昼食を片づけ終わると同時くらいに、王宮からの迎えがやってきた。同行するというアスマと紅に迎えはあまりいい顔をしなかったが、二人は強引に馬車に乗り込んだ。狭い馬車の中に大柄のアスマが一人いるだけでひどく狭苦しく感じる。そのことが少しおかしくてイルカは小さく笑った。二人のおかげであまり緊張せずにすんでいる。
ありがたい、と思う。二人がここにいてくれることがとても心強い、と。がたがたと音を立てて馬車はどんどん王宮へと近付いていた。歩いてもさほど遠い距離じゃない王宮へあっという間に辿り着いた一行は、一番大きな城門の前で降ろされる。門の前で待っていた衛兵に引き渡され、そうして先導に従うままに王宮へと足を踏み入れた。
青と白の巨大な建物。一番最初にここを訪れたとき側にいた人が今はいない。イルカの側にいてくれない。
約束を半年も過ぎたのに。どうして。この半年の間ずっと繰り返し思っていたことがまた胸に溢れる。
どうして。どうして戻らないの?付き詰めて考えれば恐ろしい考えに行き着くのは分かっていたから、ずっと気がつかないふりをしているけれど。カカシを責めるようなことばかり考えてしまうけれど。そうでもしないと正気を保っていられるかどうかさえ危い。
物思いにふけりながら広々とした王宮の廊下を歩く。随分と奥まで連れて行かれ、そうしてイルカ達は小さな部屋に案内された。三人を取り残して衛兵は出て行ってしまう。
どこかぴりぴりとした様子の衛兵に気付かないうちに緊張を強いられていたのか、イルカは思わず安堵のため息を漏らした。
「ここは?」
そうしてアスマと紅にそう訪ねる。
「謁見の間の控え室よ」
そう言いながら紅は、入ってきた扉のある壁とは逆の壁を指さした。そこには一枚扉がある。
「あれが謁見の間に続く扉。王の準備が整い次第あそこから従者が呼びに来るわ」
随分とクッションの良さそうなソファーにどっかりと腰を下ろしてアスマはふー、と長いため息を吐き出した。
「なーんか、良くねぇなぁ」
がりがりと頭を掻いてアスマは顔を顰めている。
「良くないのなんて、ここに来る前から分かってたじゃない」
今更、と紅は言う。確かにそれは、分かっていた事実だ。
「分かっちゃいたけどな。俺達がここまで一緒に通されたことが胡散臭い」
言われてみればその通りだ。なぜ、二人が一緒に控えの部屋まで通されたのか。
「オレはせいぜい門を潜った辺りで引き留められると思ってたんだがな」
紅もイルカも座り心地の良すぎるソファーに腰を下ろす。
「なにか企みがあるってこと?」
紅の艶やかな漆黒の髪が揺れる。王は油断のならない人物だ。そうして前王のように慈悲深いわけでもない。
勝つためには手段を選ばないような所さえ見受けられる人物。
「企みっていうかな、良く分からんがオレはどうもあの方とは気があわねぇ」
流石に控えの間で煙草を吸うことも叶わずアスマは顎髭を撫でた。
「頭の良い方だがな。容赦がねぇ」
彼が考えるのはイルカのことではなく、その使い道だけだ。イルカ自身ではなく、その身に宿った力の使い道。それを手に入れるために一体何を仕掛けてくるのか。
今頃になって。黙り込んだ三人の沈黙は扉が開く音と共に破られた。
「王がお呼びです、三人ともこちらへ」
その言葉に一同は驚きを隠せない。なぜ、三人共に呼ばれるのか。
「お急ぎになってください。王がお待ちです」
驚いて立ち上がろうともしない三人を従者は急かした。のろのろと立ち上がり、そうして三人は従者の消えたドアをゆっくりと潜ったのだった。
王の前に引き出される。その言い方は間違っているかもしれないけれど、イルカにはそう思えて仕方なかった。慣例に従い跪いて頭を垂れ王の言葉を待つ。
紅も、アスマも。
「面を上げよ」
その言葉に顔を上げれば、一段高くなった床の豪華な椅子の上に若い男が腰をかけていた。長く伸ばした白い髪を後ろで束ねた、眼鏡を掛けた神経質そうな男だった。目の前の男はイルカよりも年下のようで、アスマなどとは比べるべくもない。まだ二十代になったばかりだろう。知性は感じられるがひどく冷たい印象を受ける男だった。
これが、王。この国を治める者。王はただ、イルカのことを凝視していた。
「名をなんと言うんだ?」
突然の王の言葉にイルカは驚く。名を聞かれるとは思っていなかったのだ。奇蹟の民であることを紅とアスマには明かしたけれど、結局名前は二人にも教えていない。
なぜか教えていなかった。もう隠す必要などないのだから教えても良かったのだけれど、なぜか教えられなかった。
