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MEDUSA




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 ピイと高音で啼く鳥の声にカカシは目蓋を持ち上げた。昼休みくらいきちんと取らせて貰いたいと思いながらも、昼寝していた木陰から空を見上げる。一羽の鷹が悠然と風切りバネに空気を孕ませて、下界を睥睨している。火影の疾風だ、と瞬時に理解したカカシは上体を起こた。
 疾風は三回旋回して飛び去った。
 三代目からの呼び出しだ。疾風を遣わせると言うことは至急の用事、三度の旋回は火影屋敷へ。
 カカシは尻や背中に附いた草をはたきながら立ち上がり、大仰に溜息を吐いてから歩き出した。
 そこは郊外にある訓練場を含む木立の中で、カカシは大抵上忍控え室か家か、そこに居る。出来るだけ人目のない場所を選んで、隠れるようにして時間をつぶすのがカカシの常だった。
 なぜならばカカシは見知らぬ人間に声を掛けられることが酷く苦手だからだ。緊張するとか人見知りをするとかそういうことではなくて、ただただ煩わしい。
 一人を許すと、我先に、と次々に人が寄ってくる様はまるでバーゲン時期のセール品にでもなった気分にさせられる。アスマなどに言わせるとそれが『モテている』ということらしいが、自分のように面白みのない人間の何が良いのかといったら、金と名誉を付随した写輪眼だと簡単にあたりを付けられるから更に嫌になって、子供達が居ない場合はこうして人通りのない所へと身を潜めるようになった。引き篭もりだと揶揄されようが、一向に構わない。心安らかな人生を送れるのが一番だと思っている。
 カカシは木立を抜けると、急に誰かが声を掛けてくるのを厭い、火影の『至急』という呼び出しを盾に町中の屋根を跳んだ。
 そのまま高台にある火影屋敷の執務室に窓から入り込む形で呼び出しに応じるカカシのことを、常に屋敷を警戒している忍の誰一人として止めようとはしなかった。
「お呼びでしょうか」
 一般人ならば二三時間かかる道のりをほんの二三分で到着したカカシは、息も切らさずに床に舞い降りた。
 そこには火影の他にもう一人上背の比較的高い男が控えていた。
「お主、出入りは扉からといつも言っておるだろう」
 そんなことを言いながら出迎えた火影は苦笑していて、カカシの所行を本気で窘めようとする気配はない。それよりも、カカシの行動に唖然としているのが、その場に控えている男だ。火影の後ろで金魚のように口をぱくぱくさせている。イルカやエビスのように規則に融通の利かない人間に違いない。
 そういえば、その男は誰かに似ている気がする。
 ようやくカカシはその背の高い男をまじまじと観察してみると、それはカカシの担当する下忍達の元担任イルカだった。
「…え、イルカ先生…?」
 目を剥いたカカシにイルカは怒って良いのか笑ってで迎えて良いのか分からないといった表情でぺこりと頭を下げた。
 カカシの記憶するイルカと余りにも雰囲気が違って見える。容姿が変わったという話ではない。黒髪はいつものように頭のてっぺんで一括りにしてあって相変わらず尻尾のようだったし、格好もいつもの支給服だ。何が変わったのかカカシには分からないけれども、暫く見なかっただけで別人かと思うような空気を纏っている。
 これまではどちらかというと好い意味で空気のような影のような存在だった。これぞ忍と思わせるような目立たない人物であったのに、今はカカシでさえ目を反らすことの出来ない何かを備えている。まるで火影のような大人物がイルカに化けているのではないかと思わせるような存在感で、カカシも気を緩めると、何故か吸い込まれそうな感覚が襲ってくる。
 だから、カカシは思わず警戒した。
 カカシが呼び出された理由にこの男が少なからず関わっていることに気付いてしまったからだ。別にイルカを嫌っているという訳ではないが、ここまで以前とは違う雰囲気を醸し出されると同一人物とは思えないし、何らかの厄介事を抱え込んでいるに違いないのだ。まあ、忍の仕事の殆どが、その厄介事の延長上にある後始末であるのだが――――。
