****
その夜。随分と遅くなってから王宮から帰宅した紅は、開口一番イルカに告げた。
「次の航海が決まったわ」
「いつです?」
紅を家の中に招き入れながらイルカは問うた。
「三日後よ。支度を頼むわね」
どことなく疲れたような顔をして、紅は羽織っていたマントをイルカに放る。
「分かりました。何か食べますか?」
夜のせいばかりではないだろう。顔色があまり良くなかった。渡されたマントをきちんと畳みながらイルカは紅の顔を覗き込んだ。
「そうね、何か貰おうかしら」
身に纏った緊張を解いて紅は笑った。
「慌ただしくなりますね」
台所に向かいながらそういったイルカに紅は頷く。
よりによってこの時期に。仕方のないこととは分かっていても、紅はそう思わずにはいられなかった。よりによって、この時期に航海に出なくてならないとは。二人をこの家に置いて。
考えても仕方のないことだとは分かっている。惹かれあう二人を自分が止めることは出来ないことも、分かっている。
けれど。マントを抱えて先を歩く真っ直ぐな背中を、紅はただじっと見つめることしか出来ずにいた。
慌ただしく日々は過ぎ、三日後紅は夜の明けきる前に大海へと旅立って行った。
航海の予定は一月。カカシの退院は彼女の帰りを待ってから、ということになった。その事に、どこかほっとしている自分がいることにイルカは気が付いていた。
そう、あと一月はカカシがここにいるというその事実を、心のどこかでとても喜んでいる自分。
恋をしている、と、思った。
ぼんやりと光を増していく世界のなかで初めに感じたよりももっと鮮烈に。恋をするかもしれないと、恋をしているのかもしれないと思ったとき以上にひどく不意に。
心にほっこりと柔らかい灯が点るように、唐突に、思った。そうしてイルカはふと気付く。自分がカカシを好きなように、彼もまた自分を好きだということに。そうして彼が何も告げず行ってしまうであろうことに。
呪いをその身に宿したカカシは、イルカを長く側に置くことを是とはしないだろう。そう、彼と自分が結ばれることは、ない。
不思議と悲しくはなかった。自分が幸せにはなれないことなど、とうの昔に分かっている。故郷を追われ、名を隠したあの時から分かっていた。きっと恋も出来ないだろうと。そう、思っていた。
彼に出会えたことだけで、幸せなのだ、多分。恋しいと、愛しいと思える人に出会えただけ。
空にはぽっきりと半分に割れた月が、明け始めた世界にしがみついていた。
****
カカシの回復は思った以上に早く、紅が旅立ってから幾らもしない内に寝床に張り付くことをやめた。外出厳禁と言い渡されているために、外を出歩くことはなかったけれど、暇を持て余してなにかにつけイルカの後をついて回っていた。
図体のでかいのが小柄なイルカの後ろをアヒルの雛よろしくついて回る光景を、様子を見に来たアスマに何度となくからかわれても、カカシは一向に気にしていないようだった。
緩やかに日々が流れていた。緩やかに穏やかにそうして。
「何か手伝いましょうか?」
後ろから不意打ちのように声がして、洗濯かごを抱えたイルカは持っていたそれを思わず落としてしまった。
「っ!」
怒りを顕わにして振り向いたイルカはカカシを見上げた。
「カカシさん!急に声をかけないで下さいと毎日言ってるでしょう!」
「ゴメンナサイ」
悪びれた様子などどこにもないまま、カカシは屈み込んで落ちた洗濯物を拾う。拾い集めた洗濯物を今度はカカシが抱えてイルカに笑いかけた。
「お詫びにこれ持ちますね」
にこりと笑われてイルカはもう何も言えなくなってしまう。些細なやり取り。日常に埋もれてしまう、細やかで幸せなやり取り。
心を隠した、自分とカカシ。廊下を二人で歩きながら、イルカは小さく俯いた。幸福で悲しい自分たち。
