「まずは、イルカさんのことからお話ししましょう。あなたがひょっとしたら奇蹟の民じゃないかとオレが初めて思ったのは、その腕輪の音を聞いているときでした」
そう言いながらカカシはイルカの腕輪のはまった細い腕をそっと持ち上げる。導かれるままに持ち上げられた腕を腕輪が滑った。そうして、しゃらりと軽やかな音。
「いつだったかな。目覚めてから何日か経ったあとだったと思いますけど、この音を聞いたとき不意に何かが記憶を掠めていったんです。懐かしい、と思いました」
言いながらカカシはイルカの手を軽く揺する。しゃらしゃらと軽い乾いた砂漠を渡る西風のような、その音。涼やかで優しいオアシスのような音。その音に聞き惚れるようにカカシは一度うっとりと目を閉じ、そうしてまた言葉を紡ぐ。
「懐かしいと思ったけれど、最初はどうして懐かしいと思うのか全然分からなかったんです。ただ、漠然と懐かしいと思うだけで。けれどある日唐突に、ずっと忘れていたことを思い出したんです」
「忘れていたこと?」
カカシは話ながら相変わらずしゃらしゃらと腕輪を鳴らし続けている。思えば意識がまだ朦朧としている頃から、カカシはこうやって暇さえあればイルカの腕輪を鳴らしていた。懐かしい、というその音を聞く為に。
「そう、忘れていたんです、オレは。ずっと長い間。その音のことを」
しゃらん、と鳴る優しい音。この音に、二度も助けられたのに。
「オレはね、昔、まだほんの子供だった頃、奇蹟の民に命を救われているんです」
イルカの腕輪を鳴らしながらカカシはわずかに視線を落としたまま、そう言った。
その言葉にイルカは驚きを隠せない。奇蹟の民に、命を救われた。カカシが、奇蹟の民に。
「この目…」
呆然としたようなイルカに構わずカカシは話を続ける。イルカの手を掴んでいない方の手でカカシは自分の左目を指さした。きつく呪が施された布の上を。
「この、呪いを受けた目を治療してくれたのが奇蹟の民だったんです」
ぽつぽつとどこか言葉を探すように、そうしてゆっくりとカカシは自らの過去を話し始めた。
「オレがまだ幼い頃にね、オレは魔神から呪いを受けたんです。両親も部族の人間も、誰一人としてオレを助けることが出来るものはいませんでした」
視線をイルカの手首に落としたまま、カカシはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「けれどね、オレを襲った魔神を退けた魔人狩りの人が奇蹟の民のことを教えてくれたんです。両親はその人と一緒に急いで奇蹟の民の元へ赴いたのだそうですよ」
まるで他人のことを話すみたいにカカシは特に深い感慨もなく言葉を紡いでいるように見えた。イルカにはそれが少し、悲しく思える。暴かれていくカカシの過去。悲しい想い出達。
「その頃のことはよく覚えてはいません。ただ、焼けるように左目が痛かったことだけしか。朦朧とする意識の中で聞こえた音がこの音だった」
そう言ってカカシはまたイルカの手首をゆるりと動かした。しゃらんと音を立てる腕輪を柔らかく見つめる。
「最初は小さな音でしかなかった。でもね、どんどんこの音が大きくなって、それで歌声が聴こえ始めたんです。綺麗な声が沢山」
柔らかく笑みさえ浮かべたカカシが可哀想でイルカは握られていない方の手でその首を引き寄せた。抱き込むように背中に手を回し、そうしてその髪を撫でる。
幼い身に受けた呪いの大きさはどれほどだっただろうか。通常、解呪の儀式は一人で行うもの。それが手に負えない場合は二人。それ以上の人数で行う解呪などほとんどないに等しい。
カカシが聴いた沢山の歌声。どれほどの人数でカカシの解呪にあたったのかイルカには想像もつかないけれど、涙がこぼれそうだった。そんなにも重く苦しい呪いに苛まれているカカシ。ほんの小さな子供の頃からそんな風に辛い思いをしているだなんて。
そうしてそれほど多くの同胞が手当てを施したにも関わらずカカシの呪いは封印されるだけに留まっている。髪を梳く手の平をそのままにカカシは言葉を続けた。
「まだベッドから起きあがれなかった時にね、不意に思い出したんです。あなたの腕輪の音とそのとき聞いた音がすごく似てるって事を」
イルカの肩にそっと額を寄せてカカシはうっとりと目を閉じた。イルカの手首から手を離し、そうしてしがみつくように背中に手を回す。
「でもね、まだそのときは確信はなかった。似てるな、もしかしたら、とは思ったんですけど同じような腕輪なんてどこにでもあるからね。はっきりそうだと分かったのはアナタを初めて抱いたときです」
擦り寄るカカシを抱きしめていたイルカは驚きに身体を強ばらせる。一体、なぜ?自分の部族にはそれと分かる身体的特徴などなかったと思っていたのに。
「どうして…」
呟いたイルカにカカシはそっと身を離した。
「アナタが、目を見たいと言ったから」
イルカの手を握り、そっと自らの左目の上に持っていく。
「アナタはあのとき言ったでしょう?呪われないから、と。大丈夫だから、と、そう」
確かに言った。カカシの言う通り、自分はあのとき確かな確信を持ってそう告げた。覚えている。
「奇蹟の民にはどんな呪いも通じないと聞いたことがあります。例え魔神からの呪いでも奇蹟の民を蝕むことはないと。違いますか?」
問いかけはただの確認に過ぎなかった。
「いいえ。いいえ、間違ってはいません。確かに私たちは呪いを受けない。そういう血が民の中に流れている。でも、なぜそれを?呪いを解きに来たときに聞いたのですか?」
