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MEDUSA




 しかし――――。
「何が目的なんですか…?」
 流石に酔いの回った脳味噌でも何か交換条件を持ち出されるだろうという予想がつく。だからイルカは欲しいという意思表示の後に法外な金をふっかけられる前に先手を打った。
「…お金はあんまり持っていませんし、忍の情報を漏らせと言うのであればそれはお断りします…」
 そうだ、この仙人はもしかしたら受付勤務であるイルカに近づき木の葉の忍の情報を得ようとしているのかもしれない。
「…まあ察しがいいのう。見ての通りわしゃああんまり金を持っとらん。だから少しばかりの金とこの薬の体験レポートで手を打ちたいんじゃが」
「…いくらくらいですか…?」
「これだけ」
 そう言いながら、仙人が右手をめいいっぱい開いてイルカの目の前に提示する。五本指。詰まり五十万両――――
「五十万両っ!」
 おもわずイルカが声に出してしまう。それはイルカが任務に出ず里の仕事のみに従事した場合の給料約一年分に相当する。いくら貯金があるからといってそんな額は出せない。忍として働ける年数は他の職業よりもきわめて短いから、貯金をしておかなければ老後が辛い。しかし、それでもモテればヒモとしても生きていけるのじゃないか――――とちらりと自分の中の悪魔が囁いたその瞬間だった。
「……何を言っておるんじゃ」
 仙人が酷く呆れたような声を出すから我に返ってみれば、彼は手負いの動物を哀れむような目でイルカのことを見ている。
「…薄給の中忍から五十万両も取れるわけないわい…。五万じゃ、五万」
 五万でもそれでもイルカの基本給二ヶ月分の高額だが、気持ちは酷く揺らいだ。もしも騙されていたら目も当てられない状況だが、それでも振られた直後で気持ちはどん底、藁にも縋りたい。長い独り身に心はすきま風どころか吹きッ晒しの状況なのだ。ここでどうしても人生の一山を当てたい気持ちが理性を包み込み、大きく迫り出そうとしている。
 自分の溢れんばかりの堅実さと心を吹き抜ける季節はずれの風とに左右されながらイルカの肚は据わるところを手探りで改める。
 しかし、悠長にイルカの結論を待っている仙人でもなく。
「おいおい、そんなに考え込むようなことかのう…? この目薬、市場で売ればそれこそ五十万は下らん代物だぞ」
「…その五十万両を下らない品をどうしてオレに五万で売ろうとしているのか理解できないから悩んで居るんですよ…」
 普段のイルカならばこんな取引よくよく聞きもせずに断ったことだろう、余りにも胡散臭すぎる。
「ふむ。尤もな意見だのう」
 仙人は四角の顎を指で一撫でしながら少しばかり思案して、イルカに向き直った。
「じゃあ、こうしたらどうかのう。効果がなければ金は返そう。ワシが真実欲しいのは報告書の方だからのう。報告書を貰うためにこっちから週に一度式を送るから、三度目の報告の時にこちらに送金してくれればいい。効果がないと思えばその時の支払い義務は発生しない」
 これでどうだ、と彼が提案してきた内容はイルカに良心的なものだった。この仙人は物書きも兼業していると言っていたからその取材も兼ねているのだろう。騙される可能性も低いし、定期的に連絡を取り合うことで少しばかり相手を信頼できるような気がする。
 それにコレを断ればこの仙人は二度と自分の目の前に現れないように思える。つまり、この『万古蘭』という惚れ薬を手に入れるのはこのチャンスが最初で最後。
「…報告書というのはどんなものを…?」
 そのイルカの乗り気な質問に仙人の目が一瞬きらりと光ったが俯いて頭をフル回転させていたイルカには気が付かなかった。
「なあに、式と共に一緒にワシが聞きたいことをメモした紙を入れておく。それに回答することと、あとは自分で思うことや体の調子だとか、そんなもんだのう」