「良く来てくれた。…まあ、座れ…」
 火影がそう促し、ようやくカカシは自分の思考から引き戻される。火影の勧めるままに執務机の前に設えられた応接セットに腰掛けた。イルカはカカシと火影が移動するのに着いてきて、火影の後ろに控える。
「お主らは顔見知りじゃったよな」
「…はい。うずまきナルト、うちはサスケ、春野サクラを通して、何度か…」
 そのカカシの言葉にイルカも同調するように頷いた。しかし、下忍を通じてと言うならば自分よりも社交性の塊のようなアスマや紅の方がイルカと仲良くしていたはずだ。しかし、彼らはその場に居ない。
 カカシの担当する三人の内の誰かに何か起こったのだろうか。カカシとイルカの共通点は他にない。
 しかし、次に火影の口から発せられた言葉は意外な言葉だった。
「カカシ。お主、このイルカを暫く監視してくれ」
 監視。
 思わずカカシは火影の後ろに控えるイルカに視線を寄越すと、彼は酷く不満そうな顔をしていた。
「…はあ?」
 火影の言っていることが理解できない。言葉面は理解できるが、その必要性は全く感じられなかったからだ。
 確かにイルカは以前と別人のように雰囲気を変えているけれど、それでも身の内から滲み出るチャクラの本質は変わっていない。誰かがすり替わったのではないということはカカシでも分かる。偉大な三代目がそれに気付かないはずがない。
 しかも、本人の目の前でそれを任命するというのはどういうことなのか。
「…イルカ先生は命でも狙われていると言うんですか?」
 そのカカシの質問に火影は苦笑した。
「当たらずとも遠からずじゃ」
 アカデミー勤務で受付に座る内勤の中忍を誰が狙うというのか。カカシは火影の言っていることがやはり納得できずに首を傾げる。
「……ついにぼけちゃいましたか…?」
 火影を指さし、彼の人の背後に控えるイルカに視線を向けてそう問えば、イルカが応える前に一気に怒気が膨らんだ。
「わしゃまだぼけとらんっ! 人の話は最後まで黙って聞いておれ!」
 薄い皮膚に浮かんだ血管が今にもはち切れてしまいそうな勢いで火影は立ち上がり、カカシを窘めた。
「どいつもこいつもお前らの世代はまともなことを考えるヤツはおらんのかっ!」
 火影は酷く憤慨した様子で鼻息荒く、元のソファに落ち着く。どうやら、彼の柔らかい部分をつついてしまったらしい。老いを自覚し、否定できない悲しさを自分よりも若い人間に指摘されてつい激昂してしまったか。
「…まあ、わしのことはいい…。惚けてもおらんし、狂ったのでもない。しかし、流石じゃ…。このイルカを前にして流石にお主は平静で居られるらしい。やはり思ったとおり適任じゃ」
 それはさっきの監視の話か。
「…それで、どういうことなんでしょう、イルカ先生に監視を付けるって」
 こんな人畜無害な人に監視を付けること自体狂っているというよりも無駄だとしか思えないのだが、それが里長の決定ならば従わざるを得ない。しかし、それには理由が欲しかった。
「…お主、最近受付に行っておるかいの」
「…いいえ、報告書の練習をかねて三人に順番で行くように指示しているので…」
 受付は人が多いから鬼門だ。常識の無い人間は子供達が側に居ようが居るまいが構わずにカカシの気を引こうとする。
「…ホムラ!」
 火影が次の間に向かってそう声を掛けると、すぐに里長と同期であるご意見番のホムラが姿を現した。
「イルカを次の間に連れていき、見張っておいてくれ…」
「…うむ」
 カカシはその老人二人のやりとりに少なからず驚いた。木の葉の頂点とも言える二人の忍がこうして必ず一人イルカという一介の中忍に付き添っているという事実にだ。
「火影様、オレもここに…」
「ならん」
 しかし、イルカは火影の判断が不服なのか、ホムラに抗い、里長に食い下がる。
「コレはだってオレが当事者でしょう…!」
 そのイルカの意見はもっともらしく聞こえたが、論外だ。それに火影も気付いているのだろうがイルカ可愛さにあまり強く言えないようで、言葉を躊躇い、何度も口を開けては閉じ、金魚のようにぱくぱくさせる羽目になった。
