アスマが三人が居るであろう王宮内の治療院の一室に辿り着いたとき、丁度イルカによる治療が始まろうとしているところだった。紅はアスマを病室に招き入れると、ぴっちりとその扉を閉ざした。全ての窓もぴたりと閉ざされ、カーテンまで引かれている。その物々しい様子にアスマは僅かに眉を顰めた。
「随分厳重だな、オイ」
呟くアスマに答えたのはカカシ。
「ホントはオレは反対なんだけどね、あの人が軍に関わるの。王の目にでも止まってみなよ。どうなるかなんてアンタが一番よく知ってんじゃないの」
カカシの問いかけにアスマはそうだな、と頷く。現王には確かに知られない方がいいだろう。彼は希有な才能を持つ者を、前王のように一人の人間として正しく扱うとは思えない。
「し、始まるみたいよ」
二人の会話を遮った紅の台詞に顔を上げれば、イルカがしゃらりと腕輪を鳴らしながら楽器を奏でようとしているところだった。イルカはいつもと同じようにただ病人の枕元にぺたりと座り込み、胸に異国の楽器を抱えて目を閉じている。
しゃらしゃらと鳴るのはイルカの腕輪。常にその身から外されることのない、それ。初めてイルカを抱いたときそれを外すのを何となく躊躇ってしまったことをカカシはふと思い出していた。
あの、幸せな時を。あの悲しい瞬間を。手に入れてしまった喜びとそれに比例する痛みを。
そうして聞こえてきたイルカの奏でる楽器の音。しゃらしゃらと腕輪を鳴らしながらイルカは歌を歌い始めた。どこか懐かしいような、けれども聞いたことのない音。紡がれる言葉も随分と古い言葉のようで、諸国を渡り歩くカカシでさえもあまり聞き覚えのないものだった。
そうしてしばらくの間、イルカの奏でる音楽に聞き入っていたカカシはふと思いついたようにアスマに話しかけた。
「なぁ、艦長さん」
カカシの呼びかけにアスマは怪訝そうな顔をする。
「なんだ?」
ぼそりと返したアスマの声にははっきりと不快感が滲んではいたけれどカカシはそれには気がつかないふりをした。
「アンタ、魔神との戦闘経験はあるの?」
カカシの問いかけにアスマは僅かに驚いた顔をする。
「なんだいきなり?」
アスマの言葉にカカシはもう一度同じ問いを繰り返した。
「いいから。あるの?ないの?」
執拗なカカシの問いにアスマはいつものように髭をさすった。
「ある。二度ほどだが。一度はオレがまだ下士官だった頃だ。そんときは大分大きな艦隊で当たったお陰か魔神を退治出来たんだがな…」
二度目は…、と言ったままアスマは口を閉ざした。続きは聞かなくても分かった。アスマが軍を退役する切っ掛けとなった戦闘がそうだったのだろう。アスマの表情は暗く沈んでいる。
「今度の魔神、アンタが出なけりゃ勝てないかもよ」
けれどカカシはイルカを見つめたまま、何でもないことのようにさらりと言葉を口に乗せた。その言葉にアスマはぴくりと反応した。
「どういうことだ?」
アスマはカカシを強い視線で見つめる。イルカをじっと眺めるカカシの横顔を。
「今は詳しくは言えない。ただ、強いよあいつは。潰しにかかるなら王国最強の艦隊が最高のコンディションで向かわないと勝てないだろうね」
そう言ってカカシはいったん言葉を句切った。アスマに視線をちらりと向け、そうしてまたイルカへと戻す。カカシの表情も硬かった。
「魔神と対峙するとき何が一番大切か分かる?」
カカシの言葉にアスマは首を振る。二度対峙したが、そんなことはまるで分からなかった。
「経験だよ。魔神との戦闘経験。アンタが一番最初に参加した戦闘にも魔神との戦闘経験がある人間が乗ってたでしょ?」
カカシの言葉にアスマは頷いた。あれはまだアスマが十代の頃だ。大規模な戦闘で参加した古参の上官たちのほとんどは、魔神との戦闘経験があった。
「魔神と一度でも対峙している人間は初めて魔神に遭遇するより精神的な動揺が少ない。これが一番大切なんだ。動揺し、心が乱れればその隙をつかれる」
それに、とカカシは言葉を続けた。
「それにアイツらは人間を殺したい訳じゃない。ただいたぶりたいだけの奴らもいる。だから適当なところで逃げたりするんだ」
動揺すると付け込まれるぞ。カカシはそう言って目蓋を下ろした。
「指揮官には魔神との戦闘経験のあるものをつけた方がいい。そうして第二艦隊はアンタが指揮した方がいいだろうね。もう失いたくないなら、尚更」
部屋にはイルカの声が満ちている。流れるような美しいイルカの声が。普段の歌とは明らかに違うその声、その歌。
「そうか」
イルカの声に混じるようにアスマは呟きを落とした。そのたった一言に滲んだ苦渋にカカシは苦く笑う。
「姐さんがさ、今度の戦に出向くならアンタが付き合ってあげないと死ぬよ。多分」
