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 そうして、半年と少しの月日が流れ魔神討伐完了の報告を携えて第七艦隊がまず帰港した。続いて第五、第十艦隊。それから次々と出航した艦隊が港に戻り、最後に第一、第二、第四艦隊並びに第十二艦隊が帰港する。
 アスマ、紅の両人にひどい怪我はなかったが王国海軍自体は酷い有様だった。辛うじて無事といえるのは第二艦隊。無敵艦隊は無敵艦隊のまま蘇ったのだと街の中で噂されている。アスマの部下達にもひどい怪我を負ったものはなく、ハヤテの想い人も無事のようだった。
 けれど、ほかの艦隊はそうではない。魔神から受けた癒えない傷に苦しむ人々が王宮の治療院にはひしめき合っていた。港に船が着いてからも、しばらく二人の姿を見ることはなかった。
 二人とも王宮に詰めている。家に帰ることもままならない様で、特に紅の疲労は激しい。怪我人達のために休むことなく治療を続けている。もう、手を出さない方がいいことは分かっていた。カカシにも言われたことだ。
 イルカの力は野にあるべき力。国が所有してはならない力だ。その力ゆえに望まぬ戦さえ引き起こす恐れのある、力。
 治療を頼んだ紅でさえそう言った。イルカ自身が治療に携わらない方がよい、と。その代わり、紅にその技を伝授して欲しい、と。けれどそれは出来ないことだった。
 イルカの力は一族に託された力である。その血を受け継がなければなんの意味も持たないただの歌にしかならない。イルカが『歌』を歌わなければ、なんの意味もないのだ。呪いを解くのも、傷を癒すことも。全てはイルカの『歌』でなければ、ならない。
 仕方ないわ、と紅は笑った。今まで通り地道に頑張る、と。何も出来ない自分が歯がゆくて紅に協力を申し出たけれど、それはきっぱりと断られた。
 もう、王宮に来ない方がいい、と。
 目の当たりにした力の凄さに紅は驚きを隠せなかった。何を損なうこともなく発狂から己を取り戻した兵士。絶対に自分たちでは治せなかった病。そうして悟る。この力が王の目に止まってはならないことを。
 力は辺境に隠されていなくてはならなかったのだ。この力が王の目に止まればどうなるかなんてたやすく想像がついた。イルカは一生軍に囚われる。王宮に縛り続けられ、望まない力を強要されるようになる。
 あの、優しい笑みは消えてしまうだろう。あの優しい歌も。カカシも紅とイルカに釘を刺していった。一度は国に狙われた力だ。もうおおっぴらに使うことは避けた方がいいだろう、と。
 だから紅は帰還してから一度もイルカに助けを乞わなかった。アスマもイルカを王宮へ呼ぶようなことを一度もしなかった。
 分かっている。自分の力の持つ意味くらい。だから、けれど。
 そこに苦しんでいる人がいて、そうして自分にはそれを少しでも軽くする力があるのに見て見ぬふりなど出来るだろうか。己の授かった力は人の為に使うべき力だ。
 今、このときも苦しんでいる人が手の届くところにいるというのに。
 紅とアスマの帰りを待ちながら、診療所の椅子にぽつんとただ座り込んでいることしか出来ないのだろうか。机の上には慣れ親しんだ楽器がある。
 乱れる心を落ち着かせるようにイルカがそれに手を伸ばしたとき、いつものように手首でしゃらりと腕輪が音を立てた。
 愛しい音が、した。イルカがこの世で一番会いたい人が残していったたった一つのもの。
 慌ただしく過ぎる日々の中で約束の日はどんどん遠ざかっている。もう、半年はとうに過ぎているというのに。目蓋を閉じれば今もすぐ側にあの人がいるような気さえするのに。後ろから不意に抱きしめてくれるような気さえ、するのに。
 しゃらんと、わざと手首を揺らした。思い出さないようにしていた会いたい気持ちが、こんな時不意に高い波のように押し寄せてくる。
 溢れてくる。
 自分の取るべき道はどれだろう。自分が一番優先すべき事は、身の安全じゃない。分かり切ったことだ。
 カカシさん。あいたい。今すぐにでもあいたい。ただ、会って笑いかけて。大丈夫って言って。
 抱きしめて。
 カカシさえいれば、何も迷うことなんてないのに。
 こみ上げてくる感情をギリギリのところで押しとどめてイルカは深く深く息を吐き出した。取るべき道なんて、本当は一つしかない。そこに苦しんでいる人がいれば助けるだけだ。イルカの持ちうる限りの力で。迷いを振り切るかのようにイルカは楽器を手にとって立ち上がる。
 恐れるな。国家というものの、統治者というものの恐ろしさはこの身に充分沁みているけれど。
 恐れるな。奮い立たせるように一度だけ腕輪を鳴らして、そうしてイルカは診療所の扉を力強く開いたのだった。



