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密やかでささやかな夜が明け。そうして、朝になり、昼をまわっても紅はまだ王宮から戻らなかった。
午前のうちに足りないものを買い足していたカカシはイルカと共に主治医である紅を待っていたが、昼を過ぎ太陽が西に傾き始めても家の扉は一向に開かれない。何事かが起こっているのは確かだった。
通常どんな重傷患者を抱えていても昼には一度王宮から帰ってくるはずの紅が、未だ戻らない。何もかもを燃やし尽くすかのように太陽が空を染め始めた頃、ようやく紅の診療所件自宅の扉が乱暴に叩かれた。
「はい!」
慌ててイルカがその扉を開けば、そこに立っていたのはアスマだった。
「よう、ちょっと邪魔してもいいか?」
のっそりと重たげに身を屈め、口には煙草をくわえたままアスマはそう言って診療所の扉を潜る。
「どうぞ」
身をずらしイルカはアスマを中に迎え入れた。アスマの放つ気配がいつもよりも堅い、とイルカは思う。
「まだ帰ってねぇのか?」
「あぁ、まだだ」
答えたのはカカシだった。診療所のベッドに腰掛けたカカシは、感情の読みとりにくい瞳でアスマを見る。
「マスターの所にもまだ?」
紅の机に勝手に座り込んだアスマの目の前に灰皿を置きながら、イルカは問いかけた。その問いかけにアスマは小さく頷きを返す。
アスマと紅は恋人同士だ。二人ともそれをおおっぴらに公表しているわけではなかったけれど、彼らに近しいものならば誰でもそれを知っている。紅が必ず、自宅に帰る前にアスマの所に寄ることも。アスマの所にもまだ寄ってはおらず、そうして自宅にも戻っていない紅。
刻々と沈みゆく太陽に痺れを切らしたのかアスマはここに来たけれど、予想した通りまだ彼女は帰ってはいなかった。重い沈黙が閉じられた空間に満ちる。
「魔神絡みだな」
ぽつりと呟いたのはアスマだった。ふー、と長いため息のように煙を吐き出して煙草を灰皿に押しつける。
「ま、そうだろうね」
返したのはカカシ。
「この世界の厄介ごとにはほとんどの確率で魔神が関わってる」
どこか皮肉な笑みを浮かべてカカシは背伸びをした。不安げに二人を見つめていたイルカにカカシはちょいちょいと手招きする。
「アナタもちょっと落ち着いて」
誘われるままにカカシに近付けば空いたスペースをぱんぱんと叩かれた。
「港に迎えに行ったとき無事な姿は一応確認したわけだし、今すぐに命に関わるとかいうものでもないんだから。ね」
宥めるような発言は一体どちらに向かって放たれたものか。カカシの言葉にアスマは肩をすくめ、イルカはほんの少しだけ表情を弛めてベッドへと腰掛けた。
また、落ちる沈黙。拳一つ分ほど距離を開けたところに座ったイルカにカカシはぴったりと身を寄せる。じわりとにじむ体温。身体になじんだ温もり。
辺りを染めていた太陽はその姿をほとんど水平線へと隠し始めている。無言でランプに火を入れたのはアスマだった。辺りにはまだ沈みきらない太陽の残光が散らばっている。
のろのろといつまでも動かない時間。浅く息を吐き出して、イルカはそっとカカシの肩に顔を埋めた。
そのとき。がちゃり、と扉の開く音と共に部屋に満ちた沈黙を振り払うような風が吹き込む。
「アスマもいるわね」
風と共に扉から入ってきたのは待ちかねた人物だった。
「紅!」
ほんの少しだけ慌てたように立ち上がったのはアスマ。まだ長い煙草を灰皿に押しつけて紅の方に足を向ける。
「アスマここで煙草を吸わないでちょうだい。一応診療所なんだから」
立ち上がった男に一瞥をくれるとその身を覆っていたマントを放った。ばさりと音を立てたそれをアスマは受け止めて、そうしてさらに机の上に放り投げる。
