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MEDUSA




「ごめんなさい」
 その彼女の一言で、今まで心地よく聞こえていた同僚達の声さえ一切聞こえなくなった。足下の地面が崩れていくようなふわりとした眩暈を感じて、イルカは思わず足を踏みしめる。そんなイルカの様子に気が付くことなく相対した女性は、暗がりで表情の見えない顔を俯けながら言葉を続けた。
「イルカ先生はいい人だと思いますし、お気持ちは嬉しいのですが…」
 その彼女の台詞にイルカは雷に打たれたように硬直してしてしまった。一瞬思考さえ凍り付いてしまう。
 今回を含め『いい人』と言われるのはもう六人目で、ついに片手では足りなくなってしまった事実にくらくらとした眩暈を感じた。
 今度こそ上手くいくと思っていた。
 彼女…ユイはイルカの同僚で、良くイルカに声を掛けてくれたし、今日の飲み会だって誘ってくれたのはユイの方だ。二人きりというわけでは無かったのが残念だったが、それでもイルカに脈有りと思いこませるには十分な行動だった。そう舞い上がって居たために突き落とされたショックはいつものごとく想像以上に大きい。人通りのまばらな店の表でこんなことになっているとも知らず中でバカ騒ぎをしている連中がいっそのこと羨ましいくらいだ。
「…他に好きな人が居るんですね…」
 そのイルカの言葉にユイがぽっと頬を染めたのが暗がりでも分かって、心がささくれる。自分に向けられなかった好意を引き寄せた人物が居ることが妬ましいがその気持ちをどうにか取り繕って言葉を重ねた。
「…参考までにその方が誰か教えてくれませんか…」
 ユイはようやく顔を上げてそれから誇らしげに真っ直ぐな視線でイルカのことを射抜く。どくんと高鳴った胸はイルカが本当に彼女のことを好きだったのだと訴えていたが、イルカは右手でアレが欲しいと跳ね上がる心臓を掴むように抑えた。
「イルカ先生も良く知っている人だと思いますけど…」
 その前ふりをどこかで聞いたことがあると、体がびくりと勝手に反応した。嫌な予感がする。
 ユイは少しばかり恥じらって、呆然とするイルカから視線を恥ずかしげに反らしてぽつり呟くようにその意中の人間の名を呟いた。
 はたけ上忍――――と。



「なーにがはたけ上忍だよ…っ」
 先に帰るというユイを引きつる笑顔で見送った後、イルカは同僚達がどんちゃん騒ぎを続けている居酒屋に戻って一人自棄酒を呷っていたが、すでに出来上がっている彼らのうち誰一人としてイルカの傷心など気付く者など居らず、イルカは孤独に耐えかねて帰途についた。
 すでに深夜と呼ぶに相応しい時間になった帰り道は静かで、イルカの独り言も空しく響く。
 はたけ上忍――――はたけカカシはイルカが担任をしていた生徒を下忍として引き取った上忍師の一人で、上忍の中でも比較的親しいとはいえ、余りよく知らない。
 隠された左目が写輪眼であるということと、とてもモテるということ以外は――――。
 ここ数年イルカが戦忍をやめて里での仕事に従事しているうちに好きになった女性の実に半数以上がこの上忍のことを思っていると言ってイルカとの交際を断っている。「はたけカカシが好き」という台詞がその気のない男を諦めさせる言葉として里中で流行っているのかと勘ぐりたくなるほどだ。
 銀色の髪に斜めにかかった額宛は左目を、鼻梁まで覆う口布は顔の半分を隠し、その出で立ちは胡散臭いの一言に尽きる。もし額宛をしていなければその姿の怪しさから警備隊に通報されてしまいそうだ。イルカの見た限りカカシはとてもじゃないが女性に受けがイイ容姿とは思えなかった。
 それなのに酷くモテるのは何故なのか、イルカにはカカシの魅力は全く理解できなかった。彼は今のナルトと大して変わらない年の頃から上忍だったし、里からの信頼は篤く高給取りで、その上里の至宝である写輪眼をうちはの血族でもないのに所有している。そういった付加価値的な点に女性は惹かれるのかもしれない。イルカにはきっと一生かかっても手に入れられないものに。
 そもそもイルカは女じゃないから彼女たちの気持ちを理解するのは天地が逆転しても無理なのだろうとイルカは諦観の溜息を零した。
「兄さん、意味深な溜息じゃのう…」
 いきなり暗がりからそんな声を掛けられてイルカは思わず飛び退き目を凝らした。公園に差し掛かっていて周囲は植木の茂みで漆黒に塗りつぶされた箇所が多い。
「…誰だ…」