 足を踏み入れることは二度とないと思っていた。ここに来ることは、もう二度と。
 けれど。
 王宮のやけに白い廊下を案内されながらイルカはカカシと見た青い天井をそっと見上げる。創世神話の描かれた天井。いつかの優しい夜に紡がれたカカシの言葉通りの絵が、そこに。
 墜ちる星。それを指す神々。墜ちる二つ目の星。失われた名。あの夜に、カカシが語った通りの物語。
「こちらです」
 先を歩く兵士の声にイルカは視線を戻して治療院へと続く回廊に足を踏み入れる。もう、戻れないかも知れないと思いながら。



 呼ばれた、と嘘をついて入った王宮で兵士から紅に引き渡されたイルカは治療院の有様に驚きを隠せない。そうして姿を現したイルカに紅も驚きを隠せない様子だった。
 どうしてきたのか、と問いただされた。けれど、そんな問答も惜しい、とイルカは思う。横たわる人々に眉を顰め、そうしてイルカは紅にこう言った。
「苦しむ人たちの少しの慰めになればと思って歌を歌いにきたことにしてください。紅さん達はいつも通り治療を続けて」
 そう、イルカの力はそれと知らないものにはきっと分からない。ただ歌を歌うだけなのだから。けれど一向に進まなかった治療が急激に功を奏したとして、誰も不審に思わないだろうか?ましてやその力を受け取る兵士達に。
 けれどもう、ここまで来てしまった。王宮の、奥深くまで。
 紅だって本当は助けてもらいたかった。治りの遅い兵士達。一向に進まない治療。魔神の残した爪痕は深く、退院出来たものはわずかしかいない。
 治療院の大部屋の隅に座り込んだ同居人を紅は止められなかった。
 本当は紅が一番欲していた力。奇蹟の民の力。全てを救えるなんて傲慢なことは思ってはいないけれど、奇蹟の民の力があれば、もしくは。
 しゃらんと音を立てた腕輪に、紅は我に返る。目蓋を掠めたのは銀色の光。恋姫の手首で光ったそれは背の高い痩せた男を彷彿させた。
 銀の髪の、男。王宮にはふさわしくない力だ。野にあるべき、力。そう言った男。
 いつの間にか風景に溶け込むように恋姫の傍らにあった男。未だ帰らぬ男にもう一度釘を刺されたような気がして紅は苦く笑った。



