硬い表情のまま部屋に戻ってきた二人を迎え、取りあえず紅を残して三人は診療所へと先に帰った。いったん店に戻るというアスマと別れ、そうしてまた二人きり。
もうとっくに昼を回った時間。帰って昼食を取っているときもカカシの表情は硬いままだった。
なにを話したのだろう。一体どんな話を、二人は。食事のあと二人で部屋に戻るとカカシは不意にイルカを抱きしめた。
胸に広がるのは例えようもない安堵感。ここが自分のいるべき正しい場所だ、とイルカは思った。この腕の中が。
「今日の夕方には発ちます」
そうして落とされた言葉。意味を理解する前に身体が強ばった。まるでその言葉を拒絶するかのように。ひょっとしたら今晩くらいは一緒にいられるんじゃないかと思っていた。勝手に、思っていたから。
かたかたと震えるイルカの身体を一層強い力で抱きしめたカカシは痛みを堪えるようにその肩に顔を埋める。
「ごめん、急に。ごめんね。でももう一刻の猶予もないんです」
そう言ってカカシはいったん腕の力を緩めるとイルカの手を引いてベッドへと腰掛けた。
「姐さんの持ってきた情報はありがたいことにすごく新しくてね。つい最近王国の国境警備隊と一戦交えた魔神がオレの探してる魔神だったんです。そのとき国境警備隊は皆殺しにはされなかったと言っていました。その上、傷を負わせた、と」
魔神はそのままアルディア山脈の方へ姿を消した、という話だった。今なら、勝てるかも知れない。通常、魔神の動きはそれほど素早いわけでもない。同じ所に留まり続けることも少なくない話だ。
手負い、そしてこの近さ。今なら追いつける。この手にかけることさえも夢ではない。
「うまく行けば半年で戻ることも夢じゃなくなってきた」
イルカの視線を絡め取って、カカシはそう言った。具体的な帰還の日を。
半年。半年待てばいいだけなのか?本当に?いつ終わるとも知れないはずの旅は、紅のもたらした情報によって期間が定められた。
「本当に?」
不安に彩られたイルカにカカシは口付けを落とす。軽く、触れるだけの口付けを。
「本当。本当にしてみせます。半年で戻ってみせます」
カカシの灰色の瞳がイルカを絡め取っていく。待っていて、とカカシが口に出すことはなかったけれどイルカはこくりと頷いた。いつまでもカカシを待ち続けると、そう、思いながら。
「あなたがここに帰ってきたら、一緒に辺境へ帰りましょう」
そうしてイルカはそんな風に言った。二人であの懐かしい砂漠へ。イルカの言葉に頷いてカカシはその身をベッドへと引きずり込んだ。
最後の熱を分け合う為に。抱き込まれ深い口付けを落とされながら、イルカはこの熱を忘れないようにときつくカカシにしがみついたのだった。
しゅるりと着物を羽織る音にカカシはのっそりと身を起こす。視線が追うのはさっきまでは無防備に素肌がさらされていた背中。隠されていく素肌が少し惜しくてカカシは裸の胸にイルカを抱き込んだ。
背中から抱きしめられてイルカは、なんですか、と訊ねる。小さな声、そうしてしゃらりと音を立てた手首の腕輪。常にイルカと共にある、それ。
腕の中に収まったイルカの腕を後ろから持ち上げて小さく揺らしてみた。しゃらしゃらと鳴る、その音を聞くために。澄んだ音色。カカシを死の淵から掬い上げた音。
「カカシさんは本当にこの音が好きなんですね」
イルカはくすりと笑ってそう言った。いつだって枕元のイルカの手を捕まえ、しゃらしゃらと揺らしていた。今も、また。
「好き、なんでしょうね。なんだか聞いてると落ち着くような気がするし」
カカシも笑って、そうして腕輪を鳴らす。しゃらしゃらと響く、砂漠の音色。産まれたときから傍らにあった腕輪。イルカの一族の証。不意に思いついて、イルカはその手首から腕輪を外した。
「イルカさん?」
カカシはイルカの唐突な行動に驚いている。そうして。イルカを抱きしめているカカシの腕を取り、その手首に腕輪を滑り込ませた。
「イルカさん?」
もう一度、問いかけるようなカカシの声。カカシの手首にはまった腕輪は自分のそこにあるときよりも、ずっと頼りなく細く見えた。カカシの手首でしゃらりと音を立てる腕輪。
「カカシさんに貸してあげます」
そう言ってイルカはもう一度カカシの腕を揺らす。まるでカカシがいつもそうしているように。しゃらしゃらと音を立てて揺れる腕輪。自分の分身。
「共に行けない私の代わりに、連れて行ってください」
片時も離すことのなかった腕輪。イルカと共に全てを見てきた腕輪。
「この腕輪は一族の証なんです」
わずかに軽くなった腕が少しだけ心許ない、とイルカは思った。
「私たちの民は子供が生まれるとその子のために腕輪を一つ作るんです。その子のためだけに特別な腕輪を」