呆然としたままイルカはカカシの左目を撫でた。指先に感じる、濃い魔力。
「違います」
イルカの指をそのままにカカシはゆっくりと瞬いた。
「オレを救ってくれた魔神を狩る人。その人が奇蹟の民でした」
カカシの命の恩人。カカシに呪いを与えた魔神を退け、そうして奇蹟の民の元に運んでくれた人。結局呪われたまま生き延びてしまったカカシを引き取り育ててくれた人。
柔らかな金の髪、晴れた空のように澄んだ青い瞳。信仰の厚い優しい人。そうして誰よりも強かった人。そう、誰よりも優しくて強かった。今はもういない人。
「オレの師匠です。師匠は奇蹟の民だったのだそうです。どういう理由かは知りませんが、奇蹟の民としての力を一切失い魔神を狩る者になった、といっていました。その人が教えてくれたことがあったんですよ」
奇蹟の民に呪いが降りかかることはない、と。そういう血を持って産まれた部族なのだと。だから、カカシの呪いの治療に関わってくれたのだと。いつだったか、そんな風に言っていた。優しい、悲しい瞳をして。
「アナタが奇蹟の民ならば、オレはアナタに伝えなくちゃならないことがある」
古い過去を見つめるカカシはひどく穏やかな顔をしていた。
「伝えなくちゃ、ならないこと?」
左目に置いた自らの手を外しそっとカカシの髪に絡ませてイルカは小さく問い返す。イルカの問いに頷いてカカシは密やかに言葉を紡いだ。
「恐怖は去りました。辺境へお帰りなさい」
「え?」
カカシの言葉の意味が上手く理解できなくてイルカは首を傾げた。
辺境へ、帰る?赤く染まった、あの砂漠へ?無意識にぶるりと身を震わせたイルカをカカシはゆっくりと抱きしめた。
「辺境を蹂躙した皇帝は死にました。もう、随分と前に取り除かれたんです。今は誰も辺境を脅かしたりはしません。少しずつですが辺境にも生き残った人が戻り始めています」
だから。こんな息苦しいところにいつまでもいないで。震える背中を撫でながらカカシは柔らかく言葉を紡ぐ。
「もう素性を隠すことも名を隠すこともしなくたっていいんです。もう誰も、アナタを捕らえたり殺したりはしませんから」
恐怖は過去になったんです。穏やかなカカシの言葉。にわかには信じがたい話だった。恐怖は重く深くイルカの心に影を落としている。あの日最後に聞いた母の言葉。
『逃げて、生き延びて。けして素性を悟られないように』
逃げまどう人々。渦巻く混乱と恐怖の中、母が告げたこと。帝国に捕まらないように。背中を押されて、そうして振り返るまもなくイルカは走り出した。あの、幼かった日。
彼らは辺境の民を一人残らず殺すつもりだということ。地の果てまでも追いかけて、大地を赤く染めるだろうということ。それを、イルカ自身も本能で悟っていた。狂ったようになんの罪もない赤子を、子供を、女を、男を殺す帝国軍を目の当たりにしたから。おぞましい人間達を。引き倒され犯され殺されていく人たちを目の当たりにしたから。
逃げるだけで精一杯だった。逃げろと言った母にただ従って。生きて逃げ延びろと。ただそれだけを願われたから。逃げて逃げて、何もかもから逃げて。身を隠し、名を捨てようやく平穏といえる日々を手に入れた。
サンカイハはドラン帝国と国境を接する国だったけれど、イルカにはこれ以上逃げることが出来なかった。これ以上遠くへ行くにはなにもかもに疲れすぎていた。もう歩けないと、もう立ち上がることさえ出来ないと思ったとき偶然紅に拾われたのだ。
もう帰れないと思っていた故郷。ここは砂漠ではなくて、むせかえる潮の香りに時々息が詰まりそうになるけれど、それもようやく慣れてきた。慣れなくてはならなかった。もう砂漠へは帰れないのだから。もう、二度と。それなのに、なぜ今頃になって。
帰れるというのか。あの、場所へ。あの懐かしい大地へ、還れるというのか。
「本当に?」
声は、無様に震えていた。みっともないくらい身体も震えていた。抱き留める腕は暖かく、そうして揺るがない。
「本当に。もう、大丈夫だから」
イルカをそっと抱き込んで、カカシは優しく頭を撫でてくれた。大丈夫、大丈夫といいながら。
「ごめんね、本当はもっと早くに伝えるべきだったのに。こういう大事なことを話してしまうとアナタとの幸せな時間が壊れてしまうような気がして」
言えなかった。そう、小さくカカシは呟く。分かる気がした。
カカシとの恋人ごっこの時間は本当に満ち足りて幸せで、けれど恐ろしく脆いものだったから。ほんの僅かな言葉でも崩壊しかねない危ういものだったから。イルカはカカシの腕の中でゆるゆると首を振った。きっと自分でも、言えなかったと思うから。
「ありがとう、教えてくれて」
涙は出なかったけれど、イルカはカカシの広い胸に顔を埋めた。
「カカシさん、あなたのことを教えてください。まだ、時間が許されるなら」
温かなカカシの腕に包まれて、イルカはうっとりと目を閉じる。嬉しいのだろうか。嬉しいと、思っているのだろうか。あの場所へ帰れることを、自分は。色んな感情が入り乱れてイルカの中の真実を覆い隠している。ただこの腕の温かさだけがイルカの心に沁みた。
「時間は、まだ大丈夫。主治医が退院許可を出すまではここにいますよ」
優しく、柔らかなカカシの声。くすりと笑いが耳を擽ってイルカも小さく笑った。あとどのくらい、この穏やかな時間が続くのだろうか。
あと、どのくらい。
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