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カカシとの別れを悲しむ間もなく、日々はイルカを追い立てていった。
まずはアスマの正式な第二艦隊への復帰。先王の許しを請う時間も与えられないまま、現王はアスマを元の役職へと復帰させた。国の要、最強艦隊の復活に国民は喜びに沸いた。
そうして次に、紅の出発。第一艦隊と共に紅の所属している第四艦隊が島へ向けて出航した。カカシのもたらした情報により派遣艦隊の規模は拡大されたようだった。続々と出航していく海軍の艦隊。司令官を得た第二艦隊も時を置かずして出航した。帰還予定は半年後だ、とアスマは言った。店を頼む、と。そう言い残して。
誰も、いなくなってしまった。アスマも、紅も、カカシも。
アスマの店に手伝い人としてやってきたのは、ハヤテというあまり顔色のよくない痩せた男だった。これでも元第二艦隊所属の軍人だったのだ、とハヤテは笑いながら言った。先の戦で負った傷が内臓を傷付け、引退を余儀なくされた、と。ハヤテはアスマよりもさらに口数の少ない人だった。
静かな店内でイルカは以前と同じように音楽を奏でる。相も変わらずしゃらしゃらと音を立てながら。
恋の歌、別れの歌。望みの歌を奏でながら。しゃらしゃらと、鳴らし続ける。手首の腕輪が変わったことには誰も気がつかなかった。
時折ひどく愛おしそうに腕輪を見つめる恋姫を不思議に思う人間はいても、それが変わってしまったことに気がついた人間は誰一人としていなかった。
恋姫がどんな思いでその腕輪を見つめているのか知る人間は、少なくともここには誰もいなかった。
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しゃらりと鳴った自分の腕にカカシはまだ少しの違和感を覚える。その音が自分の手首から聞こえることに、まだ、ほんの少しの違和感を。
自分の無骨な腕にはまった銀色の腕輪。愛しい、腕輪。
腕輪の音を聞く度に、去り際のイルカの告白が今も鮮やかに蘇る。好きです、愛してます、とそうこぼれ落ちた唇を思い出す。
甘やかな唇の感触を。
カカシはアルディア山脈の麓、テアの街にいた。ここは山脈を越える人々が立ち寄る最後の街でもある。ここで装備を調え、そうして山に入るのだ。カカシもまたここで足りなくなりそうなもの、ルシールトでは手に入らなかったものを買い揃えていた。
一刻も早く戻るために。半年、と言った以上その期日を守りたいと思う。あの人に強いる痛みを少しでも和らげるために。
結局カカシから告白は出来なかった。好きだと告げられなかった。最後の最後で言葉をくれたイルカに返してあげられなかった。そのことを少しだけ後悔している。
あんな風に必死で自分を待とうとしているイルカに何一つ返してあげられないまま。息を吐き出しカカシはもう一度メモを見かえした。買い漏らしはないだろうか。歩きながら字を辿っていたとき、通りの一角から不意に音楽が聞こえた。柔らかく優しい音。行き交う人の間からその方向を見れば、老人が一人道ばたに座り込んで楽器を奏でていた。どこかイルカの爪弾く音に似ている。
そんな風に思う。あの人の奏でる優しい音に、似ているような気がする。
流れに任されるまま、カカシもまた行き交う人々と同じように老人の前をなんとなく通り過ぎようとした。
そのとき、思いがけず老人が顔を上げた。
「もし、そこの人」
楽器を引く手を止め、そうして老人はカカシに向かってそんな風に話しかける。予想していなかった事態にカカシは驚いて思わず歩みを止めた。
「なに、か?」
驚くカカシの顔をじっと見つめ、そうして老人は口を開く。
「イルカは無事にやっておりますかな?」