 それならイルカがアカデミーや受付で書いている日誌のようなものと同じだ。大した負担にはならないだろう。
「ただ、幾つか条件があるんだが…」
 条件…と思わず呟いたイルカにばつが悪そうに仙人は頷く。
「ワシと接触したことは誰にも口外せんで欲しい。それと、この万古蘭は原料の蘭が絶滅して非常に貴重だから、二三滴しかやれない」
 つまり一度しか指せないということか。
「…それで、効果は十分にあるんですか?」
「やや効きは遅くなるかもしれんが、それでも効果は十分にあると考えている…」
 イルカは真剣に悩み、思わず唸ってしまった。
「…もし、それで目を痛めた場合は…?」
「ううむ、そうじゃのう…。ワシが解毒薬を作るしかないだろうのう。その場合は金は貰わんし、解毒薬も無料にしておこう」
 見知らぬ人間の作った見知らぬ惚れ薬である目薬を今この場で差すことには少しばかり抵抗があったが、保障を聞くと試してみても良いかなという気になってくる。もしかしてエステ店の前で後込みしている女性というのはこういう気持ちなのかもしれないとイルカはふと思った。
「…どうかのう…?」
 そう促す仙人の声にイルカの気持ちは固まった。こんなに譲歩してくれているのだから、営利目的だとしても、本当にその薬の効果が高いのに違いない。
「か、買います…!」
 この一言でイルカの人生は代わるのだとそう信じてイルカは大きく仙人に頷いて見せた。
「それじゃあ、契約成立だのう」
 仙人はすっとイルカに右手を差し出してきた。契約成立の握手だろう。イルカは少し躊躇って、それから意を決しその手を握った。
 これからモテるようになるのだと、未来を夢見て。
 仙人はその握手を振りほどくと何の疑いもなくイルカに万古蘭の小瓶を握らせた。元忍という割にあまり人を疑わない性格なのだろうか。
「それは一時お主に預けるわい。目薬を使用してから暫くは目を休ませる――――目の回復に専念した方がいいでのう」
 仙人はそう言うと親指のかさぶたを噛み、溢れた血で口寄せの術を行った。ぽわんとした白煙の中から姿を現したのは土ガエルだ。しかも妙に大きく、大きめの猫以上に大きい。もしアレが自分の顔にめがけて飛びついてきたら、叫ばずに居られる自信がないとイルカは冷や汗を流した。
「こいつはガマ松だ。本来のカエルに近いため言葉は喋れんが、理解は出来る。こいつを家まで連れていき、寝る前に目薬を差した後ガマ松に目薬を渡してくれればいい」
「これ、小分けにしなくて良いんですか…?」
 予め値段を聞いてしまっているイルカはその片手が余るほど小さな小瓶を両手で捧げ持ち、仙人に突きつける。
「小瓶に分けたくても一度分しか与えられないから仕方ないだろう。乾いた瓶に二滴ばかり分けたところで、使用の際には瓶の内側のお湿り程度にしかなるまい」
 そうかもしれない、とイルカは納得して、小さく何度か頷きながら手を自分の元に引き寄せた。
「両目に一滴ずつで十分だからのう。それ以上は無意味だ」
「はい」
 ガマ松に家を覚えさせて、今後の報告書の受け渡しに利用するのだという。ちょっと不気味だがこの仙人に附いてこられるよりはましだとイルカは自分を納得させた。
「両目に一滴ずつで十分だからな」
 と念を押す仙人に見送られて、イルカはガマ松を伴い帰宅した。
 玄関先で古い洗面器に水を張ってガマ松に与えると、彼は嬉々としてその中に入り込んだのでそこで待たせて、手早くシャワーを浴びる。目薬を差した後すぐに就寝できる準備を整えることに専念した。時々ガマ松は待ちくたびれたのか、玄関先に飛び回る小バエを捕らえてもぐもぐと口を動かしているのをイルカは見てしまい、ちょっとした気味の悪さを抱きながら、一方でなかなか根絶できない小バエ除去にお役立ちだなと感心してしまった。
 翌日の仕事の準備を済ませて、明日の朝食の米を仕込めば、あとは寝るだけだ。
