唐突な言葉に驚いたのは紅だけではない。イルカも、アスマでさえ面食らったような顔をしている。
「どういう事…?」
自慢の艶やかな髪を揺らして紅はカカシを見つめた。情報に対して一体何を要求されているのか。
「やっぱり知らないか。対価さえあれば情報は交換できるんだけどね」
謎かけのようなカカシの言葉に誰も答えを返せない。
僅かに落ちる沈黙。カカシはひたりと紅を見つめたままだった。
「対価?」
カカシの視線を受け止めて紅はようやく沈黙を破る。
「そう、対価。魔神の情報に対等の価値のあるもの」
なんだか分かる?イルカはただじっとカカシを見つめていた。同じカカシのはずなのにどこか遠い国の人のような顔をしたカカシ。イルカと二人の時とは明らかに違う雰囲気。人ならざるモノを狩るときのカカシ。
押し黙った紅にカカシは答えを口にした。
「魔神の情報だよ。姐さんが知りたいと思ってる魔神と同等の力を持つ魔神の情報」
告げたカカシに紅は厳しい顔をした。
「情報さえあればこちらにも情報を渡せるって事?」
まるで挑むかのような視線。紅の言葉にカカシは静かに頷いた。
「そう、強い言葉、重要な情報は同じモノで打ち消せる。どういうカラクリなのかはオレも分からないけどね。交換された情報の魔神は来なかったからそういうことになってる」
仲間内で話すときも同等の情報を持っていないときは魔神の話は一切しない。それこそ砂漠の真ん中か、よほど気を付けなければならない事がない限り。結界を張ってまでする話など本当にほとんどない。
魔神の話をしないときは世界情勢を交換しあうくらいだ。そんな風に言ってカカシはもう一度紅に問うた。
「で、姐さんはなんか持ってるの?」
握りしめたままの手の平が少しだけ汗ばんでいる。イルカは不意にそんなことを思った。二人分の体温がそこにとどめられているせいで。離してしまえば消え失せてしまう温もり。カカシの体温。絡めた指が、このままくっついて離れなくなってしまえばいいのに。
「持ってないわ。今すぐには分からない。王宮に戻れば情報の一つや二つ持ち出すことが出来るかもしれないけれど」
けれど、それが果たしてカカシの持つ情報に見合うだけの情報かどうかは分からない。そうしてカカシの知り得なかった情報なのかも。
「まぁ、王宮の魔導師を三人か四人借りて結界張ってもいいんだけどね」
出来たら情報が欲しいよねぇ。イルカと繋いでいない方の手でがりがりと頭をかきながらカカシはぽつりと呟いた。
カカシの欲する情報はただ一つ。彼の目に呪いをかけた魔神のこと。その情報が果たして王宮にあるのか、ないのか。
「明日…、明日王宮に一緒に来てもらえるかしら?」
僅かに考え込むような顔をしていた紅はカカシに視線を合わせてそう問うた。
「あなたの持つ情報が欲しいの。喉から手が出るほどに。どんな手段も厭わないほどに。王宮にある限りの情報をかき集めてみせるわ。だから…」
悲痛にも聞こえるその紅の言葉達にカカシは頷く。
「オレも欲しい。この呪いを解く手がかりが」
握りしめた手がもう一度きつくきつく痛いほどに握られる。
全てはイルカの元へ還るために。カカシの言葉に少しだけ表情を弛めた紅に、ふとイルカは視線を向けた。視線を受け止めてイルカは強く思った。
紅に出来ること、カカシに出来ること。そうして自分に出来る、たった一つのこと。歌を、歌うこと。
「明日私もついて行っていいでしょうか?」
イルカの突然の言葉に紅もカカシも驚いたような顔をした。今まで紅に向けていた視線をイルカに引き戻したカカシと視線がかち合う。カカシの言葉が本当ならば、もう自分を縛るモノは何もないはず。もう、隠さなくてもいいのならば。
イルカの決意に気付いたのかどうか、カカシはやんわりと微笑みを浮かべる。
「そりゃあ構わないけれど…」
ほんの少しだけ困ったように笑う紅。あぁ、そうじゃなくて。紅の勘違いに思わずイルカも頬を染める。
そうじゃないのに。そりゃあカカシと一分一秒でも離れていたくはない。ただでさえ彼の出発までにはもう幾ばくかの時間も残されてはいないのだし、片時も離れず側にいたいのは本当だけれど、そうじゃないのに。
「あの、そうじゃないんです」
顔を赤くしたまま僅かに俯いたイルカは浅く息を吐き出して、もう一度紅に視線を合わせた。
「私になら、紅さんの患者を救えるかもしれません」
繋がれた手の温もりがなかったらこんな事は一生誰にも言えなかった。生きにくいこの海辺で、一生神から与えられたこの力を使うこともなく、誰とも交わることもなく血を残すこともなく朽ち果てていただろう。