一族の全ての人間は、だからこの腕輪に酷似したものを身に付けている。そうして、一族以外の人間が見ても、聞いても絶対にその違いは分からない。一族の人間だけが分かるのだ。その血が、音を聞き分ける。
「産まれてからずっと、片時も側から離したことはありません。だから、どうか、連れて行って」
腕輪と、そうしてカカシの手を胸に抱いてイルカは小さな声でそう言った。
大事な物。大事な、人。
「いいんですか?そんな大事な物」
捕まれていない方の手でイルカをきつく抱きしめると、カカシはその肩に顔を埋める。イルカの全てを知る、その腕輪。今はカカシの腕にある、それ。
「貸すだけです。あげませんよ、大事な物なんだから」
愛おしそうにカカシの手の平をなでて、そうしてイルカは小さく笑った。
「それにね、この腕輪の音には魔から身を守る力があると聞いています。ひょっとしたら少しくらいは役に立つかも知れないし。でも、絶対返してくださいね」
一族以外の者にどれほどの効果があるのかは分からないけれど。しゃらりと音をたてる腕輪。カカシの手首でいつものようにしゃらしゃらと。側にいることさえ叶わないイルカの代わりに、どうか。
「必ず」
血を吐くような懇願だ、とカカシは思った。柔らかなイルカの声が悲痛な叫び声に聞こえる、と。痛みを強いたのは自分。黙って受け入れたのはイルカ。
羽のように軽い腕輪が、自分の手首で揺れるのをどこか不思議な思いでカカシは見つめていた。
****
太陽が西に傾ききる前に紅は診療所に戻ってきた。そうしてカカシは彼女から正式な退院許可と数種類の薬を受け取るとその足で紅の診療所を後にする。
もう、立ち止まることは出来ない。紅もカカシもアスマも。イルカの周りの人全てが激しく音を立てて回り始めた運命に呑み込まれようとしている。
それはきっとイルカとて例外などではなく。
カカシと共に紅の診療所を出たイルカは海岸に向かう道を歩いていた。隣にいるカカシの腕からは歩を進めるたびにしゃらりと小さな音がする。常は自分の手首から聞こえていた音。言葉もなく歩いていたカカシが不意に露店の前で足を止めた。
買い忘れたものでもあったのだろうか。そう思って露店を一緒に覗き込めば、そこには色とりどりの装飾品が売られていた。
「カカシさん?」
賑やかしく声をかける店主のことなど気にもかけず、カカシはそこに飾られていた腕輪に手を伸ばした。イルカの手を取り、そうしてそこへそれをはめる。いつも腕輪がはまっていた、そこへ。
しゃらん、と音を立ててイルカの手首に銀の腕輪が滑り落ちた。カカシの腕にあるそれと、よく似た腕輪。
「これ、ください」
呆然としたイルカが何か言うよりも早く、カカシはさっさと店主に支払いを済ませてしまう。そうしてまたイルカの手を引いてゆっくりと歩き出した。
「カカシさん?」
重みを増した手首に少しだけ安堵する。いつもあるものがそこにないというのは思っていた以上に自分を心細くした。そのことに気が付かれたのだろうか、とイルカは思う。
「オレにはあげられるものがないから」
手を引き、半歩前を歩くカカシはぽつんと言葉を零した。
「残していくことも、側にあることも出来ないから」
手を引くカカシの腕と、手を引かれるイルカの腕で同じようにしゃらしゃらと音がしている。
「それに、アナタが腕輪をしてないとなんだかオレが落ち着かない」
そうして、小さく笑ってカカシはそんな風に言った。
夕焼けに照らされ赤く染まったカカシの銀の髪が海風に揺られている。賑わう露店。夕餉の匂い。いつか歩いた町並みと、それは寸分も違わないのに。新しく手首で揺れる腕輪が愛しくてほんの少し泣きそうだ、とイルカは思った。
そうして二人は歩き続け、海岸沿いの薄暗い路地にいた。この町にある中継ポイントまで行くとカカシ言っていた。けれど。
ずんずんと迷いなくカカシの進んでいる方向にはそれらしいものは何もない。巨大な建物の建ち並ぶ閑散とした場所。どうやら倉庫街らしく人影はまるでない。きょろきょろと辺りを見回していたらカカシが不意に立ち止まった。
「ここですよ」
ここ、と言ってカカシが立ち止まった所には何もなかった。ただの路地の途中である。
「え?」
驚いた顔をしているイルカにカカシは笑いかけた。
「オレ達が移動に使ってる中継ポイントは一定期間で移動する仕組みになってます。こういう職業だし狙われることも多いからね。今はどうやらここらしいですよ」
にこりと笑ってカカシはその手の平を地面に向けて何事か呟く。綺麗とは言い難い石畳の上にじわりと魔法陣のようなものが浮かび上がった。
「このまま一気にアルディア山脈の麓まで飛びます」
青を溶かし込んだカカシの灰色の瞳がイルカを見つめている。ただ、じっと見つめていた。その瞳にその姿を焼き付けるように。
「…半年、いや、一年待っても帰ってこなかったらオレを待たずに辺境へ戻りなさい」