何気なく老人の口からこぼれ落ちた言葉にカカシは目を見開いた。この老人は今、なんと言ったのか。驚いて立ちつくすカカシに、老人は確かめるようにもう一度問いかける。
「あの子は、元気にやっておりますか?」
イルカの知り合いだと信じて疑わないその言葉にカカシは僅かに首を傾げた。何が、どうなってる。かすかに老人の身体が揺れたとき雑踏にかき消されてしまいそうなほど小さな音を、カカシの耳が拾い上げた。しゃらん、と鳴るそれ。カカシの腕で鳴る、その腕輪。
一族の証だ、とイルカは言っていなかっただろうか?もしかして。
「あなたはまさか、『奇蹟の民』?」
思い当たるとしたらそれしかなくて、カカシはまるで独り言のように呟いた。カカシの呟きに老人は頷きを返す。
やはり、そうだ。でもなぜ通りすがりのカカシにイルカの安否を尋ねるのか、そのことの理由までは分からない。そもそもどうしてカカシとイルカが知り合いだと分かったのだろうか。
なぜ、どうして。奇蹟の民にはそんな力まであるのだろうか。人の心を見通す力まで。
「驚いていなさるな、お若いの。時間があるならこの爺と少し話をしていかれんか?」
僅かに身体をずらして敷物に一人分の場所を空けると、老人はにっこりと笑みを浮かべる。誘われるままにカカシはその場所に腰を下ろした。
老人の顔が近くなる。深い皺の刻まれた、その顔。奇蹟の民。
「おぬしの腕輪じゃよ」
驚くカカシを気にもとめないまま老人はカカシの腕にはまっている腕輪を指した。
「それはイルカの腕輪じゃ。しかも音が死んでおらぬ。ということはイルカは生きておるということ。そうしておぬしに奪われたのでなければイルカが自らそれを渡したということ。違うかの?」
違わない。これは、カカシがイルカから渡されたものだ。しゃらん、と腕輪が小さく鳴る。涼やかな腕輪の音。
老人の言葉に誤りはない。しかしよく理解出来なかった。
「音が死ぬって…、だいいちなぜこの腕輪がイルカさんのだと?」
持ち上げた腕にはまった腕輪を優しげに眺めて、老人は枯れた自らの手を持ち上げた。
「儂の腕にもはまっておる」
見れば老人の腕にも同じ腕輪がはめられていた。
「これは一族の証。何よりも大切なものじゃ。そうして一つ一つ音が違う」
そう言って老人は自らの腕を揺らし腕輪をわざと鳴らした。
「一族の者以外にその違いは分からぬだろうがな」
しゃらん、ともう一度老人の腕輪が鳴らされる。確かに、分からない。どう聞いても同じ音色にしか聞こえない。カカシには。
「音を聞けば誰のものか分かる。そうして、本来の持ち主が死んだとき、その音もまた死ぬのじゃ。それも一族のものにしか分からぬ」
老人はカカシを見、そうしてその手首に視線を移した。カカシの手にはめられたイルカの腕輪に。
「お主はイルカの命を預かっておる。そのことを忘れんでやってくれ」
老人の言葉に手首がずしりと重みを感じたように思った。羽のように軽いはずのその腕輪が、急に重みを増したように思った。
何気なく渡されたその腕輪。大事なものだと分かってはいたけれど。一体どれほどの決意でイルカはこれをカカシに預けたのだろうか。
支えるようにもう片方の手を腕輪に手を添え、そうして深く頷いたカカシに老人は笑いかけた。
「お主も無事でなによりじゃ」
まるで自分を知っているかのようなその口調にカカシは僅かに首を傾げた。
初対面のはずだ。見たことがない。けれど、老人は笑う。
「儂はお主のことも知っておるぞ。ずっとすまなんだと思っておった」
老人はそう言いながらカカシの顔に手を近づける。なぜかその手を払う気になれずされるがままにしていれば、老人はその左目にそっと手を当てた。
「儂も治療に当たったのじゃ。完全に助けることは出来なんだ」
運び込まれた子供は立派な青年に成長している。そうして。老人はカカシの腰に帯びた剣を見つめた。
そうして、運命に立ち向かっている。
