「そのあと一週間くらい、カカシ先生は行方をくらましてね」
そっと息を吐き出して、サクラは思い出の中にこびり付いた青い空を払拭するように軽く首を振った。
あの日のことは、まるで映画のフィルムように。
切り取られた断片だけがそこにあって。
青い、空と。
赤い、血の色と。
倖せそうに笑うカカシの横顔が、いつもいつも脳裏に甦る。
「それでみんな、カカシ先生は死んでしまったと思ってたの。
誰もその事を不思議に思わなかったわ」
本当に、誰もカカシの死を疑わなかった。
あの日、イルカ先生の元を去るカカシを誰も引き留めなかった。
引き留められなかった。
カカシの背中は何もかもを拒絶していて。
イルカ先生以外の存在を、ただ拒絶していて。
もし、カカシを留めることが出来る人物が居たとしたら、それは。
今はもう居ないイルカ先生だけなのだと。
誰もが思った。
「でもね。一週間くらいしてカカシ先生は居なくなったときと同じくらい唐突に帰ってきた」
一週間ぶりに見るカカシは以前と何の変わりもなく。
イルカ先生が死んでしまう前と何の変わりもなく。
その事が、いっそう不自然に思える。
それが間違いだと気付くのに幾日も掛からなかった。
カカシは変わっていないように見えただけだった。
そして、カカシが変わった原因の一つは、睦月に違いなく。
「その時腕に抱えていたのが、睦月、あなただったのよ」
そこまで話したサクラは長い溜息を付いた。
永い、長い話だった。
午後の太陽は暖かく柔らかに降り注いで。
カカシの静かな横顔を思い出した。
あの日。
カカシが孤児院に現れた日。
真っ直ぐに自分を見つけたカカシは非道く優しい顔をしていた。
『はたけ、カカシです。よろしくな。』
それがカカシの第一声。
その後のことはよく覚えていない。
あの時自分は何かを問うた。
見知らぬ、その異様な風貌の男に。
何を問うたのか、それすら思い出せず。
そしてその答えが何だったのかさえ、記憶の中でゆたう様に。
ただぼんやりとしていて。
それがとても大切な言葉だったことだけが心に焼き付いていた。
あの時の問の答えが、酷く自分を安堵させたことだけは覚えている。
そして抱き上げられた腕の力強さと確かな人の体温にもう大丈夫なのだと、そう思った。
イルカに繋がる記憶は自分のどこにもなく。
イルカに繋がるカカシの記憶さえ曖昧で。
睦月は苛立つ。
何も覚えては居ない自分に。
何も話してはくれないカカシに。
その苛立ちは、いつもどこかでカカシに感じている苛立ちと似ていた。
カカシの背中を見るたびに。
どこか、もどかしいような気持ちさえして。
押しつぶされそうな不安が胸をよぎる。
何かをカカシに伝えたいのに。
何かをカカシに返したいのに。
引き取ってくれてありがとうと思う以上に。
一人じゃないという安心をくれたあの人の、酷く寂しそうな背中を見るたびに。
何かを伝えたくて。
それが何か分からなくて。
一体自分はあの人に、何を返したいのだろうか。
「その後カカシ先生は中忍に降格されてアカデミーの教師になった。あたし達が知ってるのはそれだけよ」
紡ぐ言葉さえ思い付かずに。
カカシの過去と顔も知らない自分の父に思いを馳せる。
2人がどんな関係だったのか、それは誰にも分からない。
どうして自分が生まれたのかさえ。
母親のことさえ、よくは知らないのに。
生きているらしいと、その事だけしか知らない。
もし生きているとしたら、母は2人のことを知っているのだろうか。
いつだって己の側にはカカシが居て。
いつもいつも優しげな瞳で其処にいて。
カカシしか居なくて。
側にいるのにとても遠い所にいるような、そんな錯覚を抱かせる、優しい瞳で。
そこにいるのに、いつか居なくなってしまうようなそんな気がして。
いつだって不安だった。
置いて行かれたらどうしようと。
また一人になってしまったらどうしようと。
そればかりが胸の奥に巣くっていくようで。
いい子にするから、置いていかないでと。
そう、何度も言いかけた。
少しでもあの人の負担にならないように。
そればかり考えていた、小さな自分。
不安な瞳でカカシを見上げれば、いつも安心させるように微笑んでくれた。
でも、その笑顔を見るたびに、また不安になるのだ。
この人を失ってしまったら、どうなるのだろうかと。
そうして長い月日が流れて。
カカシはまだここにいて。
あの日と何も変わらずに。
孤児院の自分を見つけたときと何も変わらない笑顔のまま。
ここに、いて。
あの優しい人に、何かしてあげられないのだろうかと、そればかり考えるようになっていた。
何か。
あの寂しい背中を見るたびにそう思うのだけれど。
もしも自分が『イルカ先生』にそっくりなのだとしたら。
あの人はどんな気持ちでオレを見ていたのだろうか。
オレを、見ていたのだろうか?
オレの後ろに見える、愛おしい人の影を見ていたのだろうか。
あの時笑い掛けたのは、自分に対して?
それとも、オレの中にいる、誰かに?
考えるほどに分からなくなっていく。
ただの身代わりとして育てられたというのだろうか。
出会ったときから今までずっと。
ただの身代わりとして、側に置いていたというのか。
それでも。
あの人が、オレ大切な人だという事に変わりはなく。
その事が、余計に辛かった。
「睦月?」
サクラが黙り込んだ睦月に声を掛ける。
酷く怯えたような睦月の表情に少しの後悔が胸を軋ませる。
だから、殊更何でもないことのように睦月に声を掛けた。
「本当のことはカカシ先生にしか分からないんだからそんな顔しないのよ。
真実はきっといつか分かるから。カカシ先生にゆっくり聞いたらいいじゃないの」
そうして背中をさすってくれた。
その暖かさに、少し救われる。
話してくれるのだろうか?
いつか、もう少し時が流れたら。
そうしたら聞いても良いのだろうか。
オレが誰かの身代わりだったのかどうか、その事を。
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