カカシしか知らない名前。あの人しか呼ばない名前。
特別なこと。とても、大切な。
「答えろ」
畳みかけられた王の言葉にイルカは小さく息を吐き出した。
「『恋姫』と呼ばれております」
それは本当のこと。この街にきてこの街でもらった名前。
「恋姫、か…。本当の名をなんという?」
重ねて問いかける王にイルカは小さく首を振った。
「ありません。恋姫と呼んでいただくのがよろしいかと」
そう、ここで名乗るべき名など持ち合わせていない。あの名を呼んでいいのはカカシだけだ。甘やかな優しいあの声だけがイルカの名を知っている。
「まぁいい。恋姫、とやら。お前は『奇蹟の民』だな」
王の言葉にイルカは瞠目した。なぜ、そのことを王が。縋るようにアスマと紅に視線を向ければ二人も同じように驚いていた。二人ではない、では一体誰がそのことを王に告げたのか。
「答えろ、恋姫」
威圧的な王の言葉にイルカは首を振った。
「違います、そのような民のことを私は存じません」
首を振り俯いたイルカに王は嗤う。
「そうか、知らないというか。まぁいい。ところで紅」
王はその矛先をイルカから紅に移した。
「はい」
「先の戦ではご苦労だったね。お前の活躍は私の耳にも入っているよ」
何を問われるのかと身構えていた紅は、王の言葉に少し肩の力を抜いた。
「ありがたきお言葉、身に余る光栄です」
そう言って紅は頭を下げる。その頭上に降ってきた王の言葉。
「魔神の傷を癒したと聞いたけれど、どのような魔法を用いたんだい?我が王国ではそれほど強力な魔術は研究段階だったと思うが。おまえが復活させたのか?」
王の言葉はただの誘導尋問に過ぎない。そのような魔術が復活すれば誰よりも先に王に報告される。回りくどい言い方で王はイルカを追いつめている。
イルカを、『奇蹟の民』を。黙り込んだ紅を見下ろしたまま、王はまた口を開いた。
「まぁいいだろう。それよりも不思議な話があるんだ」
ちらりとイルカに視線を向けて、それからもう一度紅に視線を戻すと王は話を始める。
「戦の少し前に巡視艇を出したんだ。そこで魔神の確認がされたわけだが、偵察に出た兵士の一人は気が狂って帰ってきた。運良く、と言うべきか運悪く生き残ったと言うべきかは不明なほどの状態で、だ」
そのことはおまえもよく知っているだろう。王は紅にそう言葉をかける。紅は顔を上げこそしたものの、それについても何も言わなかった。
「だがその兵士は奇蹟的に回復した。のちに不思議に思った研究者達がその者に聞き取り調査を行った」
王の言葉に紅は僅かに驚いた表情を浮かべた。そんな話は耳していなかったのだろう。紅の表情ににたりとイヤな笑みを浮かべると王は話を続けた。
「その兵士は不思議なことを言ったらしい。歌が聞こえた、というんだ。歌が聞こえ、それに導かれるように世界が開けた、と。意味がさっぱり分からないと思わないかい」
肘掛けに肘をつき、王は話をどんどん進めていく。
「そのときは研究者達も首を捻るばかりだったという。それから戦が始まり誰もそんなことは忘れていたんだ」
じわじわと追いつめられている。イルカはそう思った。このまま話を聞き続ければ逃げられないところまで追いつめられてしまう。そんな風に思った。けれど王はそんなイルカの心中を無視するかのように淡々と話を進めいていく。
「けれどそのことを思い出す出来事があった。魔神を討伐したあとの話だ。一向に回復の兆しを見せない兵士達がある時を境に急激に回復し始めた」
研究者達はまた聞き取りをしたんだ。王はそう言って堪えきれないように笑みを貼り付けて三人に告げた。
「そうしてまた、歌だ」
聞いて回った研究者達に兵士達が返した答え。それは、歌だった。
「回復した兵士は一様に歌を聴いたという。それはさして不思議なことではない。街で評判の歌姫が、兵士を慰める為に歌を歌いに来てくれていたという報告もなされているからな」
歌を聴いているうちに心が軽くなった。そう兵士達は答えたという。取り立てて違和感を覚える答えではないけれど問題はそのあとだ。
王は紅を、そうしてイルカを見た。
「だが、歌姫が帰ったあとから急速に兵士達が回復に向かったのはなぜだろうね?」
王の問いかけに誰も、何も言葉を発しなかった。否、発することが出来なかった。ただの確認に過ぎない言葉達。
「だんまりか、まぁいいだろう。ところで僕はその話を聞いてあることを思い出した」
王は三人の不自然な態度を気にとめることもなく言葉を続ける。
「ドラン帝国先帝ウォーラル2世と内戦の報告書を読んだときのことだ」
