お茶を飲んだ。乱れたイルカの心を静めるような温かなお茶を。そうして二人、ベッドに潜り込みまた長い話を始める。
「オレの産まれた場所は帝国との境目にあるラーニのオアシスです」
密やかに、世界にたった二人しかいないみたいに。暖かなふとんに潜り込んで。カカシの腕の中。吐息が触れるくらい近くで。
「ラーニ…。じゃあ、カカシさんはディルダ族なんですか?」
イルカの問いかけにカカシは小さく頷いた。
ディルダ族。辺境で知らぬものはいない有名な民だ。帝国との境に都市を築き、辺境を守る戦士の一族。強く気高く誇り高い一族。
「正確には今はディルダ族ではありません。オレはあの部族から放逐された。これを見てください」
そういってカカシは傷だらけの腕を持ち上げた。白い肌に痛々しいほど無数の傷が。その傷にそっと手を這わせたイルカにカカシは柔らかく微笑んだ。
「オレの腕には傷以外何もないでしょう?」
カカシの問いかけにイルカはその真意も分からぬまま頷き返す。
「ディルダの民は成人するときに右腕に入れ墨を彫るしきたりがあります。オレには、それがない」
なんの感慨も抱いていない声だった。そのことを辛く思っている様子もなく、ただ淡々と事実を述べるカカシ。まるで人ごとのような口調。
「部族が魔神に襲われたのは、オレが6歳の時でした」
遠くを見るような、カカシの視線。まだ小さな子供だったカカシ。
「ディルダ族ではね、持ち回りで城門城壁の警護に当たることになってるんです」
そういってカカシはゆったりと目蓋を閉じた。
あの日。あの厄災の日。城門の警護に当たっていたのはカカシの父親だった。4人の兄弟のなかで一番年上のカカシがいつも父親に弁当を届ける役目をしていた。
「いつもと変わらない日差しの強い日でね。日影に入りたくて走って城門まで行ったんです」
いつもみたいに。駆け寄るカカシにいつものように手を挙げた父親。日中は開け放たれている城門の向こうにはオアシスが育てた僅かな緑が広がっていた。変わらない、風景。
「魔神が現れたんです。門のすぐ近くに。音も気配もなく、忽然と」
いつだったか紅が海上で初めて魔神を見たと言ったときのことをカカシはふと思い出した。そう、忽然と姿を現す。あの者達はいつだって。
一番最初に気がついたのは誰だったのだろうか。目の前で閉じられていく城門にカカシは驚いて立ちつくしていた。6歳の子供だった。まだ、ほんの小さな。
現れたものの正体すら分からずにカカシは閉じられていく城門の向こうをじっと見つめた。そうして焼け付くような痛みを、左目に感じて。
「幸いなことに呪いを受けたのはオレだけでした。門が閉じきる前に魔神を追ってきたオレの師匠が辿り着いてね」
師は魔神を退けはしたが殺すことは出来なかった。そうして痛みにのたうち回るカカシの元に駆けつけてくれた。どうしていいのか分からず狼狽える大人達を尻目に両親を連れて奇蹟の民の所まで連れて行ってくれた。
彼もまた、部族を捨てた人だったのにもかかわらず。己が捨てた、故郷へ。
「呪いは解けると思われていました。けれど、結果はこうです」
呪布の巻かれた左目に手の平を当ててカカシはぼんやりと呟きを落とす。師がわざわざ捨てた故郷へとこの命を運んでくれたにもかかわらず結局呪いは解かれることはなかった。
「命が助かっただけでも凄いことだったんです。呪いは解けなかったけれど、命は落とさなくてすんだ」
少しだけ苦いような笑みを湛えてカカシは左目から手の平をどけた。
「呪いはオレの周囲を巻き込むほど強いものだった。オレは必然的に故郷から離れなくてはならなくなったけれど、まだそのときは部族から放逐されるようなことにはなってなかったんです」
「え?」
ぽつりと落とされた告白にイルカはひどく戸惑った。呪いのせいで故郷にいられなくなったのではないのか。
「なら、どうして…?」
呟いたイルカにカカシはそっと笑った。
「狂った皇帝と、一族の業のせいとでも言いますかね」
ふうと溜息を吐き出してカカシはイルカから僅かに視線を逸らした。
「部族の人間だってね、さすがにオレが被害者でしかないことくらい分かっていました。6歳の子供が不幸にも一生を台無しにされるような呪いを受けてしまったことを、哀れみこそすれそのことで放逐なんて真似はさすがに考えなかったと思います」
気高く誇り高きディルダの民。留まることの出来ない子供を魔神を狩る者に預けこそしたが、成人の折りには帰ってこいと言ってくれた。
「それからオレは、いつか呪いを解き故郷に帰ることを夢見て生きました。十二の歳まで師匠について諸国を巡り、必死に強くなった」
ゆっくりと息を吐き出してカカシは言葉を続ける。
「十二のとき師匠が死んで、それからは一人あちこち魔神を狩りながら渡り歩いていたんです」
そうして、それから幾月かの年月が過ぎ去り。カカシが成人を迎える年がやってくる。
「オレの部族は十八で成人します。その年の一番夜が短い日に腕に入れ墨を彫り、成人の儀式とするんです。オレは呪いのこともあってその日の朝早くラーニのオアシスへ足を踏み入れたんです」