この人が、いなければ。仮に帝国の脅威が去ったことが分かっても辺境に帰ることすら思いつかなかったに違いない。
「どういうこと?」
イルカの言葉に紅は驚くというよりも怪訝な表情を浮かべる。
「姐さんに前に話したことあったよね。この人『奇蹟の民』だよ」
漠然とした紅の問いに一瞬なんと答えたものかと押し黙ったイルカを見透かしたように、カカシが言葉を引き継いだ。前に話した、といっていたけれどいつそんな話をしたのだろう。イルカは不思議な思いで傍らにあるカカシを見た。
「恋姫が?奇蹟の民?本当に?」
俄には信じがたいという表情で紅はイルカを見つめている。困惑と驚きと僅かな期待。それらが複雑に入り交じった視線のまま紅はイルカをじっと見つめていた。
その視線を受け止めて、イルカはゆっくりと首を縦に振る。そう、自分は奇蹟の民と呼ばれた一族に生まれ落ちたもの。歌声で人々を癒す技を神より与えられたもの。
未だ未熟ではあるけれど。人々の心に巣くう恐怖を取り除く歌は、まだ辺境にいた頃なんども歌ったから。
多分、きっと大丈夫。
「本当です。一生誰にも言うつもりはなかったんですけど」
苦くイルカは笑った。信用していなかったわけじゃない。紅のことを、アスマのことを信用していなかったわけじゃないのだけれど言えなかった。
もう誰にも言うつもりもなかった。あのときの恐怖は忘れることなんて出来なくて、言葉にしたら魔神のように帝国の人間を呼び寄せてしまいそうで怖かったのだ。
「カカシさんには気付かれてしまいました。ごめんなさい、今まで黙ってて」
苦く苦く笑ったまま俯いたイルカの手をカカシはぐいと引き寄せる。繋いだ手をほどいてそうしてカカシはイルカの肩を抱きしめた。
「アナタが悪いわけじゃないよ」
なだめるように肩をさすり、小さな声でイルカを慰めた。胸に染み入るようなその甘やかな声。全てを知られている、とイルカは思った。
不意に唐突に、思った。隠していたなにもかもを見透かして、そうしてイルカを手に入れた人。イルカの全てを所有する人。イルカの全て。全てなのだ。カカシだけで埋め尽くされていく世界。
「話してくれてありがとう。と言うわ、恋姫。ずっと辛かったでしょう」
ふんわりと笑った紅。その横でアスマは黙って新しい煙草に火を付けた。そうして黙ったままイルカを見つめ、ひどく優しい顔で笑ってくれた。言葉はないまま。
「じゃあ、明日恋姫も王宮に出向いてもらうわ。全てが上手く行くと良いわね」
やっと肩の力を抜いたようにいつもの調子で紅は笑った。煙草をふかす恋人を見上げて、そうしてほんの僅か責めるような視線を向けて呟きを落とす。
「あんたはどうするの、アスマ」
「……そうだな…」
不可思議な紅の問いかけにアスマはそれしか言わなかった。たったそれだけしか。
二人の会話の意味が掴めないままイルカはそれを眺めていることしかできなかった。
あと一日。あと一日は一緒にいられる。もしかしたら明日の夜も。そのことに自然と浮き立つ心をイルカはどうすることも出来ない。どうする気もないのかもしれないけれど。心は勝手に浮き立ってしまうのだから。
本当ならばもうここにはカカシはいなかったかもしれないのに。まだ、ここにいる。イルカの側に、手の届くところに。
それが嬉しい。なによりも。
風呂上がりのまだ乾ききらない髪をそのままに、古びた手帳をめくるカカシの背中に後ろからそっと抱きついた。
「なにを見てるんですか?」
広い温かな背中。穏やかな気配のカカシ。イルカにだけ許された距離。ぴったりと寄り添えることの喜び。
「覚え書きをね。倒した魔神のことや仲間から聞いたことなんかを暗号にして書いてあるんですよ」
覗き込めば確かにイルカではさっぱりなんのことやら分からない文章が手帳の中で踊っていた。古い手帳にびっしりと書かれたカカシの文字。そういえばカカシの筆跡など初めて見た、とイルカは思った。まじまじと見つめればカカシの小さな笑い声が聞こえる。
「おもしろいですか?」
くつくつと笑いを漏らすカカシにイルカは素直に頷いた。
「はい」
イルカの返事にカカシはもう一度笑って、自分を抱きしめている腕をぐいと引っ張った。そのままぐいぐいと引かれてイルカは結局カカシの腕にすっぽりと仕舞い込まれてしまう。
今までとは逆の体勢でイルカはそのメモを覗き込んだ。
「思う存分どうぞ」
手帳をイルカに持たせカカシは空いた手でゆったりとその身体を抱きしめる。そうしてイルカの肩に顎を乗せ自らも手帳を覗き込んだ。甘やかで密やかな優しい空気。
どうぞ、といわれたのでイルカはおずおずとそのメモをめくっていった。読めない文字列の中に時折絵が描き込まれている。