その言葉にイルカは思わず身体を強ばらせた。忌まわしい名。イルカを、イルカの一族を、辺境の民全てを恐怖に陥れたその名前。
「報告書には制圧に向かった辺境地域の一族について、簡易ではあるが説明が書かれていたんだ」
震えそうになる身体を叱咤してイルカは唇を噛みしめた。怒りと恐怖が心の中を渦巻いている。過ぎるのは屠られた同胞達。血に染まった砂漠。
失ってしまった故郷。
「曰く辺境に住まう部族の中に『奇蹟の民』と呼ばれる一族があるらしい。その一族、癒しの手を持ち歌にて人を癒すという」
王の言葉にイルカはびくりと身を竦ませる。
「奇妙な符号だろう?引っかかりを覚えて城門の通過記録をめくれば、発狂した兵士が治療院に運ばれた直後にも恋姫という歌い手が城を訪れていることが分かった」
あのとき、紅とアスマと、そうしてカカシとここを訪れたとき。簡単ではあるが紅が手続きを取っていた。
「もう一度問う、恋姫とやら、お前は『奇蹟の民』だね?」
関わるな、と言ったカカシの声が不意に蘇った。アナタの力は野にあるべき力。国が所有すべき力じゃない、そう言ったカカシの言葉が胸に蘇る。
「違います。私はそのような民のことを存じ上げません」
最初に問われたときと同じ問答が繰り返される。逃げ切れるとは思わない。イルカはもう見つかってしまったのだから。紅とアスマをここに呼んだのはただイルカを追いつめるためだけだ。
「強情だな。まぁいい、時間はある」
そう言って一度言葉を途切ると王はアスマと紅に視線を向けた。
「紅、アスマ、双方とも大儀であった。下がるがいい」
そう言った王の言葉に口を開いたのはアスマだった。
「王よ、恋姫をどうなさるおつもりで?」
強い双眸で見つめ返され、王は視線を逸らす。
「おまえには関係のないこと。まぁ、だがしかし黙っていることでもないか。恋姫には城に滞在いただき親交を深めることにする」
「……どういう、ことです?」
呟いたのは紅だった。彼女の緋色の瞳が燃えるように輝いている。
「どうもこうもないよ。北の塔のてっぺんに恋姫殿の寝室を用意したまでのこと」
王の言葉に紅は怒りに身を震わせた。
「恋姫を監禁なさるおつもりか?」
激情のままに言葉を発した紅をアスマは手で制した。今ここで王に逆らうのは得策ではない。
「言葉を慎め、紅。下がっていいと言ったのが聞こえなかったか?」
自らを押しとどめているアスマの手を紅は痛いほどに握りしめた。このまま、怒りのままに振る舞えばイルカの立場はもっと悪くなるだろう。そのことだけが紅の怒りにブレーキをかけている。
「衛兵、恋姫を塔にお連れしろ」
紅とアスマの怒りをあざ笑うかのように王は声を上げた。その声にイルカは身を竦ませる。塔に閉じこめられればもう逃げ出す術は残されていない。
そうして待っているのはイルカの力だけを求められる日々。
「お待ちください!」
咄嗟に紅の口から制止の言葉がこぼれ落ちる。最後の抵抗だった。ほんの僅かとも言える時間稼ぎ。少しでもイルカの拘束を先延ばしする為の。
「そうだな、これではあまりにも一方的か。では恋姫。もしもおまえが塔から逃げ出せたとしたら追わずにいてやろう。でなければ早めに真実を打ち明けてくれるとありがたいな」
そう言って王は立ち上がり、そのまま謁見の間をあとにした。あまりの言葉にイルカはその場に倒れ込んでしまいそうだった。
あれが王。王という種族。イルカを蹂躙し続けるモノ。
王に呼ばれた衛兵が床に呆然と手をついたイルカをぐいと持ち上げる。
「こちらです」
イルカの周りを屈強な兵士が取り囲んでいる。アスマが本気で暴れれば取り戻せるかも知れないが、こちらは丸腰、向こうは装備に身を固めている。分が、悪すぎた。拳を握りしめたアスマにイルカは小さく首を振る。
こんなところで二人が傷つくのを見たくはない。怒りに震える紅にそっと微笑みを残してイルカは兵士の後に従った。
逃げられるなら逃げてみろ、と言った王の言葉。込み上げてくるのは怒り。ならば逃げてみせる。
イルカはそう思った。ここはイルカのいるべき所ではない。こんなところでカカシを待つなんてまっぴらごめんだ。王宮を逃げ出して街にいられるとは思わなかったけれど、でもきっとカカシは見つけてくれる。どんなところにいても、きっと。
迎えにきてくれるはずだから。
イルカは一度だけ大きく深呼吸をして顔を上げた。自らの運命に立ち向かうかのように。
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