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 翌日の昼下がり、不意にイルカはカカシに抱き留められた。
「っと、どうしたんですか?」
 触れあった所から染みる体温、昨日嫌というほど知らされたカカシの匂い。そうしてそれに混ざる清潔な日向の匂い。
 跳ね上がる心音は体に回された腕からきっと伝わっている。まだ馴染みきれない他人の温度にイルカは顔を火照らせた。
「ねぇ、イルカさん。仕事の送り迎えとかしちゃ駄目?」
 そうしてカカシが控えめにイルカに囁いた言葉はとても意外な申し出だった。
「え?」
 後ろからふんわりと抱きしめられたままイルカはカカシの腕のなかで身を捩った。
「どうしたんですか?いきなり」
 さほど力の入れられていない腕のなかでくるりと体の向きを変え、カカシの顔を正面から覗き込む。青の溶け込んだ灰色の瞳がゆるりと細められ、そうしてカカシはまたひそりとイルカに囁いた。
「だってね、アナタがいない間すごく寂しいんです。目立つようなこととか絶対しないからついて行っちゃ駄目?」
 やんわりと笑うその顔はイルカがその申し出を断るなんて思いもしていない顔だ、と思った。確信犯的な笑顔。別に困ることがある訳じゃないし、構わないのだけれど。
「別に構いませんけど…」
 緩く抱き込まれた腕のなか、イルカは幾分か背の高いカカシを見上げてそう答えた。確かに自分だってカカシと片時だって離れていたくはない。彼と一緒にいられる時間はあと幾ばくも残されてはいないのだから。
 けれど、なんとなく気恥ずかしいのも確かで。見上げるイルカの額に小さなキスを落としてカカシはやんわりと笑った。
「ありがとう、イルカさん」
 午後の陽気は温かく二人を包んでいる。吹く風は優しく、けれどだからこそ、イルカは幸せに浸りきることが出来ない。
 彼はいなくなる。それもとても近いうちに。そうして二度と帰ってくるかどうかも分からない。このときが幸せであればあるほどイルカの痛みは増すだろう。カカシの、痛みも。
 けれどカカシとこうして過ごす時間を今更投げ出すことも出来ず、イルカは暖かな腕のなかでそっと目を閉じたのだった。



 手をつないで歩く。傾き始めた太陽が照らす夕暮れのなか。混み合う人々を避けながらそっと手をつないで、歩く。
 胸に満ちる感情をカカシは持てあましていた。永遠にこのときが続けばいいのに。イルカとの、このバカバカしいくらいにささやかで幸福な日常が、いつまでも続けばいいのに。
 痛む左目が戒めのようにカカシを責め立てているけれど。忘れるな、と。自らの運命に課せられた重みをけして忘れるなと。復讐を遂げよと左目が言う。
 つないだ手はこんなにも温かいのに。
 買い物客で賑わう市を抜け、他愛もない話をしながら歩く。夕暮れの匂い。家路を急ぐ人々。母の手を引く子供達。優しい、どこにでもある日常。
 寄り添って歩けばこのままこの風景にとけ込めるような気さえするのに。つないだ手を少しだけ強く握れば、同じだけ握りかえされる。背の低いイルカが覗き込むようにカカシを見て、笑う。
 オレンジ色に世界は染まっていて、そうして暖かな幸福に満たされているというのに。
 悲しい。この左目が、この禍々しい左目が憎くて悲しかった。
 路地を曲がり、薄暗い道を港の方へ歩く。細い路地からは夕焼けに染まる海が見えた。世界はこんなにも優しいのに。吹き抜ける風は潮の匂いがして、その息苦しさにカカシはそっと目を閉じた。
 幸福に満ちた優しい世界は、けれどカカシにはとても生き難い世界で。つないだ手をイルカが引いて、小さな店の勝手口を潜る。ぴたりと扉が閉められて、潮の匂いがとぎれた。ようやく息を吐き出したカカシにイルカは小さな笑みを浮かべていた。
「潮の匂いがきついでしょう?」
 私も最初は苦手だったんですよ。潮風に乱れたカカシの髪をそっと梳いてイルカは密やかに笑う。つないだ手が離せない。カカシもほんの少しだけ笑い返してイルカの髪をなでた。
 あと何日、こうしていられるだろうか。
「お二人さん、いつまでそうしてんだ?そろそろ客が来始めるぞ」
 ひょいと顔を覗かせたアスマに急かされて、イルカは慌ててカカシから離れようとする。
「すみません、今支度しますから」
 振り解かれようとする手の平。離れがたくてきつく握ればイルカがカカシを見上げた。
「カカシさん?」
「ごめんなさい、ちょっとだけ抱きしめてもいいですか?」
 許可を求めたのはイルカにではなくアスマ。アスマは呆れたような顔をしたが、肩をすくめて奥にすぐ引っ込んでいった。
「ちょっ…」
 イルカの意志などお構いなしに、そうしてカカシはその体を抱き寄せた。縋るみたいに。無言で抱きしめるカカシにイルカは仕方ないという風に体の力を抜いた。
「どうしたんですか?」
 やんわりと背中を撫でる手の平。一体あと何日、この人はオレのものなのだろうか。どうして我慢出来なかったのだろう。恋人でもなんでもないような振りをどうして続けなかったのだろう。
 一度手に入れてしまえば、この痛みをどうやって耐えたらいいのか分からなくなるなんて分かり切っていたのに。
 どうして両想いになんてなってしまったのだろう。抱き寄せた体は温かくて、幸福で悲しい。けれどこの人に何も告げないまま別れたらきっともっと後悔することくらい分かっていたから。恋人ごっこなんて馬鹿げている。自分にもイルカにも痛みしか与えない行為。安っぽい偽物の行為。
 けれど、だからこそ。目眩を覚えるくらいの幸福と痛みのなかでカカシはもう少しだけ腕の力を強くした。



