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アスマと紅、そしてカカシの帰りを待つだけの日々。そんなイルカに励ましの言葉をかけてくれたのはハヤテだった。
ハヤテはイルカよりも年が若く、そうしてあまり多くを語らない。ただ、無愛想かといえばそうでもなくこちらが話をすればきちんと答えてくれた。会話の端々からこの若さでアスマの信頼を得ているだけのことはある、とイルカは思った。そんなハヤテには片思いの相手がいるのだそうだ。その人は第二艦隊に所属している、と。イルカと同じようにハヤテもまた待つだけの日々を送っているらしい。
ハヤテの語る想い出にイルカは少しのうらやましさを覚えた。片思いとはいえ、ハヤテには多くの想い出がある。春の日の思い出、夏の思い出。秋の、冬の、一年前のそれよりももっと以前の思い出たち。知らないことなんてないくらいに長い間側にいるのだというハヤテ。思いはまだ伝えてないけれど、とそんな風に。
イルカに残されたのはたった一月の間の想い出だけだ。知らない表情の方が多いだろう。知らない癖も沢山あるだろう。イルカが知っているのは僅かなことだけ。
困ると頭を掻く癖。卵料理が好きなこと。油を沢山使った料理は苦手で、案外甘えたがりなこと。はにかんだ顔、少し真剣な顔、密やかな声、体温。洗濯を干すときいたずらにキスを仕掛けてくること。日に透ける銀の髪、骨張った手の平の堅い感触。
蘇る多くの記憶もたった一月分だけだ。
半年、と言われた。半年待って。そう言われた。半年くらい待てる自信なんてあったけれど、ふとした瞬間に過ぎるのは恐怖。
カカシの旅立った目的。それを思うと震えが止まらなくなった。
夜、毛布にくるまりながら抱きしめてくれる手を思う。あの手が損なわれてしまうかもしれない。永遠にもう、会うことさえ叶わなくなるかもしれない。魔神の手にかかって、カカシはもう二度と帰ってこないかもしれない。
無意識にわき上がってくる思いに叫び出しそうになるのは決まって夜。暖かいはずの毛布の中がひどく寒く感じる。抱きしめてくれる人がいないから。
昼間はいい。ハヤテや、僅かながらの知り合いと話をしたりして気を紛らわすことが出来るから。
けれど、夜は駄目だった。カカシの思い出が溢れるこの家にたった一人、ふとした瞬間にそこにカカシがいるのではないかという錯覚さえ覚えてイルカは震えてしまう。カカシの不在を強く感じて、それを持てあましてしまう。
半年。約束は半年だ。カカシは約束を違えたりしない。絶対に、この腕の中に帰ってくる。祈るように心の中で呟く。暗示をかけるように。
翌日になれば簡単に解けてしまう暗示を毎晩唱えながら、イルカはじりじりとしか動かない時間に深いため息を繰り返していた。
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足下でざりっと砂を踏む音が聞こえる。山の空気は薄くそうして吹き付ける風は身を切るように冷たかった。砂漠とは違う土地。慣れない空気。
呪われた左目がずきずきと痛んだ。もう近いのだと思う。もうすぐ側まで来ているのだろうと。カカシに呪いを与えたその元凶のすぐ側まで。
全ての始まりが。もうすぐそこに。
アルディア山脈の中でもこの辺りは特に不毛の土地だった。背の低い雑草が僅かに茂っているものの木々が育つ土壌はなく、あちこちに山肌が露出している。そのせいかこの辺りには魔神の目撃情報も多い。人間の使う交易路はもう一つ隣の山中にあるが、そこからこの山の上で人影を見たという商人も数多くいるのである。
その人影は言うまでもなく魔神だった。そもそも魔神と呼ばれる者達の正体はよく分かっていない。何を目的としているのか、なぜ人を襲うのか。
魔神の出没する場所は特に決まっている様子はなかった。人里離れた山奥にいたという話もあれば、紅のときのように突如として海上に姿を現すときもある。小さな町を一夜にして滅ぼすこともあれば、砂漠のど真ん中でかち合うこともあった。
人型の魔神が圧倒的に多いが、中にはよく分からない動物のような格好をした魔神もいた。彼らがどこから来てどこへ消えるのか。それは誰もまだ解き明かせていない謎だ。いつ解き明かされるのかも分からない、謎。
そうしてなぜ執拗に人を襲うのか。彼らはほとんど町を襲うことはない。通りすがりの旅人や旅団、海ならば船団などの小さな単位の人間を襲う。大都市が魔神によって滅ぼされたことがないとはいわないが、それは人間が魔神を呼んでしまったときだけだった。
彼らがなんの前触れもなく突如として現れ、大都市を沈めたことは一度もない。大都市を一夜にして沈める能力を持っているにもかかわらずそれをしない。その理由もまったく謎のままだ。
ざくざくと歩を進めひたすらに頂上を目指す。左目の痛みは加速度的に増していた。あまりの痛みにこめかみから流れ落ちた汗を、カカシは羽織っていたマントで拭った。その時。