 忍としての習性が一瞬にしてイルカにアルコールの影響をぬぐい去ってしまう。すぐさま動けるように右手でそっとクナイに触れた。
「あいやいや、待て待て。現役の忍とことを構えるつもりはないわい」
 そういうとその声の主はぬうっと暗がりから姿を現した。
 年季の入った声から相当な年齢とすぐに当たりをつけたイルカだったが、その出てきた人物の容貌に僅かばかりたじろいだ。
 身の丈はイルカよりも五寸ほども高く、一見してイルカよりも忍として実用的な肉体の持ち主だったからだ。声を掛けられるまで存在を感じられなかったことから、もしかして昔は高名な忍だったのかもしれない。
「…あなたは…」
 相手に争う意志が無いことを悟りながらも、イルカは警戒を解かずにその相手を見据える。木の葉の額宛はないが、やけに太い巻物を背負っている。まるで火影の屋敷に保管されている禁術集のような大仰なものだ。
 そして大柄なその人物をさらに大きく見せているのが二本歯の下駄と、獅子のような髪の毛だ。真っ白な直毛はまるで歌舞伎役者のように広がり長い。
「なあに通りがかりの仙人よ」
 けして霞を食って生きているようには見えない。これで霞を食っているというのならさぞかし霞という食べ物は低カロリーで栄養価が高いことだろう。
「昔は木の葉の忍じゃったが、今は物書きと人生相談で食ろうとる」
 人生相談。
 その単語をイルカの耳が敏感に拾い上げ、それまで訝しんでいた思考が霧散した。
「なにやら、思い煩った溜息が聞こえてのう」
 その言葉にイルカはついさっき振られたことを奔流のごとく思い出してしまい、どおっと体が悲しみに満たされるのを感じた。
「聞いてくれますか〜…っ」
 さっきの同僚達にも吐き出せなかった鬱憤がイルカの中で滞留していて体に悪い。失恋に傷ついて淋しい心は、見知らぬ赤の他人からでもいいから優しい言葉か希望を見いだす言葉を欲しがっていた。
 すこし異常な状況だと思いながらもイルカは自称仙人に訥々とことのあらましを語った。所々で感極まって言葉を詰まらせるたびに、仙人は我が身のことのようにうんうんと頷いて励ますようにイルカの肩を叩いてくれた。
 いつの間にかペースは完全に仙人に把握されて、イルカは易々と茂みが多い公園の中に誘われていたがそれに気付かなかった。
「そうか。じゃあ、おまえさんは『いい人』の評価を返上してモテるようになりたいのか」
「モテたいです…!」
 普段のイルカならばいくらかは取り繕ったかもしれないが、今は興奮していてありのままの欲求が思わず口をついて出てくる。一度は醒めたかのように見えた酔いがぶり返して気持ちが昂揚していることと、この仙人が見かけの厳つさとは裏腹に非常に聞き上手である所為だ。
「何人もの女性に惚れられてその中から選り取りみどりなんていうのが男のロマンでしょう!」
 と、同僚の女性が聞いていれば一歩後ずさってしまうようなことを力説してしまう。しかも、イルカの横暴な意見にその仙人が同意してしまうから、自分の言っていることの物々しさを理解できない。
「わかる、わかるぞ。それでこそ男のロマンだのう!」
 仙人の方はしらふであるのに、激しくイルカに同調して感涙の涙さえ見せている。二人ともここが住宅地の中に作られた公園であることを忘れて、繁華街にある居酒屋のようなテンションだった。
「おぬし、なかなか苦労しとるんだのう…。よしよし、ワシが解決策を与えてやろう」
 仙人は涙ながらにそう言うと自分の荷物の中を漁りだした。
 ――――解決策。
 詰まりこの失恋の痛みを忘れさせてくれるというのか、それとも、自分がカカシのように女性からモテるようになれるというのか。
 その仙人の仕草をイルカは食い入るように見つめた。彼は荷物の奥底の方から彼の大きな手にすっぽりと握り込めるほどの大きさの瓶を取りだした。
「元来動物には同種のものの情報を交換する分泌物としてフェロモンを持っとる。理性の強く出る我々人間にはそれを感じる能力が低くなったんじゃが、それでも無意識でもフェロモンは出し続けている。効果はまちまちじゃが…」
 濃い青の瓶を仙人が振ってみせる。その瓶の色は中身を光から守るためのものだ。
「…そのフェロモンに似た物質を身に纏うとか…?」
 仙人の手に握られた瓶の正体が気になったイルカが先読みをしてみるが、仙人はにいっと口角を吊り上げて、慌てるなとイルカを制した。
「コレはそんな当たり前のもんじゃないのう。それだとばばあや餓鬼だとか自分のどうでも良い相手だってくっついてくる」
