく呟くと、早速書簡をしたため始めた。
「しかしアレは確か余りにも効果が絶大すぎて特効薬のようなものが開発されたはずだが…名前はなんと言ったかな…」
 耄碌してきたかな、と恐ろしいことを呟きながらコハルは一度執務室を出ていった。
「…確かに何らかの対抗措置がなければこの世は薬を使った人間の天下になっていたでしょうから、実在してもおかしくないですね…」
 カカシも真剣に考えてくれているのか、そんなことを零す。確かにカカシの言うとおりのような気がして、イルカは沈んでいた心が徐々に浮き立つのを感じた。
「じゃあ、その方法が見つかればオレは元に戻れるんですね…!」
 そのイルカの言葉にカカシがまじまじとイルカの顔を見つめてくる。まるで真意を伺っているような目つきで。
「…治したく無かったんじゃないんですか?」
 と、問われると、思わずイルカは応えに詰まってしまった。
「さっきもどうやってオレから逃げようか思案していたのに…」
 やはり行動に移さなくてもカカシには雰囲気だとかイルカのちょっとした表情だけで気持ちを読めてしまうのに違いない。治したくなかったこともさっき逃げようと考えていたこともお見通しで、最早イルカには笑うしかない。
「だって、犯罪者になりたくないですから」
 イルカは素直に理由を吐いた。罪を被るくらいなら共犯者を売るのと変わりない行為と見られるかもしれないが、その気持ちを押し隠したところでカカシにはいずれバレてしまうのだろう。
 見透かされてしまうのだ、その本物の眼力で――――。



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