MEDUSA
火影との話が終わって、すぐにカカシはイルカともう一度対面した。火影が結界で封印していた次の間には、ぶすっと不服そうにふくれっ面を見せたイルカがそれでもソファにきちんと座っていた。彼は入ってきた火影を目にするなり立ち上がって里長に詰め寄る。
「火影様! ご意見番からお話を伺いましたけど、オレはいつも通りアカデミーでも受付でも仕事が出来ます! それに監視なんて要りません!」
その剣幕に火影が一瞬腰を引きかけている。カカシもぶわっと爆風を正面から浴びるような衝撃を感じ、咄嗟に身を構えてしまった。
「…あんたは良いかもしれないけど、受付やアカデミーで働いている人に影響が出るんだよ」
こんな衝撃を毎日浴びせられたらたまったもんじゃないだろう。イルカの同僚というならば中忍以下が殆どだろうから、抗う間もなく浚われてしまうに違いない。
「…自分の所為で流血沙汰になったことに反省の気持ちがあるなら、そんな言葉が出てくるとは思えないんだけど」
わざと突き放すような物言いでカカシもイルカにプレッシャーを掛けると、僅かにその衝撃が弱まったように感じ、イルカはすぐに勢いを無くして項垂れてしまった。
「…あなたには不服かもしれないけれど、これが里の決定です。原因が判明するまでオレが四六時中監視することになりますので、よろしく」
小さくはい、と応じたイルカに火影とホムラは揃って安堵の溜息を吐き、その時点でイルカはカカシ預かりの身となった。
思ったより大人しいイルカを連れて、今日はそのまま帰ることになった。家も里で準備してくれた、郊外の一軒家だ。出来るだけ他人と接触しないようにとの配慮らしいが、そこに辿り着くまでが結構遠い。これで買い物だとかその他細々とした仕事が自分の仕事だと思うと、流石に億劫になるカカシだ。
イルカを伴って火影屋敷から出ると、いきなりそれはやってきた。
「あ、イルカ先生!」
急にイルカの名を呼ばわったのは若い女の作られた声。その含みのある声色にぞわりと嫌なものを感じながら振り返ると、一人の女が頬を染めてこちらに駆け寄ってきていた。
「マユナ先生」
彼女の姿を認めたイルカの言葉に、その女性がイルカの同僚だとようやく把握する。しかし、マユナという女のほうはどう見てもイルカをただの同僚だという目で見ていない。彼のすぐ側で立ち止まると僅かに縁起掛かったうるうるとした目で見上げていて、イルカのすぐ側にいるカカシのことなど眼中に無い様子だった。
「火影様のお話は終わりましたか?」
「ええ、無事に」
「もしかして、もう今日は上がりなんですか?」
「火影様がそうしろとおっしゃったので」
彼女の質問ににこやかな顔で応じているイルカは満更でも無さそうで、もしかして、このマユナという女が彼の本命なのだろうかとカカシはぼんやりと考えていた。まあ、マユナは忍としては少し丸い体つきをしているものの、十分に可愛いと形容するに値する容姿でイルカとはお似合いのように見える。
本当は一分一秒だって早く家という名の牢屋にイルカのことをぶち込んでしまいたかったが、カカシも鬼ではないから、そのくらいの逢瀬は仕方ないかと大目に見ていて、一通りの話が終わるまで待っていようと殊勝なことを考えていた。
しかし、マユナとの話が終わる前に、もう一人イルカの姿を発見した女性がマユナと同様に駆け寄ってきた。
「あら〜、イルカ先生! 無事に解放されたのね!」
今度はカカシも一緒に任務をしたことがあるくのいちだ。名前はハルカといったか。彼女はマユナの目の前であるにも関わらず、とてもなれなれしい仕草でイルカの肩を叩き髪に触れた。しかもイルカは避けるような素振りも見せずにハルカの行為を甘受しているがマユナは面白く無さそうな顔をしている。
――――どういうことだ?