しゃらん、と涼やかな音が辺りに響いた。視界を掠めたのはきらきらと輝く銀色の光。それはカカシの腕にはまっている二つの腕輪だった。
一つはテアの町で出会った老人から。もう一つはカカシの世界を埋め尽くしている愛おしい人から貰った腕輪。
腕を振ってわざとしゃらしゃら鳴らせば、左目を苛んでいた痛みがすぅと薄れていくのが分かった。
辺りにそぐわないひどく透明な音。その音に護られているとカカシは思う。あの老人に、そうしてイルカに護られている。あの愛しい人がほんのすぐ側にいるみたいだと。そんな風に思った。
しゃらしゃらという腕輪の音が風に乗り山々にこだまする。マントをかき合わせカカシはしばしその音に聞き入っていた。無骨なカカシの腕には似合わない腕輪だと思う。これはあの優しい腕にこそ相応しい。弦をかき鳴らすあの柔らかい腕にこそ。
取り留めもなくそんなことを思いながらどれほどその音色に聞き入っていただろうか。涼やかなその音に、ふいに不快な音が混じった。
「あまり趣味が良いとはいえない音ね」
いつ、現れたのか。カカシの目の前に人が立っていた。否、それは。
人影に驚くこともなくカカシも静かに言葉を発した。
「ついに現れたな」
魔神。二十年以上もカカシが追っていた敵が今その目の前に。
「似つかわしくないわよ、その音。こんなところには」
不敵な笑みを浮かべて魔神はそう笑った。底冷えするようなその笑顔。
腰に帯びた剣をすらりと抜き取り、カカシもにたりと笑みを浮かべた。
「これ以上ないってくらい、いー音でしょ。愛情たっぷりだし」
しゃん、と挑発的に腕輪を鳴らし、カカシは切っ先を眼前へとゆっくりと向ける。青白い顔で笑みを浮かべるそれへ。
「残念ね、君こっち側へ来る素質があるっていうのに。そっち側に留まるつもりなの?」
明日の天気でも訪ねるかのような気軽さで問われたことにカカシは僅かに眉を顰めた。噂は噂ではないのかも知れないというどこか良くない予感を抱いて。
「あの噂は本当なのか?」
突きつけた切っ先は逸らさないまま、カカシは目の前の魔物に問い返した。
「嘘だと思っていたの?随分とお目出度い頭をしているのね」
向けられた剣になどまるで頓着しないで、目の前の魔神はくすくすと可笑しそうに笑う。そうしてこちらにまた視線を向けた。
「生まれたときから魔神といわれるモノは例外なく獣の形をしているのよ。世界に存在する数多の人型の魔神の全ては、もともと狩る存在だった者達。私もそうよ」
目の前の魔神は顔に張り付かせた笑みを深くした。
「狩る者の全てがこっち側に来られる訳じゃないのよ。君は選ばれた者なのに」
目の前で笑うその存在にカカシは吐き気を覚えた。ひどく気味の悪い生き物が存在している。すぐ、そこに。カカシの目の前に。今まで幾つもの魔神を倒してきたが、こんなに気味の悪いものを見たのは初めてだ。
言われている言葉の意味を理解することすら脳が拒んでいるとカカシは思った。じくりと左目が疼く。ただ、このモノの言うことが真実ならば、なんと愚かな人間が多いことか。世界の魔神のほとんどは人型なのだから。カカシが存在を知っている獣型の魔神はたった九体しかいない。その中でも実際に姿を確認されているのは二体だけだ。残りの七体は伝説上の存在でしかない。人型の魔神が人々の生活を脅かし始めたのは随分と昔のことだ。そんな頃から人は人を裏切り続けているというのだろうか。
なんと愚かな。
「君さえ望むなら私がその方法を教えてあげるわよ。私の呪いを受けて生きている人間なんて初めて見たもの。凄いわ」
そう言いながら魔神が笑う。にたりとその顔に笑みを張り付かせて。
「君がこっち側に来るならその左目の呪いは祝福に変わるわ。呪いを解く必要さえなくなるのよ」
楽しげに語る魔神にカカシは切っ先を翻した。刺し貫こうと繰り出したそれは呆気なく空を切る。一撃でどうにか出来る相手ではないことは分かり切っていた。カカシはゆったり剣を持ち直す。
「悪いが答えは真っ平ゴメン、だな」
力を奮い立たせるかのように右手の腕輪をカカシは一度鳴らした。しゃん、と涼やかな音が辺りに一瞬満ちる。
「残念、交渉決裂ね」
ぴんと張りつめた空気。手が震えるのは怖いからじゃない。ゆっくりと深呼吸をしてカカシも魔神に笑い返した。
「そういうことだな」
その瞬間、ぶわ、とおぞましい気配がカカシの方へと押し寄せてきた。どちらかが力尽き地に伏すまで。その過酷な戦いの火蓋がようやく切って落とされたことをカカシは肌で感じた。帰らなくてはならない場所がある。還り着かなければならない場所が。あの愛しい腕の中に。
左目の痛みを気力でねじ伏せ剣を握り直す。息を吐き出し、カカシは一瞬にして間合いを詰めてきた魔神へと剣を振りかざしたのだった。
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