 そこでガマ松からは見えない部屋の隅に万古蘭を持ち込むと、用意していた和紙に一滴だけ垂らして、揮発しない内にラップでくるんだ。それをそっとサイドボードに仕舞うと、改めてガマ松の前で蓋を外して両目にさして見せた。
 何か刺激があると思いきや、瞬きしても違和感はまるでなく、拍子抜けした気分で周囲を伺う。世界がピンク色に染まるのかと期待していただけに、いつもと変わらない部屋の様子にイルカは少しだけ落胆した。
 しかし、仙人は遅効性だと言っていたし、今はイルカの恋愛対象たる妙齢の女性が側に居ないのだから真価など図りようもない。余りにも日常の延長線だったために拍子抜けした気持ちを持て余しながらイルカは万古蘭の瓶をガマ松に差し出した。
「コレをお前のご主人の元まで運んでくれるか」
 どうやって持ち帰るのだろうと興味津々で眺めているとそのカエルは、にゅっと首を伸ばして口に銜えると、そのまま小瓶を丸飲みにしてしまった。
「――――!」
 丸飲みはカエルの天敵である蛇の専売特許じゃないのか、とか、肚をかっさばいて取り出すのだろうかとか、体が硬直している内に思考はぐるぐると回ったが、ガマ松は平然とした顔でゲエっと喉を鳴らすと古い洗面器から這い出て、そのまま外へと旅立ってしまった。
「………」
 五十万両は下らない薬の返却方法は本当にアレで良かったのだろうか、不安になりながらも、イルカは洗面器を片づけ、玄関に施錠すると、寝室に戻ってサイドボードの中身を改めた。
 万古蘭を染み込ませた和紙。ラップでくるんだ上から、ジッパーで密封できるタイプの厚手のビニール袋に入れて空気を抜き、そっと冷蔵庫の奥に忍ばせる。薬品の保存は冷暗所が基本だ。
 これで、もし何か問題が起きてしまった場合、火影に渡せばどうにか対応してくれるだろう。そんな状況に陥れば自分の立場も相当危ういが、保険を掛けておく必要がある。
 あの筋骨隆々の仙人に心の中で謝りながら、イルカはようやくベッドに潜り込み、明かりを消して就寝したのだった。
 その日の夢は余りにもモテすぎたイルカが女の子達に追いかけられると言うきわめてアレな内容だった。夢の中では誰も、彼を可哀想だと言う人間は居ない、真剣そのものの展開だった。



 翌日目すっきり目覚めたイルカは目に違和感を感じることなく起きだし、いつもと変わらず出勤の用意をした。ただ、目を洗って効果が落ちるのを恐れたイルカは、洗顔の際に慎重に目から下だけに水を掛けて。タオルで拭くときも目を擦らないように気を付けた。鏡に顔を近づけて、綿棒で目脂を取るという念の入れようだ。
 どんな効果が出るのか楽しみにしながら家を出て、本日午前中の勤務先であるアカデミーへと向かう。
 思いの外万古蘭に期待する気持ちは大きく、自然と胸を張って歩いてしまう。たかだか数滴の薬があるだけでこんなに気分が違うのかと、自分でも驚くほどに清々しい朝に感じた。
 注意深く周囲を観察してみても、通り過ぎる人々には、イルカに対して変化を見せない。実はこっそり、翌日には振り返らない女性は居ない――――くらいの効果を期待していたイルカはこの日常と変わらない空気に落胆するが、遅効性遅効性と己に言い聞かせて、アカデミーまで歩いた。
 アカデミーに着いてからもイルカの期待するような変化は何も得られなかった。
「おう、イルカおはよう」
「昨日は悪かったな、オレ達飲み過ぎてたろ」
 ――――と、普段と代わり映えしない挨拶で迎えられて、項垂れた。同性の同僚も少しは気が付いてくれて「お前何か変わったか…?」くらいのことは言ってくれるような気がしていたのだ。
 もしかしてこの万古蘭という薬本物じゃないのかもしれない。薬を使用してほんの一日目の通勤時間だけでイルカは騙されたんじゃないか、と考え込みながら自分の席に就き、始業の準備を始めた。