と、カカシが首を傾げている間に、もう一人女性がその輪の中に加わってきて、同じようにイルカの注意を引こうと話しかけ始めてしまった。
イルカはその女性のどれもないがしろにせず、ただにこにこと話しかけられるのを楽しんでいるような素振りで、彼女たちはまるでイルカの取り巻きのようになってしまっている図にカカシはようやくはっとした。
彼女たちはあの、イルカの妙な能力の影響下にあるのだと、ようやく気が付いた。そしてカカシが気が付いたときには既に彼の取り巻きは十人近くに増えていて、その内の上忍と思しき女性二人がいつの間にか一触即発の雰囲気に発展していた。イルカや他の女性はただおろおろとその様子を見守っているだけで、止めようとしていない。どうやら流血沙汰はこうして行われたものらしい。
「くそ…っ」
ここでまたその問題を繰り返せば、預かった手前カカシの責任問題にもなるし、もしかして、木の葉に不利益な人物としてイルカは処分されてしまうかもしれない。
カカシは実力行使とばかりにその輪の中に飛び込んで、その今にもぶつかり合いそうな二人のくのいちを昏倒させた。一人は手刀で首筋を打ち据え、もう一人はチャクラを込めた指先で額を一突きするとそれだけで倒れ込む。他の女性も突然現れた(ように見える)カカシに驚いて、硬直していた。
カカシの方が実力では十分に勝っているとはいっても二人のくのいちも上忍。本来の戦いだったならば苦戦を強いられた筈だったが、本当に二人にはカカシの姿など見えていなかったのだろう、一瞬にして弱点を突かれて決着がついてしまった。
カカシは硬直したギャラリーも意識を失ってそこに倒れているくのいちも放ったまま、イルカを米俵のように抱え上げてその場から離脱した。背後に耳をつんざくような高周波とイルカを呼ぶ声が聞こえたような気がしたがカカシは一切振り返らなかったし、速度を緩めたりもしなかった。
「ちょ、ちょっと…っ、カカシ先生…っ!」
暫く硬直していたイルカは、あっという間に変わってしまった風景に我に返ったのか、慰霊碑近くの森に差し掛かった頃カカシの肩の上で暴れだし、流石に自分と殆ど同じ体重のものに重心よりも高いところで暴れられてはバランスを崩すのは必至で、カカシは郊外の草原で足を止めた。
「危ないでしょう。大人しく運ばれていなさい」
「嫌です、自分で歩けます…! それに、何で女の人を殴った上に放って置くんですか!」
もう一度担ぎ上げようとしたカカシの手に抵抗し、イルカはカカシを敵だといわんばかりに睨み付ける。本当に視線で人が殺せそうな視線で射抜かれ、カカシは再びあの衝撃の中に晒されたような感覚を味わう。しかし、それを何とか堪えて口を開いた。
「…あんたは同じ徹を踏む気なんですか? あのまま諍いが発展していたらもう一度流血沙汰になって、今度こそあんたは危険人物として処理されるかもしれないんですよ」
その言葉にイルカはさっと血の気を引かせる。そこまで彼は考えが至ってなかったらしい。浅はかなことだと心中で溜息を吐きながらカカシは続けた。
「これは脅しではないし、本当のことです。もう一度同じことが起きれば、今度はあなただけじゃなくて、あなたを管理するオレも処分対象になります。今さっきのこうどうをそれを弁えた行動とは思えません」
「…だけど、女性達をああやって殴って昏倒させた上に放っておくというのは…」
自分に非があることをようやく自覚したらしいイルカだったが、そこは納得できないらしい。
「…あなたの差別無いフェミニストぶりは感心しますが、見習う気にはなれませんね…。むしろオレには節操がないように感じますよ。女ならば誰でも良いんですか?」
カカシの言葉にイルカはぐうっと言葉に詰まったように口をへの字に曲げる。頑是無い子供のようだ。
「暴走した女性達を抑える力がないのなら、むやみやたらに自分の影響下に入れようとするのはやめなさい。同じ里の人間を傷つけても平気な人だとは思いたくありません」
イルカはカカシの一喝に項垂れて、小さく済みませんと呟いたようだった。
「…火影屋敷の周囲には必ず暗部が詰めています。騒ぎになったところは目と鼻の先ですから、きっとあのくのいち達は彼らが適切な対応をとってくれます」
そもそも、倒れている人間を放っておくような木の葉の民族性ではない。いつ命を摘み取られるか分からない忍社会だから、例えプライベートで仲違いをしていたとしても、任務や火急の場合は協力しあうことの出来る強い仲間意識と理性を持っている。
「さあ、行きますよ」
零れそうになる溜息をどうにか飲み込んでカカシはイルカを促した。
「あの、一度自宅に寄っていって良いですか?」
悪あがきだろうか、とカカシは目を眇める。勝手知ったる自分のテリトリーに誘い入れてカカシから逃げようとするのだろうか。
「…生活に必要なものは大抵揃っていますよ」
別に絡め取る手が隠されていたとしてもカカシには児戯のようなものだろうと予測できるものの、面倒くさいことはしたくない。
「違います…。冷蔵庫に…その、…腐らせるものを入れておきたくないので…」
尤もなことを言いながらもイルカはカカシの目を見ようとしない。きっと他にも理由があるのに違いない。