そうして紡がれる静かな言葉。カカシの言葉にイルカは顔を歪める。泣いて、しまいそうだった。
「イヤです。何年でも何十年でも待ちます。二人で辺境に帰る日を」
カカシと共に帰らないのであれば、意味がない。カカシがいないのならこの人生にもうなんの意味もないというのに。なんて酷いことを言うのだろう、とイルカは思った。
全て、全てカカシのモノだというのに。ほんの数時間前まで愛された身体がふるりと震えた。寄り添えない体温が悲しい。まだ、手を伸ばせば届くところにいるというのに。
もうカカシは遠い人になりつつある。触れあえない人に。頑是ない子供のように首を振り続けるイルカに、カカシはかける言葉を持たなかった。
「私は辺境に帰りたいです。とても。ここは海ばかりで息苦しい」
絞り出すようなイルカの台詞にカカシは小さな声で、だったら、と呟いた。
「だったら、オレなんかをいつまでも待たずに…」
呟きはイルカのいつになく激しい声に消された。
「だから、早く帰ってきて。一人じゃもう帰れないから。だから…!」
だから、どうか。幸せじゃない未来をその唇で語らないで。あなたの損なわれた暗い未来を語らないで。もしもなんて、聞きたくないから。
息を吐き出したイルカを一度だけぎゅっと抱きしめてカカシはその額に口づけを落とした。動くたびに手首でしゃらりと音がする。イルカの半身が、そこに。
深いため息をつき、カカシはがりがりと頭を掻いた。困っている、のだろう。しゃらしゃらと鳴る音に、無茶ばかりを言うイルカに。けれど、これだけは譲れない願いだ、とイルカは思う。これだけは、何があっても。
最後に深い深い息を吐き出し、そうしてカカシは泣きそうにも見える顔で笑って言った。
「仰せのままに。必ず、帰ってきます。たとえこの首だけになろうとも」
落とされた囁きにイルカはきつく目を閉じる。額に触れた唇の感触は生涯忘れられないだろうと。胸が引き絞られるように痛んでいることを。カカシの言葉に息が止まりそうなくらいの幸せを感じたことを。
生涯忘れることはないだろうと。
「もう行きます」
閉じた目蓋を持ち上げて、名残惜しそうに頬を撫でたカカシをイルカは見つめた。絡み合う視線。ひどく愛おしそうに自分を眺めるカカシを見たとき、不意に唇からこぼれ落ちた言葉。
「好きです。カカシさん。あなたのことが、あなたのことだけが誰よりも」
意識して言葉にしたわけではなかった、本当にふと転がったイルカの気持ち。
「愛しています」
カカシはひどく驚いた顔をした。驚き、そうして少しだけ困ったように顔を歪ませる。泣くのかも知れない、とイルカはぼんやりと思う。
そうして何かを振り切るかのように一度首を振ったカカシは、見たこともないくらい綺麗な顔で笑った。近付いてくる顔にイルカが思わず目を閉じると、囁くようなカカシの声が鼓膜を震わせる。
「知ってますよ、そんなこと」
そうして唇に押し当てられた柔らかな感触。ちゅ、と音を立てて唇が離れ、そうして。
そうしてイルカが目を開いたとき、そこにはもう誰もいなかった。石畳の上に浮かび上がっていた紋様はすでに跡形もなく消え失せ、そうしてそこに立っていたはずの人もいなくなっていた。もう、どこにも。振り向いても、診療所に帰っても、もう、どこにもカカシはいない。
あまりにもあっけない別れだった。遠ざかる背中を見つめることさえ出来ない別れ。かき消えてしまったカカシ。がくがくと震えそうになる膝を叱咤してイルカはカカシがいたはずの空間を見つめた。
最後に触れたのは唇。泣きそうに歪められた顔。柔らかな微笑み。腕の感触、触れた肌の温かさ。悲しみを沈めた灰色の瞳。声、吐息、そのなにもかもを忘れないように。あの目も眩むような幸福な日々の何一つさえ取りこぼさないように。
けれどもう、ここにカカシはいないのだ。気丈に振る舞おうとしても喪失はイルカをいとも容易く打ちのめす。
支えてくれるはずの腕はそこになく、座り込んでしまう前にイルカは踵を返した。
イルカさん。そう呼ばれることがどれほど嬉しかったか、きっとあの人は知らない。あの声で呼ばれるたびにどれほどの歓喜が胸を満たしていたかなんて、誰も知るはずがない。イルカだけが知っている幸福。
ぎしぎしと音を立てるみたいに胸が痛んでいた。半年も耐えられるのだろうか。カカシの不在に。半年では終わらないかもしれないカカシの不在に。
吐き出した息はひどく熱く湿っていた。海からの風が容赦なくイルカを追い立てる。カカシのいた場所から遠ざけるように。
最後まで告白はなされないまま、そうしてイルカは重い足取りで診療所へと向かって歩みを進めたのだった。
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