遠い遠い物語
遠い昔の遠い国
さらさらとさらさらと
砂漠を渡る西風が
小さな音を聞いたという
それは静かなオアシスの
木陰に座っているような
そんな涼しい音だった
乾いた砂漠にあってなお
涼しく響くその音は
一人の男の手首から
しゃらしゃらと鳴るその音は
無骨な剣士の腕にある
銀の腕輪の音だった
誰にも恋をしなかった
黒い瞳の歌姫が
その生涯で一度だけ
たった一人に恋をした
恋した男の手の中で
踊るように鳴る腕輪
誰にも恋をしなかった
皆が彼女に恋をした
そんな歌姫の物語
恋姫
痛みさえ伴うほどの、目も眩むような幸福の日々。そんなものが長く続くなんて思ってなんていなかったけれど。
初めから、期限の決められた恋ではあったけれど。
けれど。
机の上に置かれたわずかな荷物を眺めながらイルカは両手で抱えた膝の上に顎を乗せた。カカシの荷物。旅慣れた、その荷物たち。わずかな着替え、日持ちする食料、驚くほど沢山の薬草や傷薬、医療用具。荷物の中で一番かさばっているのが薬草類じゃないだろうかとイルカは思った。そうしてそれが多いということは、カカシにそれだけ怪我が多いということに他ならない、と。
事実カカシの身体は傷だらけだった。左腕に一際大きな傷跡がある。右腕にも、両足にも肩にも体中のあちこちに。脇腹の傷跡はまだ生々しく、そうしてここから旅立てばまたカカシは新たな傷を負うのだ。
イルカの知らないところで、それが命を落とす一撃になるかもしれない傷を。風呂上がり、いい加減に拭いただけの髪の毛からぽたりと一滴水が垂れた。
傷を負うかもしれない。負わないかもしれない。その傷のせいでカカシは二度と戻らないかもしれない。例え生き延びたとしても、新たな痛みの道を進まなくてはならないかもしれない。終わりの見えない、長い長い旅路。先が長ければ長いほど、カカシの命の危険は増すのに。あの人に、傷が増えていくのに。
膝に顔を埋めてイルカは荷物から目を逸らした。カカシがいなくなってしまう。ここから。この、腕の中から。その事実を受け止めきれなくて、けれど視界に映り込む荷物が逃げ出せない現実を突きつけて泣いてしまいそうだと思った。
好きだと告げることも出来ず、好きだと囁かれることもない。どこまででも「ごっこ」のままの二人。カカシがけして想いを告げないから、イルカも好きと言うことさえ出来ないでいる。
こんなにも近くにいるのに、どうしてあんなにも遠いのだろう。大事だと言われた。離れていたくないとも。あなたがいないと寂しいとか、一緒にいると幸せだとか、沢山の、本当に沢山の言葉をもらったけれどただの一度だって告白はなされないまま。
恋人のふりをしてくれと頼まれた通りに、ごっこ遊びを続けている。痛くて苦しくて悲しくて、けれどこれ以外の道を自分たちが選べなかったことさえ分かっていた。人と深く関わることの出来ないカカシ。人と深く関わらない自分。乱暴な運命に翻弄されるように、こんな遠い異国の地で出会ってしまった自分たち。
もっと昔ならば。まだ、自分が砂漠にいた頃ならば。彼が呪いを受けるずっと以前ならば、二人は幸せに暮らしていたかもしれないのに。
なぜ出会ったのだろう。こんなにも苦しいのに。なぜ。
あぁ、でも、けれど。それでも幸福だった。目が眩むほどに。幸せで幸せで、息が止まりそうなほどに。今、この一瞬でさえも。この身体の、この心の何一つとしてカカシのものでないものはないのに。
それを置き去りにして、カカシは行ってしまうのだ。そうして、戻ってくるかさえも、分からない。自然と震える身体をきつく抱きしめてゆったりとイルカが息を吐き出したとき、部屋の扉がかちりと音を立てた。
「泣いて、いるんですか?」
扉を開き部屋の中に入ってきた思い人は、膝に顔を埋めているイルカにどこか痛みを堪えるようにそう問うた。
「泣いてなんか、いませんよ」
顔を上げ無理に微笑めばカカシもぎこちなく笑みを返す。そうして黙ったまま、カカシはイルカの隣に腰を下ろした。風呂上がりの温かいカカシの身体がイルカに触れる。
やんわりと肩を抱き寄せられて、そうしてカカシは小さな声でそうっとイルカに呟きを落とした。