やけに蒸し暑い日だった。早朝からどこかまとわりつくような風が吹いていたのをよく覚えている。
「不幸な偶然だったんでしょう。オアシスから城壁の方を見たときに火の手が上がっているのが見えました」
もうもうと黒煙を吐き出す城壁にカカシは異常を悟った。何かが起きている。慌てて駆けつければそこには押し寄せるドラン帝国の軍隊が、いた。門を破り故郷を蹂躙しようとしている者達が群がっているのが見えた。
「必死だった、と思います。突然のことに驚いて考えが足りなかった、とも」
静かに言葉を紡ぐカカシをただじっとイルカは見つめる。灯りを極力落とした部屋の中に浮かび上がるカカシの整った横顔を。触れあうほどに近くにいる、カカシをただ見つめた。
「オレは持ちうる全ての力を尽くして帝国軍を退けた。不眠不休で何日も戦いました。その間籠城の為に閉じられた門が開くことは、一度もなかった」
息を吐き出し、カカシはイルカに視線を向ける。痛みを堪えるように眉を寄せたイルカをそっと抱き寄せてその髪に唇を寄せた。
別に、構わなかったのだ。門が開こうと開くまいと。一度門を開けたらどうなるかくらいカカシにだって分かっている。門は開かないものと、援軍は来ないものと知っていて戦ったのだから。
それに。これだけ多くの人間を相手にすることよりも魔神を相手に戦うことの方が何倍も辛いことだとカカシは知っていたから。だから平気だった。戦うことには、とうの昔に慣れていた。
けれど。
「敵の半数以上の部隊を壊滅に追い込んだころ、帝国軍は去りました。ディルダを迂回して辺境の奥へと進むために」
全ての帝国軍がやがて去った。オアシスは血に染まり赤い砂を巻き上げて風が轟々と吹き荒れる。そうしてカカシは一族より放逐されたのだ。
「どうして!」
驚いてイルカはカカシに問いかけた。どうしてそこでカカシが放逐されるのか。カカシは、民を救った英雄ではないか。
「彼らは本来戦うことを生業としていた民です。長い間の平穏で今でこそ大きな戦闘に参加することはなくなっていますがそれでも辺境を守るのは自分たちだと思っていた」
誇り高きディルダの民。圧倒的多数で制圧に乗り出した帝国軍に戦いを挑むことも出来ず籠城を余儀なくされ、そうしてたった一人の人間によって救われた、哀れな戦闘民族。
彼らの誇りはカカシによってズタズタにされた。一族の誰にも出来なかったことを、たった一人が成し得てしまった。呪われた子供が、たった一人で。ただの逆恨みに過ぎないことは彼らにもカカシにも分かり切った事だったけれど。
「異形のモノ、と言われましたよ。大地を薙ぎ払うその力我が部族の力に有らざり、とね」
彼らには護らなくてはならないものがあったのに。帝国の蹂躙から全ての辺境の民を守らなくてはならなかったのに。辺境の民どころか我が身一つさえ満足に守れないまま、かつて部族を去った呪われたものに命を救われてそうしておめおめと生き延びている。
それは、恥以外のなにものでもなく。けれど、だからといって帝国軍を追いかけて華々しくその身を戦場に散らす決意もつかぬまま。全ての責任をカカシに押しつけて門は再び閉ざされた。
「オレはそうして帰る故郷を失いました」
それからは確固たる目的もなく、ただただ呪いを解く為だけに魔神を殺し続けた。
「酷い…。あんまりです。あなたが可哀想だ」
カカシの身体をきつく抱きしめてイルカは泣き出しそうな声でそう呟く。僅かに震えるイルカの身体を抱きしめ返しカカシはゆったりと幸せそうに笑みを浮かべた。
「生きることは死ぬことよりも辛いことだったけれど、今はこの命があることに感謝しているんですよ」
その言葉にイルカは埋めたカカシの胸から顔を上げた。優しく細められた瞳に漆黒の瞳が絡め取られる。
「アナタに出逢えたから」
ふんわりと笑ったままカカシのその大きな手の平でイルカの髪を梳いた。
オレの生きる意味、生きる答え。全てはこの存在の為に。倦み疲れていた、この世界に。この身体に。何もかもが無駄にしか思えずただ目的もなく呪いを解く為だけに生きていた。その色褪せた世界に命を与えてくれた人。
カカシの言葉に泣きそうな顔で笑みを浮かべたイルカはその温かな胸の中にもう一度逃げ込んだ。
「アナタに出会う為に払わなくちゃならない代償だったとしたら安いもんですよ」
冗談めかして言えばぽかりと胸を叩かれた。オレの話はこれでおしまい。
そう呟いたカカシにイルカはしがみつく。
「帰って、きてくださいね」
そうして小さく囁かれた言葉。
「全てを終わらせて、必ず帰ってきてください」
そうして幸せになりましょう。泣きそうな声で、イルカが落とした小さな呟き。じんわりと胸に広がったその温もりはいつまでもカカシをこの世界につなぎ止めるだろう、と思った。
カカシはイルカの温かな身体をゆっくりと胸に抱き込んで、そうして二人はその日随分と遅くまで密やかに秘密を打ち明けあったのだった。
←back | next→