 辺りには音が満ちている。恋姫の奏でる優しい音が。王に知られることだけは食い止めなければならない。入り口をぴったりと閉ざして、紅は窓の方へと歩き出した。



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 危惧していたことは、結局杞憂に終わった。イルカは何日か王宮に留まり、そうして歌を歌い続けた。
 ただ、歌を。それだけだった。それだけにしか、見えなかった。
 イルカのことを王に気付かれることもなく、回復の兆しを見せ始めた兵士達にも取り立てて不審に思われることはなかった。拍子抜けするくらいあっけなくイルカは家へと戻り、以前と変わらぬ暮らしを続けている。
 昼に診療所を手伝い、夜は店に出る、その生活を。以前と違うのは店のマスターが正式に変わったことだけだった。
 軍隊じゃ副業は認められてねぇみたいだな、とアスマは笑いながらそう言っていた。
 静かな生活は変わらない。ただ、約束の半年が過ぎてもカカシが戻らないだけで。半年が過ぎ、一年が過ぎてもカカシはまだ戻らなかった。不安に苛まれる日々は忙しさに紛れ、どこか諦めにも似た気持ちがイルカの中にふとした瞬間に沸き上がる。
 もう二度と、会えないのかも知れない。約束からすでに半年の時が過ぎている。暖かかった日差しは照りつける太陽に姿を変え、大地を焼く灼熱の日々が穏やかな風の中に姿を消した。
 海からの風に白い雪が混じっても、また、花が咲きこぼれる季節になっても、カカシは帰ってこない。
 アスマと紅はこの春正式に結婚した。イルカが一年前カカシと初めて出会った頃に。アスマが診療所に移ってきたのを機に、イルカは店の二階へと住居を移した。元々アスマが使っていた部屋に。生活は変わりなく、そうしてカカシは戻らない。
 もう、一年が過ぎたというのに。どうして。どうして戻ってこないのか。それは、そのことはイルカに一つの可能性しか思い出させなかった。
 カカシはもうすでにこの世にいないのかもしれない。血溜まりで横たわるカカシの夢で何度目覚めたかしれない。
 信じている。待っている、けれど。日増しに膨らむ不安と恐怖。そうしてそれを和らげるかのような諦めにも似た感情。
 けれど、愛しい。どんな風に思ってもイルカの心に最後に浮かぶのは愛しいという感情。
 会いたいとただ思う。会いたい、声を聞きたい。温もりを感じたい。

 愛しい人。

 この一年間ずっと変わらず想い続けている。ただ、会いたいと願い続けている。生きて戻って欲しいと。挫けそうになる心を叱咤しながら。

 表面上何も変わりなく過ごすイルカの元に一通の書状が届いたのは、そんな頃だった。



「王宮からの呼び出し?」
 いつものように診療所を手伝いに行ったついでに、イルカはアスマと紅に書状を見せた。イルカの元に届いたのは王宮からの書状。王からの直接の呼び出しだった。正式なその書状にアスマと紅は眉を顰める。
「イヤな感じね」
 そう言って紅は書状を指で弾く。
「応じるな、と言いたいところだがな…」
 アスマは渋い顔をしたまま書状をじっと見つめていた。王がイルカを呼び出す理由など一つしか思い当たらない。けれど、なぜ、今頃になって。イルカが王宮で治療を行ったのはもう半年近く前のことだ。あのときは誰も気が付いていなかった。
 その、はずなのに。なぜ。半年も経った今頃に王からの呼び出しがかかるのだろう。
「なにか嗅ぎ付けたか?」
 アスマは無骨な手で書状を持ち上げる。呼び出しはの日付は今日。午後の早い時間に王宮からの迎えがこの診療所に来るという。
「ひとまず俺達もついて行った方がいいだろう」
 アスマはごそごそと箱の中から新しい煙草を引っ張り出しながらそう言った。
「そうね、謁見の間まで付き添えるとは思えないけど、いないよりマシでしょ」
 火を付けるアスマをじろりと睨んで紅がそう付け加える。
「でも、診療所は…」
 二人の好意をありがたく思う反面、申し訳なさがイルカの胸をよぎった。イルカの呟きを遮ったのは紅。
「診療所はいつも開いてるわけじゃないことくらいみんな知ってるわよ。それにあなたになにかあったらあいつに何言われるか分からないからね」
 にこりと綺麗に笑って紅が言ったその言葉に、イルカは思わず黙り込んだ。未だ戻らない、カカシのことを思い出して。
 たった一月しかいなかった人。そんな短い間しか、イルカの側にいなかった人。けれどそんな風には思えないほどに、イルカの中はカカシで満ちている。こんなにもまだ、カカシでいっぱいの自分。黙ってしまったイルカの頭を柔らかな手の平がそっと撫でた。
「あんまり心配ばかりしないのよ」
 あの人とはあまりにも違うその感触。優しい紅の手の平。
「ごめんなさい…」
 ほんの少しだけはにかんだイルカに紅もアスマも表情を弛める。
「飯でも食って迎えを待つか」
 短くなった煙草を灰皿に押しつけてアスマがそう言った。その言葉に答えたのはイルカ。
「そうですね。支度をします」
 開け放たれた窓からは海からの風が緩やかに吹き込んでいる。窓の外には綺麗に晴れ上がった空が広がっていた。



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