「ここを発つ前にアナタに教えておかなくてはならないことがあるんです」
カカシは相変わらず困ったような笑顔のままゆったりとイルカの顔を覗き込んだ。
「なん、でしょう?」
教えなくてはならないこと、とカカシは言った。見当すらつかなくてイルカは困惑を隠さないままそう返す。
「あなたの、故郷にまつわることです」
イルカの視線から不意に目を逸らしてカカシは唐突にそんなことを言った。故郷。カカシは故郷といったのだろうか。イルカが口に出したことすらない故郷のことを、どうしてカカシが知り得るのだろうか。
なぜ。
カカシはおろか、紅にもアスマにも誰にも、この街に逃げ延びてからは自分の過去についてなど一切口には出さなかったというのに。
驚いた顔のままカカシを見つめるイルカをいっそう強い力で抱き寄せる温かい腕。そうしてカカシはぽつりと言葉を落とした。
「イルカさん、あなたは奇蹟の民でしょう。辺境に住まう癒しの一族。違いますか?」
囁かれた言葉に思わず咄嗟に身体がカカシから逃げようとした。けれど揺らいだ身体は肩に回されたカカシの腕によってどこへ行くことも阻まれてしまう。
困惑というよりも、恐怖にも似た感情がイルカの中に渦巻いていた。
隠していた過去。それは自分の身を守る為に。損なわれた同胞達、損なわれた故郷。永遠に帰ることの叶わない場所。
執拗に追いかけてくる帝国軍をようやく振り切ってそうして。名を捨て、過去を捨て、ようやくここに辿り着いたのに。なぜ、どうして。
「怖がらないで。オレはあなたを害する者じゃない。分かっているでしょう?」
抱かれた肩を引き寄せられ、胸の中に抱き込まれる。不意に蘇ってきたきたあの時の恐怖を持てあましたまま、イルカはカカシにしがみついた。身体の震えが、止まらなかった。
「ごめん、ごめんね、思い出させてしまって。大丈夫だから。オレは敵じゃない。帝国の人間でもないから。オレの故郷も辺境にあるんです。だから怖がらないで」
宥めるようにイルカの肩を優しく撫でてカカシは柔らかく柔らかく言葉を紡いだ。抱き寄せられた胸の中は温かく、そうしてカカシの匂いがした。
風呂上がりの石鹸の匂いに混じるカカシの匂い。肩を、背中をさする手の平の感触。ここにいるのはカカシ。同胞を砂の中に屠ったものでもなく、そうして自分を捕らえるものでもない。銀の髪の乾いた風を纏った砂漠の人。同じ辺境の人。
全身を覆っていた震えが徐々に治まり、イルカは深呼吸を数度繰り返す。
「……ごめんなさい、もう大丈夫。でもどうして私が奇蹟の民だと知っているのですか?それにあなたが辺境の人って、それは本当なんですか?」
改めて身を起こしてカカシに問えば、抱きしめる腕の力がほんの少し弱まった。そうしてカカシは小さくこくりと頷きを返す。
「オレが辺境出身だというのは本当のことです。随分と前に放逐されてはいますけれど、オレの故郷と呼べる場所は辺境にしかない。あなたが奇蹟の民だというのは元々知っていた訳じゃなくて一緒に過ごしてるうちに気が付いたんですよ」
緩やかに笑みを浮かべたまま事も無げに言ったカカシの服を、思わずイルカはきつく掴んだ。
「放逐された?一体なぜ?それにどうして奇蹟の民だと気が付いたんですか?私の言動はそれと分かるほどに何か不自然な点でもあったんですか?」
矢継ぎ早に繰り出されるイルカの質問にカカシは落ち着いて、と言った。
「一つずつ、ちゃんと話しますから。あなたには知っていてもらいたいから。オレのことも、あなたの故郷にまつわることも…」
これが、最後になるかも知れないから。カカシはそうは言わなかったけれど、途切れた言葉の先はそんな風な台詞なんじゃないだろうかとイルカはふと思った。
青を溶かし込んだ灰色の瞳が深い悲しみに、痛みに、堪えているように見えたから。カカシの服を握りしめていた手の力をゆっくりと抜いてイルカは小さく息を吐いた。そうして、カカシを見る。優しい灰色の瞳が猫のように細められ、そうしてカカシはひっそりと話を始めた。
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