「カカシさん、これは?」
見慣れない植物のような物の絵を指せばカカシは柔らかな声で説明をくれた。
「それはね、薬草の一種なんです。とても珍しい物であんまり見かけないんですけど、東の大陸へいったときにたまたま群生してる平原を見つけてね。場所とかそういうのと一緒にメモっておいたんです」
その植物がこれ。そう言ってカカシは描き込まれた薬草を指で辿った。繊細で精密な絵だった。字は、上手いのかどうなのかイルカには判断が付きかねたけれど、絵は相当に上手い。ぱらりとめくれば次に出てきたのは地図。
「これは?」
イルカにはさっぱり見当もつかない土地の地図。
「あぁ、これ?これはね、アムドゥシアス騎士帝国の地図。あそこの帝都はすごく入り組んでて分かりにくいんです。町の至る所にガイドが立ってたり地図屋があったりするんですけどこれが結構高くてね。魔神狩りの知り合いに一人ここの出身のヤツがいて、たまたま近くでかち合ったときにとっ捕まえて案内してもらったんです。一回しか案内しないとかいうからそりゃもう必死で地図を描いてね」
くつくつと笑いながら、あのときは大変だった、というカカシ。楽しそうなカカシにイルカも少し笑った。
「騎士帝国にはなにかあるんですか?地図を描かなくちゃならないってことは何度も来るからでしょう?」
イルカの問いかけにカカシはえぇ、と頷く。
「ここには魔神を倒した報酬をもらいに来るんですよ。報酬所ってのがね世界に3カ所しかなくってねぇ。ここアムドゥシアス騎士帝国とシェルブ法国、それにグレイグ神聖帝国です。あとの2国は遠いし入国審査が厳しいからそれならまだ騎士帝国で迷う方がマシっていうか、まぁ、それでね」
それでね、ここが。そう言ってカカシが地図の一点を指す。
「ここが報酬所。報酬所の横にはちゃんと預かり所があってね、ここでもらった金のほとんどを預かってもらってるんですよ」
魔神一体倒しただけでも一生遊んで暮らせるだけの金が手にはいるという。カカシが何体の魔神を倒したのか知らないけれど結構な金額を預けているのではないだろうか、とイルカは不意に思った。ちらりと投げた視線の意味に気がついたのかカカシはくふりと笑う。
「イルカさんと二人でも一生楽に暮らせるくらいの金は貯めてありますよ」
ふふ、と笑うカカシの言葉にイルカは息が止まりそうになった。この人は気がついているのだろうか。
その言葉の意味に。その言葉の重大さに。
二人で一生だなんて、そんな風に未来を暗示させるような事を簡単に口にするカカシ。嬉しくて息が止まりそうだった。彼の未来に自分がいることに。息が止まりそうなくらい嬉しい。告白さえも受け取れないのに、そんなことを簡単に口にして。歓喜に震えそうになる身体をそっとカカシに預けてイルカは小さな声で問いかけた。
「カカシさん、お願い事をしてもいいですか?」
「なんでしょう?」
イルカの震えに気がついたのか抱きしめる腕の力が強くなる。背中にある、カカシの温もり。
「もっと、未来の話を沢山してください。あなたの呪いが解けたあとのことを」
愛の告白はきっともらえない。だから、その代わりに。その未来を夢見てさえいれば生きていけるほど沢山の、もしも、の話を。
イルカの懇願にカカシは聞こえないくらい小さな声で、ごめん、と囁いた。聞きたいのは謝罪の言葉ではないから。
「叶えてもらえますか?」
震えそうになる声で問えば、はい、と答えてくれた。果たされないだろう未来。訪れるはずもない未来。けれど、カカシの声でそれを語って欲しいと思う。
「いつか、アナタも一緒に行きましょう。イルカさん、きっと驚くだろうなぁ。こんな入り組んだ街があるのか、って」
カカシの声も、少し震えているように聞こえた。イルカはそれに気がつかないふりをしてこくりと頷く。
「そうですね。私はあまり色々な所に行ったことがないから」
いつか本当になるといいと思いながら。
「東の大陸には奇岩群に覆われた谷があるんです。朝焼けに照らされた岩がすごく綺麗でね。いつか、見に行きましょう」
いつか、世界をアナタと共に巡りましょう。オレの見た全てを。世界は喜びと絶望に満ちているけれど。いつか、この呪いが解けたら。
手帳をめくりながらそうしてゆっくりと時間をかけてカカシは未来の話をしてくれた。イルカが望むままに。叶えられる可能性のひどく少ない未来ではあったけれど、イルカはそれだけで生きていけると思った。
この幸せな一ヶ月間の思い出があれば。ずっとカカシを待ち続けることが出来る、と。そう思った。
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