外に続く勝手口まで来たときカカシはふいに立ち止まった。そうして扉に寄りかかってイルカを見下ろす。
「カカシさん?」
見下ろす彼の瞳には形容しがたい色が浮かんでいる。
「カカシ、さん?」
もう一度問いかけたイルカにカカシは少し困ったように笑った。持っていた洗濯かごを脇に置くと、カカシはポケットに手を突っ込んでゆったりと息を吐き出した。
「イルカさん」
名を、呼ばれた。
「はい?」
「イルカ」
そうしてもう一度、名を。今やもう、自分さえも使うことのない名を、カカシに呼ばれる。たったそれだけのことに早くなる鼓動をイルカは持て余してわずかに顔を赤らめた。名を呼んだきり俯いてしまったカカシは、唐突に身をかがめてイルカの肩に額を乗せた。
肩に触れるカカシの体温。頬に触れる柔らかな髪の感触。
ポケットから手を取り出しもしないで、カカシはイルカの肩にただ額を擦りつけた。そうしてカカシはその体勢のまま、イルカの耳元で息を吐き出すように言った。
「残酷なお願いをしてイイでしょうか?」
低く乾いたカカシの声がイルカの鼓膜をくすぐる。ポケットに入れた手を出さないのは、きっと多分。自分を抱きしめてしまわないため。
「とても、残酷で身勝手な」
肩に額をつけるだけの姿勢。抱きしめることも叶わない、自分とカカシの距離。カカシの懇願がどんなものでも自分はきっと受け入れてしまうだろう、とイルカは思った。
「どうぞ」
イルカもまた自分の胸の前で手を堅く握り合わせていた。力を緩めればきっとこの人を抱き寄せてしまう。
「オレと、恋人ごっこをしてくれませんか?」
表情を見られないように額を肩に押し当てたままカカシはそう言った。言葉の意味を取り損ねてイルカは思わず問い返す。
「え?」
頬に当たるカカシの髪がくすぐったいと思った。イルカの困惑に気が付いているのかカカシはもう一度懇願を口にする。
「紅さんが帰るまでの間でいいんです。その間だけ、オレと恋人同士になったふりをしてもらえませんか?」
なぜ、と思う。震える指先を握り締めて、イルカは小さく息を吐き出した。
大声で泣いてしまいたいたかった。イヤだ、と駄々をこねて大声で泣いてしまいたかった。ごっこだなんて。恋人ごっこだなんてイヤだと、泣いてしまいたかった。そんなことをするくらいなら本当の恋人にしてくれと、泣いて縋ってしまいたかった。
けれど、ふいに顔を上げたカカシの瞳に耐え難い悲痛な色を見いだして、イルカはあぁ、と溜息を漏らす。あぁ、分かってしまった。彼もまた選びきれなかったのだと。諦めきれなかったのだ、と。
彼はこのまま何もなかったようにここを出て行くはずだったのに。イルカとはただの友達のような顔をして。けれど。彼にはそれが堪えられなかった。ごっこでもイイから。ふりだけでイイから。そうまでして求められている自分。
不意に襲った幸福感に眩暈がしそうだった。
「…良い、ですよ」
別れがすぐそこに用意されていたとしても。けして本当に彼と結ばれることがないとしても。たった一月の間だけの、恋人だとしても。彼が選んでくれたのならもうそれで十分だと思った。
「ゴメンね、イルカさん」
カカシは泣くのを堪えているような顔で笑った。そうしてようやくポケットから手を引き抜くと、ゆったりとイルカを抱き寄せた。暖かいカカシの腕の中、イルカは果てしない幸福感と耐え難い悲しみに押しつぶされそうになっていた。
謝らないで。謝ったりしないで、と思う。カカシの謝罪に小さく首を振って、イルカはその広い背中に震える指先でしがみついた。
「ありがとう」
イルカの否定にカカシは薄い笑みを浮かべてそうして耳元で囁く。
「キスしても、イイですか?」