「すまなかったな。力が及ばず、辛い思いをさせておる」
呪いをその身に宿していては、生きやすい世の中ではなかっただろう。深く人と交わることも出来なかっただろう。
死んでしまうことよりもつらい日々だったかもしれない。生き残ったことを呪ったかもしれない。けれども、青年は絡まる感情を全て呑み込んで大地を踏みしめている。
老人の言葉にカカシは首を振った。
「謝られることなんて、なに一つありませんよ」
手放しで幸せと呼べる日々ではなかったけれど。辛いと思うことは沢山あったけれど。
「ありがとうオレを助けてくれて」
生きていることに感謝したくなるほどの存在に出会えたから。意地汚く生き延びたこの命を惜しむほどのそれに出逢えたから。このために、生き残ったのだとそう思えることがあったから。
「本当にありがとう」
頭を垂れたカカシに老人は小さく首を振る。
「礼を言わねばならんのはこちらのほうじゃ」
笑いかける老人にカカシも頬を弛めた。不意に言葉が途切れる。そうして。
「それよりもお主、これから山に入るつもりじゃな」
す、と視線をカカシからそびえ立つ山肌に移して老人は不意に表情を引き締めた。
「山からひどく禍々しい気配が漂っておる。お主はあれを狩るつもりか?」
身のこなし、身に帯びた剣そうして未だ呪われたままの左目。言わずとも老人には分かっただろう。カカシが魔神を狩っていることが。
「あれが、オレの厄災です。逃げるわけにはいかない」
カカシもまた表情を引き締めた。あの山にカカシの厄災の全てがある。狩り取らなければならないモノがいる。硬い表情をしたカカシを老人は眺めていた。
「儂からの餞とでも思ってくれ」
山を見据えるカカシに老人はそんな風に言って、その手首にはまっている腕輪を外す。そうして、しゃらんと音を立てて外れた腕輪をカカシに向かって差し出した。
「どう、して」
差し出された物の重みにカカシは戸惑いを隠せない。大事な物だ、と知っているから。一族の人間にとって、命と同等の価値を持つ物だと。
なのに、なぜ?カカシの戸惑いに老人は優しく笑いかける。
「イルカから聞かなんだかな?腕輪には魔から身を守る力がある」
しゃらんとそれを鳴らした老人はそうして強引にカカシの腕を取った。イルカの腕輪がすでにはまっているその腕を。
カカシはただその光景を見ていた。剣を振るう、ごつごつとしたその腕に滑り込まされた腕輪。老人の腕輪と、イルカの腕輪。
「一つよりも二つの方が効果があるかもしれん。老い先短い老人の物だが儂が生きている限りは効果があるだろうからな」
笑う老人と自らの腕を見比べて、そうしてカカシは深く頭を垂れた。
「お預かりします。いつか必ず、お返しに上がりますから」
ありがとう。
項垂れたように頭を下げたままのカカシに老人は、そうじゃ、と声を上げた。
「そうじゃ、お主に歌を歌ってやろう。イルカもまだ知らんとっておきのヤツじゃ」
老人の声にカカシは頭を上げる。老人はイルカの持っているのと同じ形の楽器を手にしていた。
「戻った折りには、イルカと共に爺を訪ねてくだされ。あの子にはまだ教えていない歌が沢山あるからの」
イルカが大事そうに抱えていたあの楽器よりもずっと使い込まれた古い楽器が、老人の手の中にある。何か言おうと思うのに言葉が胸につかえてしまったみたいに何も言葉にならなかった。そんなカカシを知ってか知らずか、老人もまたそれ以上何も言わず楽器を爪弾き始めた。
低く乾いた声は、驚くほどなめらかに音を紡ぎ出す。カカシはただその声にじっと聞き入っていた。遠くない戦いのことも忘れ、ただじっとその音に。イルカのことを思いながら流れる音に身を任せ、目蓋を閉じてその音を深く胸に刻み込んでいたのだった。
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