「違いますよ、イルカ先生」
 仕方なくカカシが口を挟む。すっと視線が自分に向けられるのに気付き、何かぞくりとしたものを感じたが、平静を装い言葉を続ける。
「たとえば犯罪者は裁判官たちが話し合う罪状決定の場に参加することが出来ますか? 今のあなたはそういう立場だと考えた方がいいんじゃないですか?」
 そのカカシの言葉に少し傷ついたような顔をして、イルカは一度火影の顔を伺ったが、翁が小さく頷き、落胆したようだった。
「…オレは今、災いをもたらす存在と等しいということですね…」
 イルカは妙に沈んだ声でそう吐き出し、ホムラが促した手に従って次の間に姿を消した。
 その瞬間にどっとカカシの体から力が抜ける。
 どうやら自分は思った以上にイルカの前で緊張を強いられていたらしい。滲んだ汗を感じながら、背もたれに体を預けた。
「やはりお主でも相当のプレッシャーがかかっておるようじゃのう…」
「何なんですか、アレは…。ちょっと異常ですよね…?」
「…それが、わしやホムラには余り感じんのじゃよ。いつものイルカのようだとしか思えん…」
 人生経験豊富で、人を見る目の確かな火影が気付かないという事実にカカシは首を傾げた。あんなにあからさまに変わっているというのに。カカシの抱いたその疑問に気が付いたのか、火影はカカシをちらりと見て深々と溜息を吐き切り出した。
「どうやら、イルカと年齢の近い十代後半から三十半ばまでに影響が色濃く出るようじゃ…」
「歳が近いと…?」
「さっき、受付にはあまり行ってないと言っておったな。ならば、ここ最近の騒ぎは知らんじゃろう…。この半月ほど何と言っていいか…」
そこで火影は妙に歯切れが悪くなり、カカシから視線を逸らす。
「その…イルカがあまりにモテて、ついに昨日その寵を求めた結果流血沙汰にまで発展したのじゃ…」
 一度言いよどんだ火影の口から零れた言葉は意外な内容だった。
 寵を求めて、流血沙汰。
 しかも、イルカの、寵。
 お世辞にもイルカはあまりモテるようには思えない。彼の価値が高まるのは今ではなく、人間がもう少し性に落ち着きを見せ始める三十代…もう少し先のような気がする。
 しかし、あそこまで変わってしまったイルカの雰囲気を鑑みれば、理解できるような気になる。以前のイルカだったらまずあり得ないだろうが、カカシでさえ少し気を抜いてしまえば脳味噌から支配されそうな気分になってくる今のイルカは確かに危険かもしれない。
「…何らかの術ですか…?」
「うーむ、こう言っては何だが、イルカにそうのような傑出した才能があったなら昔の内に発露しておろうし、中には幻術に強い上忍や暗部上がりも含まれる。今のところ良く分からんのだ…」
 しかし、イルカを退室させたと言うことは彼本人が何らかの鍵を握っていることは間違いないと火影も考えているのだろう。
「…それが効果はどうやら、イルカの恋愛対象たる年齢範囲に顕著な効果が見られるようなのだ…」
 妙に落胆したような火影のその声色にさっきのボケ発言に敏感に反応した理由がここにあったのかとようやく納得した。孫とも息子とも可愛がっているイルカに大切に思われていないとでも感じたのだろう。
 木の葉の忍のトップに君臨する男がなんと人間くさいことだとカカシは少しだけ苦笑したが、人間でないものの下に付く程自分は野心家ではないし、人でない限り真に人を理解し纏めることなど出来ないから、カカシはそれで良いと思う。
 もし恋愛対象として意識されてないのが悔しいというのであるならば、それは少し問題だが。
「…耐性を辛うじて持っているのはお主だけのようじゃ。他の人間はイルカと目が合っただけで傾倒してしまうような者達ばかりだからのう…」
「…そんなに強い力なんですか…」
「…うむ。儂が気付かずにそのまま受付に置いていたため、かなりの被害者…と言うていいもんかのう…。感染者…が出ておる…。監視するお主は否が応にもその効果を目の当たりにするじゃろう」
 火影は疲れ果てた様子で、書類を取りだしカカシに手渡した。
「今日から事態の改善が見られるまで頼む…。イルカの仕事場までの送り迎えや、家庭での監視もな…。手の空いた者、他に耐性のある者が分かれば手伝いに寄越すということでいいかのう」