「お、お帰りなさい」
イルカもまた立ち上がっていた。
「ただいま。重症患者もまだ勝手に退院はしてないようね」
紅がちらりとカカシに目を向けると、視線の先の男はほんの少しだけ笑って肩を竦めた。そうして紅はイルカに向かってふわりと微笑みを投げ、手近な椅子を引き寄せる。
疲れ切ったようなその表情に事態の深刻さが滲み出ているようだとイルカは思った。
「何が、あったんだ?」
アスマもまた紅の側に椅子を引き寄せると、低くそう問いを発する。カカシは何も言わないまま、ただ同じ所に座していた。心配そうに立ちつくすイルカの側に。
こんな紅を見るのは初めてだ、とイルカは思う。こんな疲れ切った紅を見るのは。動じない人、というわけではないけれど紅はその若さで軍に身を置くだけあって気力も体力も満ち足りている人だ。その人がこんなにもくたくたに疲れ切っている。
どうすることも出来ないまま、ただただ見つめるしかないイルカの手を不意に包んだ温かな体温。驚いて振り向けばカカシが柔らかく笑んでイルカの手を握っていた。
大丈夫、落ち着いて。言葉にはしなかったけれど、そんな風に言われたような気さえして。たったそれだけのことなのに心がほわりと暖かくなる。
くいと、引かれるままにもう一度カカシの隣に座り込んだイルカはほんの少しだけその手を握り返した。全てはカカシなのだ。そう、イルカは思う。自分の中の何もかも全てがカカシに繋がっている。
どんな不安なことも悲しいことも辛いこともカカシさえいれば大丈夫なのだ。心も体も全てカカシに奪われた。そういう、事なのだと思った。その全て何もかもが、もうすぐ取り上げられてしまうけれど。
「魔神が、出たの」
物思いに沈みかけたイルカの意識に不意に飛び込んできた声。ひどく静かな紅の声。高すぎないなめらかな紅の声。
「カルガイシュ王国との境界に近い辺りの海域よ。あの辺りの群島の一つにいる」
逞しいアスマに寄り掛かって紅は疲れたように言った。
「見たのか?」
聞いたのはアスマ。カカシは相変わらず黙ったままイルカの手を握りしめていた。
「見た、と言っていいのかどうか分からない。ただ霧が晴れないの」
紅たちの巡視艇がその海域に差し掛かったとき一つの島にだけ不自然なほどの霧がかかっていた。かかっている、という状態ですらなかったかもしれない。
霧は島全体を覆い尽くす状態で一向に晴れる様子もなかったからだ。島には島民が残されている。おそらく残されているだろうと思われた。
あまりにも分かりやすい違和感に巡視艇は警戒を強め、3人の偵察部隊がまず送られた。丸1日経っても帰ってこない彼らのあとに、もう一度3人の偵察部隊が派遣される。
彼らは、帰ってきた。一人は首から上が千切り取られたようになって帰ってきた。もう一人は同じように下半身が千切り取られていた。まるで柔らかい飴細工のように。
残された顔には恐怖が色濃く張り付いたまま、そうして最後の一人は辛うじて生き延びたものの発狂していた。
「今は王宮の治療院に収容されてるわ。薬で眠ってるときはいいんだけど目覚めたら恐怖に顔を引きつらせて泣き叫ぶのよ。自分の首といわず胸といわず掻き毟りながら」
なんにもしてあげられないの。ぽつんと呟いた紅を引き寄せてアスマは黙ってその髪を梳いている。重く沈んだ紅の表情にイルカは顔を歪めた。
なんにもしてあげられないの。そう言った紅の言葉が胸につき刺さる。
なんにも、してあげられない。諦めと絶望と、そうして血を吐くほどの無力感に苛まれたその言葉。自分にはしてあげられることが、ある、のに。
「ひとまず帰還したけれど魔神はまだあそこにいる。残された島民と共に。姿も見えず退治の仕方も分からないまま」
そう、人の身体をねじ切った魔神はまだその島に居座り続けているのだ。霧は晴れないのだから。