 抱きしめられた腕の温もりを忘れない。カカシの匂いも、声も何もかも、全て忘れない。カカシと過ごす日々がどんなに短いものであっても、自分がこの先これ以上人を好きになることはないだろう。
 閉じこめられた腕のなか、イルカは思う。胸に満ちるこの想いを、生涯持ち続けるだろうと。
 誰にも交わらず生きていくはずだったのに。もう二度と、誰かと魂が触れあうような生活は送れないと思っていたのに。送らないと、誓っていたのに。
 己が追われる身だということを忘れたことはないけれど。ここでカカシを待ち続けることが出来るかどうかなんて分からないけれど。
「もうそろそろ店に出ないと」
 名残惜しくて背中に回した手を外せないまま、イルカはそっと呟いた。
 あぁ、と耳元でカカシの声がする。そろりと離れる体。
「ごめんなさい、邪魔しないって言ったのに」
 弛められていく腕。屈み込んで小さなキスを落とされた。笑いあう、密やかな幸福の時間。
 残された日々は少なくて、だからこそ幸福の密度は上がっていくのかもしれない。





 その日、バーの片隅に見慣れぬ男が現れた。一番端の薄暗い席に、背の高い痩せた銀の髪の、男が一人。怪我をしているのか左目は包帯で覆われていたが、覗いた右目は優しげに細められていた。
 男が現れてから、恋姫はますます綺麗になった。恋をしない恋姫が、恋をしたのだと誰もが分かるくらいには。けれど誰も何も言わなかった。愛しい恋姫が幸せになるならば、それでもいいと思っていたから。ますます綺麗になった恋姫が幸せそうに笑うならば、それでもいいと思っていたから。
 男が不意に姿を消す日まで、そう多くの日が残っているわけではなかったけれど、誰もそんなことを知らない。恋姫と、男以外は。幸せに微笑む恋姫の瞳がほんのわずか、悲しみに彩られているのを一体どれほどの男達が気が付いただろうか。
 残されたわずかな日々のなか、恋姫が必死に別れの日を思わないようにしていることに、銀の髪の男以外、一体どのくらいの人が、それに気が付いただろうか。





 そうして、一月が経ち。港に一隻の船が帰港する。
 王国海軍第4艦隊所属巡視艦セント・リアナ号。
 賑わう港に紅を迎えに来た二人はついに約束の日が来たことを知る。カカシの体はもうすでに完全に回復していた。もう明日にでも旅立てるほどに。そう、夢のような幸福な日々は、こうして呆気なく終わりを告げたのだった。



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