「…構いませんが…、その古参の忍の手を借りるという訳にはいかないんですか? イルカ先生の恋愛対象年齢から外れていれば効果は薄いんでしょう?」
「うむ…それが、効果が薄いと言うだけで、効果は出てしまうのじゃよ…。どれだけ忍としてイルカより優れた者であろうとも簡単に逃がしてしまうのじゃ…」
「…逃がしてしまう…」
 言外に試したのだと里長は言っている。ということはイルカが今さっきまでここで大人しくしていたのは、火影の威厳と権限の賜としか言えないということか。そしてそれはつまり、続きの間でイルカが大人しくしているという保障もない、ということに気が付いて、カカシはホムラに付き添われてイルカが消えた部屋に視線を向ける。
「…大丈夫じゃ…。儂にしかやぶれん結界を張っておる…ホムラをいかに籠絡しようともイルカはあそこからは出られん…」
 火影限定という限定つき結界はそれだけに制約がかかり、継続できる時間も短い。今はこうしてカカシと火影が話している間くらいの時間は保っても、それが二四時間三六五日対応しろ言うのは無理な話だ。そして、耐久時間を長くするために限定を解けば、イルカ自身には解けなくても、イルカに籠絡された何ものかが外から解除してしまう可能性も考えられる。
「…それで、どうして、こんな事態になってオレを試してみようと思われたんですか? 下手を打てばオレもイルカ先生の虜になってたかもしれないんですよね」
 カカシがイルカの影響下に置かれ、火影の意志を代行することができる人間が居なくなってしまえば、この木の葉の里はほぼイルカに乗っ取られたと言っても過言ではない状態になってしまう。イルカが望めば火影の命令が絶対でない隠里になるかもしれなかった。
 火影はそんなカカシの質問に自分の左目の目尻を指先でこつこつと示した。
「写輪眼じゃよ」
 そう言われてはっとカカシは斜めにかかった額宛に手を触れる。
「写輪眼は無意識に未来を読む力が備わっているから、もしかしてイルカの妙な力に対抗する力もあるのではないか、と思ってな…」
「…半ば賭けじゃないですか…」
 妙な火影の論理に、結局それが正しかったから良かったものの、カカシは重々しい息を吐いた。
 この里で写輪眼保持者はカカシともう一人うちはの遺児、サスケの二人。その内サスケはまだ下忍で、優秀とはいえ経験豊富なイルカに叶うとは思えず、監視役は消去法で自然とカカシの役目になる。
「…しかたありませんね…」
 イルカが無自覚とはいえ里に害をなすような存在ならば仕方ない。
「出来るだけ早めに補充をお願いします。原因の追及も。こちらでもいくらか探ってみますが…、やはり一人ではしんどいので」
「頼む」
 火影はやはり力無いまま、執務机まで書類を取りに立ち上がり、カカシにそれを差し出した。
「イルカの調書と今後の予定についてじゃ」
 カカシはそれを受け取り、ぱらぱらとめくって中身を簡単に確認する。火影は元のように椅子に腰掛けて、キセルをふかし始めた。
 調書には術の効果に関する考察や、薬草別の薬の服用記録など、あらゆる角度からイルカの変化の原因を見つけだそうと躍起になっているのが見て取られる。イルカの両親やその親、血についてまで言及してあった。そして、その調書の最後にイルカの今後の仕事先について指令書が挟んである。イルカはその特異さのため、暫くは人と接することのない書庫の片づけや、巻物管理室の片づけなどが仕事となっている。流石にアカデミーや受付には入れないようになっている。
 改めて、ここまで警戒することなのか、と少しだけカカシは訝しんだが、火影の決定はカカシにもイルカにも絶対だ。
「…まあ、まだよく事態の把握が出来ていませんが…、ご期待に添えるように努力しましょう」
「…おいおい分かるわい…」
 あまり旨く無さそうにけむりを吐き出しながら里長はそう疲れたように呟いた。この件で一気に老け込んでしまったように見えた。



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