 確かにそうだ。それはモテていると言うよりも誘蛾灯でしかない。それならば比較的老女と子供にモテるイルカには不要な物だと納得する。
「こいつは、自分のフェロモンを付け足して増強するようないわゆるフェロモン香水じゃない。相手のフェロモン感受性を強める薬だ」
 理屈は理解できる。こっちの出力を強めるのではなく、受信側の感度を上げて性能の向上をはかるということだ。しかし、それをどうやって行うのか想像つかなくて、イルカは首を傾げた。自分自身の変化の方が相手を変えるより簡単なような気がする。
「分からんちゅう顔をしとるの。まあ、仕方あるまいのう」
 仙人は一度その小瓶を振ってみせる。しかし本当に液体なり粉なりが入っているのかイルカには分からなかった。
「人にも動物にもやはり好みという物があってのう、自分の気になる者のフェロモンしか拾わない。その興味を自分に向けられる者だけがよくモテるということになる」
 ここまでは良いか、と問う仙人にイルカは真剣な顔で頷く。まるで任務時に作戦の説明を受けているかのような真剣さだ。
「『眼力』という言葉を聞いたことがあるかのう?」
「…それは血継限界による瞳術のようなものですか?」
「うーん、それも眼力の一つだのう。しかし、この場合はそういう異常に特化したものではなく人が本来備えているものだ。時々おるだろ、目に力のある人間が」
「目に力…」
 吸い込まれそうな、見透かされそうな――――と続けた仙人の言葉にイルカはふと一人の人間を思いだした。いつだって血継限界の瞳は隠されているのにも関わらず、酷くモテる男、はたけカカシ。
 確かに彼の視線に晒されるとイルカは訳の分からない緊張感を抱く。最初はカカシの名前と階級に恐れを抱いているのだと思っていたが、もしかして同種同性の生き物として威嚇されているのだろうか。ライオンでも自分の縄張りや囲っている雌に近づく雄を排除するというから、それに似た行動なのかもしれない。
「…居ますね…」
 はからずイルカの声は不機嫌なものになった。
「どうじゃ、そいつは結構もてとるじゃろ」
 そんなイルカに気付いた様子を見せない仙人の質問にイルカはこくりと一つ大きく頷くと仙人は満足げに唸った。
「その人間はつまり眼力が強いということだのう。相手に本能的な何かを抱かせる目を持つ人間は酷くモテるか恐れられるかの両極端だからのう」
 そこで仙人は一度その薬を懐に入れて、腰にぶら下がっていた瓢箪に口を付けて口を潤した。僅かに酒精の香がイルカの鼻孔をくすぐり、その瓢箪の中身が芳醇な酒だと言うことが知れた。
「この薬はその『眼力』を得るためのもの逸品。コレまでの長い人生の内後にも先にもこれ以上の惚れ薬にはお目にかかったことがない」
 仙人は一度しまい込んだ薬をもう一度イルカの目の前でちらつかせる。
「それを飲めば、オレもモテる…」
 はたけカカシのように。思わずそれにふうっと手が伸びてしまう。しかし、触れると思った瞬間にその仙人はすいっとイルカから隠した。
「飲むんじゃないわい」
 仙人は呆れた顔でイルカのことを見下ろす。
 飲むのではない。ならば、恐らく液体であるその瓶の中身は塗布するものなのだろうか。
「……注射で打つのではないぞ…」
「……」
 少し思案したイルカの思考を読みきれずに仙人はあさってな釘を刺す。
 飲用でも塗布でも注射でもないとなるとどうやって使用するのだろうか。僅かに首を傾げたイルカに、仙人は得意げな顔つきでもう一度その小瓶をイルカの目の前に突きつける。
「これはの、点眼薬じゃ」
「…点眼薬…」
 つまり目薬。
「点眼タイプの画期的な惚れ薬。その名も『バンコラン』じゃ」
「バンコ…?」
「一万、二万の万に古えの蘭と書いて『万古蘭』。名の由来は絶滅した蘭から作られるからとも伝説のたらしの名だとも言われておる。その男はこの点眼薬に勝るとも劣らない眼力の持ち主で一度に付き合う相手が二人や三人当たり前、最期はモテすぎて穏やかな老後は無かったという伝説だのう」
「…効果はどのくらい持つんですか…?」
「一生だのう。その差した人間の眼力をある種正常に戻す薬だから、理論上老化が始まっても効果は薄まらん」
 本物だ。その薬こそイルカのモテない人生を挽回する唯一の手がかりのように輝いて見える。




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