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翌朝。
窓から差し込む光の眩しさに、カカシは毛布を顔の上まで引き上げた。
「カカシさん、おはようございます。朝ですよ」
引き上げられた毛布を引き剥がして、イルカはカカシの額に手を当てる。
「熱はもう、そんなに高くないですね」
安心したように笑ったイルカの手を逃れ、カカシはもう一度毛布を引き上げた。
「……」
眠い。元々カカシは恐ろしく寝汚い。
砂漠や荒野を流離っているときならいざ知らず、安心できる暖かい寝床にあってなぜ起きなくてはならないのか。むいむいと意味不明の呟きを漏らしてカカシは寝床に潜り込んだ。
「カカシさん、起きて下さい。もうそろそろちゃんとした食事もしてもらわなくちゃならないし、シーツだって変えたいんです」
起きて下さい、とカカシを揺する優しい手の感触。カカシはしゃらしゃらと鳴る腕輪の音にうっとりと目を閉じた。
「カカシさん、カカシさん!」
うとうとと意識を手放しかけた時、イルカはカカシの布団も毛布も思い切り引っぺがした。朝の有り難くもないむやみやたらに爽やかな風がカカシの頬をくすぐっている。
「カカシさん、ほら起きて下さい。シーツを代えて食事をしたらまた寝てもいいですから」
イルカの言葉にカカシは渋々と身を起こす。暖かく快適な寝床から追い出され、カカシは枕元に座り込んだ。起きあがった瞬間、非道い眩暈がしてカカシは自らの額に手を当てて深い溜め息を吐く。
思った以上に消耗が激しい。体力が落ちると、それに比例して左目の封印が甘くなる。イルカの言う通りそろそろ何か口にして体力の回復を図らないと、致命的な事態になるかも知れない。
意識を半分夢の中においたまま、カカシがうつらうつらとしている間にイルカは手早くシーツを取り替える。汗を吸った毛布も上掛けも新しく持ってきた物に代えて清潔で寝心地の良い寝床をあっという間に作り上げてしまった。
「どうぞ」
イルカの言葉に無言で頷いて、カカシは真新しい寝床に潜り込んだ。お日様の匂いのする寝床だ、とカカシは思う。イルカのように、暖かい匂いのする寝床だと。意識を手放しかけたカカシに、またもイルカから声がかかる。
「食事を持ってきますから、まだ眠らないで下さいね」
取り替えたシーツをくるりと器用にまとめて、毛布と上掛けを小脇に抱えてイルカは開け放たれた扉からいそいそと出て行ってしまった。
案外と力持ちかも。忙しく働き回るイルカにカカシはくすりと笑いを漏らした。好きだな、と思う。出会ってまだ何日も経ってはいないけれど。
そう、確かに自分は恋に落ちたのだ、と。命の恩人に一目惚れだなんて、安い三文小説みたいだと思うけれど仕方がない。こればかりは、仕方がないではないか。
左目が疼く。あの人に恋をしてはいけないと、左目が疼く。この左目がある限り、誰かに恋をしたりはしないと心に決めたのに。誓って、いたのに。
腹の傷を早く治してあの人から離れないと。呪いがあの人を浸食する前に、離れないと。
そう、思うのに。じくりと痛んだ心臓にカカシは苦い笑みを漏らす。こんなにも簡単に恋に落ちるなんて、どうかしている。
お日様の匂いのする枕に顔を埋めたまま、再び眠ることも出来ずにカカシはそっと目を閉じた。
程なくしてイルカが戻ってきた。湯気の立つ小鍋をトレイに乗せて、イルカは小さく、起きてますか、とカカシに聞いた。
「起きてますよ」
閉じていた目を開いてカカシはイルカに笑いかける。偽りでもいいから、イルカとこうしているときだけは呪いのことなんて忘れてしまおう、と。偽りの時間と分かっていてもいいから、少しでも長くイルカの側にいられるように。
時間がないのは、分かっているけれど。
「寝ているのかと思いましたよ」