 授業が始まってしまうとそれどころではなくなった。子供達から無理難題をふっかけられ、軽く玩具にされて、もみくちゃになりながら体術や忍としての心得をどうにかこうにか叩き込んでいく。
 厳しい戦争の時代に生まれたイルカたち教師と平和の中で何不自由なく育った子供達との世代差に戸惑い嘆きやめていく教師も多い中、イルカに教師としての仕事は不思議と苦ではなかった。先生、先生と駆け寄ってきてくれる子供達は可愛いし、先生のお陰でコレが出来るようになったよ、と言われれば単純に嬉しく、苦しみよりも歓びの方が勝っていたからだ。
 今日もそんな一筋縄ではいかない子供達の相手をしながら午前中は何一つ問題を起こさずに過ごすことができた。
 子供達を午前中で帰した後は少しばかり昼を割り込むまで事務作業に没頭し、それが終了すると受付に向かった。ようやくそれから受付に併設されている食堂で遅めの昼食を摂る。
 割安で提供される今日のランチはAもBも売り切れてしまっていて、仕方なくイルカはメニューの中でも一番安い天ぷらうどんを頼んだ。冷凍のうどんを使っているけれど、かぶせがイルカの好みで時々思い出したかのように食べる。
 お昼休みは既に終了している時間にも関わらず食堂には人が多い。受付の仕事でない忍や忍ですらない一般人も憩いに来ているから、食堂はいつだって人が絶えなかった。イルカはぱっと空いている席を見繕って座り、さっさとうどんをかき込んだ。
 イルカの休憩時間は短い。あと三十分ほどで受付に行かないと遅刻になってしまう。しかし、あつあつで湯気の立つうどんは、猫舌であるイルカに容赦なくハードルは酷く高い。選択を誤ったかなと後悔しながら少量ずつを丁寧に吹き冷まして口に運ぶこととなった。
 その時、急にざわっと空気が揺れたような感じがした。と言っても戦闘中の身の毛のよだつようなざわめきではなく、賑やかな空気のそれだ。人の明るい声が空気を震わせているように感じてイルカは顔を上げてみれば、ちょうど数人の女性が休憩のためか食堂の中に入ってきたところだった。受付で見る顔ばかりが揃っている。
 華やかだなあ、と横目でちらちら見ていると、その中の二三人と目があった。イルカが彼女たちの顔を知っていたことと同様に彼女たちもイルカのことを覚えていたらしく、視線が合うと優雅な仕草で会釈をして行ってしまう。
 この程度のことで幸せを感じてしまう自分は女性に対して理想が低いと意識しながらも、少しの間その幸福を調味料にしながらイルカはうどんを啜った。
 何とか時間内に掻き込んで冷たいお茶で一服すると、すぐに受付に入った。大童だったにもかかわらず、イルカの担当時間の五分前でしかなくて、にわか仕込みの引継となった。
 受付に入ってみれば、早めに終了した本日の任務報告の波が押し寄せてきていて、座ったり立ったりと忙しない。火影が不在時に、高ランク任務内容の確認が必要になった場合は報告書を預かって、火影の確認を頂いてから任務遂行者立ち会いの元受領となるので、受付も提出する忍も一苦労だ。
 里を機能させていくには一日に平均何百という任務をこなしていかなければならないから、それに従量してイルカたち受付の仕事も多くなる。
 事後処理とも下拵えとも受け取れる受付の仕事に忙殺されて、イルカの時間感覚は麻痺したまま就業時間を迎えて、それでも人手が足りないと言うことで三時間ほど残業してから、ようやく帰途に就いたのだった。
 スーパーで今日の夕食たる総菜とビールを購入して、ようやく一息ついたイルカは、ふと、結局万古蘭の効果が分からなかったことをようやく思い出したのだった。
 ――――やっぱり騙されたのかなあ…。いやいや、遅効性遅効性…
 と、朝から何も変わらない思考を繰り返し、とぼとぼと夜に包まれた家路を辿った。



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