「第五艦隊と第十二艦隊の派遣が決まったわ。追って第一、七、八艦隊の派遣も決まってる。戦闘を控えてない艦隊も続々と呼び戻されてる。けどね、魔神の正体も分かっていないの。このままだと島ごと沈めざるを得なくなる」
紅の髪をなでていたアスマの手がぴたりと止まった。紅は、じっとカカシを見ている。カカシもまた紅の強い視線を受け止めていた。
不意に不自然なほどの沈黙が部屋の中を満たした。ランプの燃える小さな音。通りを急ぐ人々の声。ざわめき。
「何か、知らない?銀の魔神狩り」
アスマに凭れかかったまま紅はそんな風に聞いた。
魔神狩り。その言葉にびくりと身体を強ばらせたのはイルカだった。らしくない紅の物言いに驚くよりもイルカに衝撃を与えたのはその事実。カカシが魔神を狩る者であること。いつこの世から消えてもおかしくない存在であること。
一国の軍隊ですら驚異を覚えるモノに一人で立ち向かわなくてはならない運命にあること。そのことが、イルカの胸に深々と傷を付ける。知っていた事実なのに、分かり切っていた事実なのに。
世界を狭め、閉じこもっていたときには漠然としか受け止められなかった真実がイルカの胸に突き刺さる。激しい痛みと共に。繋がれたままの手をきつく握りしめれば、同じだけの強さで握りかえされた。
カカシの視線は紅に向けられたままだ。俯いて握られた手を眺めたイルカの鼓膜をカカシの低い声が震わせる。
「…霧、ねぇ。知ってるよ。その魔神のことは知ってる。仲間内でも何度か話したことのある魔神だよ。オレも一度だけ見たことがある」
事も無げに呟いたカカシに一番驚いた顔をしたのは、問いを発した当の本人だった。凭れかかっていたアスマから身を離し、カカシの方へ僅かに乗り出す。
「何か、教えられることがある?」
奇妙な問いかけだった。何か教えて、ではなく教えられることがあるか、と聞いた紅。
「何も。何も教えられない」
首を振りながらカカシはそう答えた。
「なぜですか?」
カカシの答えに思わず問いかけたのはイルカだった。なぜ、教えられないのか。どうして紅もそれを承知している風なのだろうか。なぜ?
問いかけたイルカにカカシは視線を戻す。
「魔神を呼ぶからですよ。その魔神の話を具体的にしてしまうと、その魔神を呼び寄せてしまう。そういうことがあるんです、実際に」
過去に、あったのだ。沢山のそういう事例が。もっと世界が未発達で魔神の数も多くなかった頃から。活発に栄えていた都市で、活発に交わされていた魔神達の情報。
一夜にして沈んだ都市がどのくらいあったのか。そうして魔神の話は禁忌となった。一番具体的なものは、その魔神の名。けれど魔神の名など滅多に知れるものでもない。
名を知らぬ魔神も都市を沈めた。ではどこまでならば?少しならいい。ほんの少しならば魔神は来ない。名を呼べば、必ず来る。
ではどこまで話したら呼んでしまうのか。その線引きが出来ないまま、人々は口を閉ざす。話さないことが、一番よいのだと。
「オレ達の仲間内ではね、話します。呼んでも構わないし話す場所を弁えてるから」
そもそもがはぐれた人間ばかりだ。仲間意識も薄く、会うこともあまりない。会えば情報を交換したりもするがそもそもが何十万という人間を抱え込む国家などとは立場が違いすぎる。
「ここは魔神の話をするにふさわしい場所じゃない。強力な結界内かそれこそ砂漠のど真ん中でもない限りね。方法がないわけじゃないけど…」
そう言ってカカシは言葉を句切る。少しだけ気まずげにイルカを見つめて不意に視線を逸らした。
「姐さん、アンタなんか持ってんの?」
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