震えたままこくりと頷く。抱きしめられた体が熱くて眩暈がしそうだった。
カカシはいったん身を離すとイルカに顔を近づける。近くに、こんなにも近くにカカシの顔があることが恥ずかしくてイルカは目を閉じた。唇に乾いた感触がして、キスされているのだと分かった。押し当てられた柔らかな感触。触れるだけのキスは、けれど一生忘れないだろうとイルカはカカシの背にしがみつきながら思った。
押し当てられた唇が離れ、そうしてまた吸い付く。繰り返し繰り返し角度を変えてカカシはイルカの唇を吸う。触れているだけだったけれど、カカシの唇はなかなか離れていこうとはしなかった。角度を変えて何度も押し当てられる唇。執拗に口付けを施すカカシにイルカは戦慄いた。
一体どのくらいそうして唇を合わせていたのだろう。息が苦しくてイルカはふと固く閉じていた唇をほんの少し開いた。その隙をついて性急に進入して来たのはカカシの舌だった。ぬるりとしたカカシの舌がイルカの咥内を蹂躙していく。口蓋をなぞり歯列を辿るカカシの舌。引っ込めたままだった舌も絡め取られ、息苦しさにイルカは小さく鼻を鳴らす。
頭がぼんやりとしていた。飲み込みきれなかった唾液が頤を伝っていく感触にイルカはふるりと背筋を震わせる。深くなっていく口付けにイルカは体の力が抜けていくのを感じた。
そう、気持ちがいい。震える指先で必至にカカシに縋り付きながら、イルカは甘えたような吐息を漏らしている。とろとろと力を失う体。混ざり合った唾液が頤から首筋へと流れ落ちていく感触。その感触にぞくぞくと背筋が粟立った。
気持ちがいいのか、気持ちが悪いのか、それすらも判断が付きかねる。そうしてどのくらい口付け合っていたのか。ようやく唇を離したカカシを、イルカはぼんやりと見つめる。口の中に溜まったカカシのものとも自分のものとも判断の付かない唾液をこくりと嚥下したのを凝視されて、イルカはバツの悪い思いで俯いた。
こんなキスを想像していた訳じゃなかったから。そう、こんな何もかもを喰らい尽くすような激しいキスなんて想像もしていなかったから、イルカはカカシをどんな風に見たらいいのか分からない。すっかり力の抜けてしまった体はカカシに抱きしめられていなければ立っていることさえままならないのに、それでも恥ずかしくてイルカは俯いたままだった。
「イルカさん」
耳元でカカシの掠れた声が聞こえた。情欲に濡れたような、掠れた少し上擦った声。イルカはその声に小さく身を震わせる。
「ねぇイルカさん。このまましてもイイ?」
はっきりと欲を滲ませたカカシの声。何を、とは聞かなかった。幾ら鈍いイルカとはいえそのくらいのことは分かる。分かるし、何を、だなんて今更聞けなかった。
欲情しているのはカカシだけじゃない。そう、たかがキスだけでこんなにも高ぶっているのはカカシだけじゃないから。しがみつく指の力をほんの少し強くして、イルカはこくりと頷く。手を引かれて二階に上がりベッドに横たえられても、イルカは何も言葉を発することが出来なかった。
恋をするのも、恋する相手とこういう関係になるのもイルカにとっては初めてで。何もかもが想像の域を出ることはなく、初めてのことに対する恐怖がじわじわと体を浸食し始める。急に身を強張らせたイルカを労るようにカカシはその額に口付けを落とす。
「初めてなの?」
カカシの台詞にイルカは羞恥で身を紅く染めた。経験がないことが急に恥ずかしいことのように思えてイルカはふいと顔を背ける。
「あぁ、そうじゃなくて。怖くないから、大丈夫だから」
ね?優しく髪を梳くカカシの手の感触にイルカはふと息を吐き出した。背けた顔を戻すとゆっくりと重ねられる唇。唇を合わせながらカカシは徐々にイルカの衣服をはだけていった。
←back | next→