もしかしてこの事態の原因となった何かがイルカの家に隠されているのかもしれない。どうやらイルカはこの事態に反省はしていても改善する気は無いようだから――――そもそもこんな事態になったときに何か知らないかと火影に尋問されて、何も知らないとしらを切っているのだから――――それを自分の手元に置いておくなり定期的に無事を確認したいのが普通だろう。
カカシはそう思い至り、仕方ないというような顔を取り繕ってイルカに許可を出した。
「但し、一人きりになるのは許しませんよ。忍犬で見張りを付けさせて貰いますし、家まではオレも同行します」
そのカカシの言葉に、イルカは苦笑して頷いたのだった。
イルカの自宅はそこからおよそ五分ほどの住宅街にあり、昼間という所為かあまり人通りはなかった。
「…寮に住んでいるわけじゃないんですね」
そこは普通のアパートで、両隣は一般人の家のようだった。
「…寮は、色々と不都合なので…」
寮に入ったことのないカカシはイルカの言うその不都合さが理解できなかったため、自分で聞いたくせに聞き流した。
「どうぞ」
その言葉にカカシは一瞬状況が理解できず耳を疑った。見ればイルカが自宅の扉を既に開け放っていて、先に中へと入っていて、カカシのことを促しているように見えた。
てっきりカカシは玄関先で待たされるものだろうと思っていただけに、イルカのその行動には少し警戒した。
「…カカシ先生。他の入居者の人々が怖がりますから」
暗に中に入れと強要している声に、カカシは体を適度に緊張させた状態で様子を伺いながら入る。出来るだけイルカの踏んだ所を踏むようにして中へと進んだ。
「カカシ先生は根っからの忍なんですね。そんなに警戒しなくてもトラップなんてありませんよ」
自宅という自分のテリトリーに入ったためかイルカは日常を少し取り戻したようで、薬缶を火に掛けた。どうやらカカシをもてなしてくれる気らしい。
「自分の生活圏にそんなものがあったんじゃおちついて生活できませんし、そんなものなくっても誰もオレなんか狙いませんから」
イルカの言うことは何となく分かるが、それまでカカシは任務以外でこうして他人の家に上がったことがないから、どうして良いか分からない。イルカに勧められるままに寝室兼居間の座布団に腰を落ち着けたが、落ち着くことは無かった。
カカシがそわそわとしているのを尻目にイルカは部屋の中をせせこましく動き回る。腐りやすいものの始末じゃなかったのかと思ったが、カカシは口を挟まなかった。カカシは生活に対して最低限のものが揃っていれば文句はないが、イルカはそういう人種ではないかもしれないからだ。
案の定、彼は
「ああ、返さなきゃいけない小テストが…!」とか「あ、この報告書明後日まで…!」と至る所で大きな独り言を叫んでいる。仕事に誠実なことは誉められるべきことだろうと、カカシはそれを持ち込むことを容認した。
イルカは両手で抱えられる大きさの段ボールを用意すると、そういった細々とした仕事道具と写真たてを一つ、下着などを準備していた。
その間にコンロにかけた湯が沸き、イルカはお茶を淹れてくれた。
「何か、お茶菓子でもあったかな…」
イルカはそう言いながら、冷蔵庫を開け、そして、何かを物色する振りをしながら彼が一点を見つめていることにカカシは気が付いた。にこやかだった表情がぐっと真剣になり、まるで自分の大切なもの見ているような目つきになるが、次の瞬間にはぬぐい去られていた。誰もが見逃してしまうような刹那の変化に、カカシは気づき、そこに何か隠されているのだな、と一瞬にして悟った。
しかし、イルカの変化に気付いたことをおくびにも出さず、カカシはイルカの出してくれた茶に口を付ける。
――――ここを出るときに影分身で調査した方がやりやすい。
カカシはそう判断して、イルカが他にも変な動きを見せないか、本人に気付かれない程度に観察を続けた。
それにしても冷蔵庫の中に大切なものを隠すとは、主婦のような行動を採るなあとカカシはぼんやりと考える。
結局荷物は用意した段ボールに一杯になり――――枕が容積の半分は占めている――――、食材も冷凍保存するにしてもどれだけ家を空けることになるか分からないため、今冷蔵室に入っているもので賞味期限の近いものと野菜を持ち出すことにしたようだった。
「何か足りないものがあったらまた来ても良いですよね」
そう確認を取るイルカにカカシはそのくらいなら構わないだろうと頷くと、何故か彼は心底安心したような表情を見せた。
こんなに気配や感情がだだ漏れで、忍の仕事に従事していても大丈夫なのかと不安になったカカシだが、だからこその中忍なのだと思いだし、こっそりと溜息を吐いた。それで調査の仕事がやりやすいことは確かだが、監視の方は同じ職種なだけにすこしいらいらさせられそうだな――――とようやく肚を括るカカシだった。
そして、郊外の家へと向かう途中に、カカシはイルカの目を盗み影分身でもう一人の自分を作り、本体はそのままイルカの監視を続け、分身はイルカの家の捜索を行うことにして、来た道をとんぼ返りした。
何か発見できれば良いんだけれど。
カカシはそれでも一筋縄でいきそうにもない気配に、小さく頭を振って、その考えを振り払おうとした。
←back|next→