もう、あれこれ言い訳している場合じゃないのだ。そうカカシはアスマにはっぱをかける。カカシが、イルカが砂漠へ還るようにアスマもまた海へと還る日が来たということだ。実際の所、アスマが出たとしても勝ち目の薄い戦だとカカシは思う。でも、だから尚のことアスマが出るべきだろう。
やれやれと溜息をついたアスマをカカシは笑う。まだあんなにもアスマを慕う部下がいるのだから望まれての帰還だ。悪くないだろう。
「面倒だが仕方ねぇ」
流石に王宮内では煙草を控えているのか、アスマは顎髭を撫でる。どこか晴れやかな顔をして。
辺りには高く低くイルカの歌が満ちあふれていた。しゃらしゃらと鳴る腕輪の音と共に。カカシをこの世に引き戻した、イルカの声が。
不意に曲調が変わり、そうしてベッドに横たわった男がびくりと跳ねた。薬で強制的に眠らされていた男が跳ねたのは一瞬。そうして青ざめた男の顔に赤みが差してくる。赤みが戻るにつれ、ゆっくりと穏やかな表情になっていく男。相変わらず眠ったままだったけれど、徐々に男が回復していく様が目に見えて分かった。
これが、イルカの力。彼の人の一族に託された特殊な能力。しゃらん、と一際鮮やかな腕輪の音が鳴り、そうしてイルカの歌に終わりを告げる。男は未だ眠りから覚めることなく、そうして見た目にもどこも変わったようには見えなかった。
「多分、もう大丈夫のはずです」
言いながら振り向いたイルカはきょろりと首を巡らせた。
「あれ、紅さんは?」
問われてみれば彼女の姿はどこにも見あたらない。いつの間に出て行ったのだろうか。
「歌が始まってからしばらくして出て行ったぜ」
イルカの問いに答えたのはアスマ。そうですか、とイルカが言いかけたとき紅が戻ってきた。
「どう?終わったの?」
息を切らせて駆け込んできた紅にイルカははっきりとした声で、はい、と返す。
「薬が切れて自然に目が覚めるまではこのままそっとしておいた方がいいと思います」
けど、もう大丈夫ですよ。そう静かな声で話すイルカに紅は安心したように微笑んだ。
「よかった。ありがとう、恋姫」
笑みをたたえる紅に小さく首を振ってはにかんだイルカにカカシはそっと近付いた。傍らに跪き、そうしてその身体をそっと引き寄せる。
「お疲れ様」
やんわりとその背中を撫でればイルカは深く息を吐き出した。あれだけの歌を歌いきるだけでも相当に体力を消耗するに違いない。イルカの額に浮かんだ汗が、そのことを物語っているようだった。
「そのままにしておいてあげたいのは山々なんだけど、ちょっとこっちにきてくれる?」
紅の言葉にカカシが顔を上げれば思いの外強い視線にぶつかった。
「見つかったの、アンタが探してる魔神の情報。万が一を考えて向こうの部屋に王宮つきの魔導師を三人呼んであるわ。だから」
そこで言葉を句切った紅にカカシは頷きを返す。もう一度だけきつくイルカを抱きしめてカカシは立ち上がった。
運命が盛大な音を立てて廻り始めている。そんな風に思いながら。
足早に出て行った二人を見送りながら、イルカはその場に残ったアスマに視線を向ける。
「マスターは、行かなくてもいいんですか?」
元軍人だという彼。確かにいわれてみればそのがっちりとした体躯は、あの薄暗い店のカウンターの中よりも海にあったほうが自然だろう。部下にも随分と慕われているように見えた。
「オレはまだ行けねぇな。軍に復帰したわけでもなし、軍付きの魔導師がいるんじゃオレが混ざっちゃ拙いだろう」
そう言ってアスマはのしのしと近寄ってくるとイルカの近くに腰を下ろした。
「それにしてもすごいもんだな」
しゃらしゃらと鳴る腕輪。イルカの奏でる楽器の音色。まるでこの世のモノとは思えないほどだ。
「そんな大げさなものじゃないと思うんですけどね。それに、私にはこれしか出来ないですから」
歌うことしか。
「充分だろ、それだけで」
僅かに俯いたイルカの頭をアスマはくしゃりと撫でた。小さな子供にするように。父親のようなそのごつい手の平の感触にイルカは笑う。
いつも髪を撫でてくれる人とは違う感触。同じように堅い手の平をしているのに、もっとずっと柔らかに触れるあの人の手の平。
どうなるのだろう。これから。一体どうなってしまうのだろう。
横たわった男の静かな呼吸を聞きながらイルカは思う。刻一刻と迫る別れの時。あの人の不在に耐えられるのだろうか、自分は。
これから訪れるであろう、長い長い一人の時間に。あの人が側に居るときは決心がつくというのに、いざこうして一人の時に考えるとどうにも心許ない。
あの人が側にいるときは、この幸福な記憶さえあれば生きていけると思ったのに。堪らなく不安で寂しい。不意に表情を曇らせたイルカの心情を察してか、アスマは背中を軽く叩いてそれきりなにも言わなかった。
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