イルカの微笑みになぜか胸が軋んだ。自分に課せられた重すぎる荷物を、今までさんざん呪ってきたけれど。呪って呪って、だが、自分は呪いを解くことを決めた。未だ叶わない願いではあるけれど。そう、いつだって強く願ってはいたけれど。これほど切実に呪いが解けることを願ったことはない、と思う。
笑うイルカはふとカカシに目をとめてほんの少し顔を曇らせた。
「まだ具合が悪いですか?」
イルカの質問にカカシはわずかに驚く。
「どうしてですか?」
聞き返したカカシの額に手を当てて、イルカはその瞳を覗き込んだ。
「なんか、ちょっと変だから。悲しそう、っていうか、辛そうな感じに見えたんです。起きあがれないほど具合悪そうに見えなかったですけど、無理させましたか?」
イルカの指先はひんやりとして気持ちが良かった。自分の熱のせいでそう感じるのか、元々イルカの体温が低いのか、それは分からなかったけれど。
「大丈夫です、自分ではもう歩けるんじゃないかと思うくらい結構元気ですよ」
カカシの言葉にイルカは、無理はしないでくださいね、とだけ言った。離れていく指先がとても悲しい。
もっと触れて、抱きしめて、側にいて。
湧き上がった思いを気取られないよう、殊更カカシは笑みを深くした。不自然な点はなかったのか、イルカは持ってきた朝食を膝に抱えて、カカシの枕元に座った。
「何ですか、それ?」
「ミルク粥ですよ。まだ固形物は体に良くないだろうって、紅さんが言ったんで」
湯気の立つ粥を小鉢に取り分けて、イルカはカカシにそれを渡そうとした。カカシに粥の入った小鉢を差し出すけれど、差し出された本人はそれを一向に取ろうとしない。取ろうとしないばかりか身を起こそうともしないカカシをイルカは不審に思う。苦手だっただろうか、と思ってそう聞いたらカカシは無言で首を振った。
では、なぜ?不思議そうに自分を見つめるイルカにカカシは笑って言った。
「食べさせてくれないんですか?」
「は?」
間の抜けた返事を返すイルカにカカシはもう一度言う。
「食べさせて下さい」
にんまりと笑って。
「な、何甘えてるんですか!自分で食べて下さい!」
カカシの要求をようやく理解したイルカは顔を真っ赤に染めて怒ったようにそう言った。駄目かな、と思ったけれど。もう一押ししてみようか。カカシは出来るだけ具合の悪そうな顔をしてイルカに告げた。
「起きあがるのもしんどいんです。体を起こすと腹の傷が痛むし…」
ひっそりと淋しげに笑ってみる。
「すいません、ちょっと怪我がひどくて弱気になってたみたいです。わがまま言ってごめんなさい」
ふいに淋しそうに目を伏せたカカシに、イルカは自分がとても非道いことをしている気分になった。そうだ、確かにカカシは非道い怪我をしていて。怪我のせいで熱もある。誰かに甘えたくなったとしても、仕方がないではないか、と。
自分で食べますね、そういって小鉢に伸ばされたカカシの手をイルカは押しとどめた。
「イイですよ、でも今日だけですからね」
わずかに頬を染めてそういったイルカにカカシは内心ほくそ笑んだ。
「ホントですか?!ありがとうございます」
いかにも嬉しい、といった笑みを湛えてカカシはイルカに礼を言う。この人、こんなに騙されやすくていいんだろうか、と思わないでもなかったけれど。食べやすいように身を起こして枕にもたれ掛かる。
「じゃあ、はいどうぞ」
小鉢の上の粥を息を吹きかけてさましてからイルカはカカシの前に匙を差し出す。
「あ〜ん、とか言ってくれないんですか?」
不服そうに匙を見つめるカカシにイルカは今度は脱力した。甘やかすのではなかったかも知れない。
「はいはい、じゃあ、あ〜ん」
「あ〜ん」
上機嫌でイルカの差し出してくれた匙からカカシは粥を口の中に入れる。
「すごく美味しいです」
「お口に合いましたか、良かったです」
ほっとしたように笑うイルカ。
お世辞抜きにして、旨い粥だった。何日かぶりに食物を摂取した体は、じんわりと内側から癒されていくようだった。イルカから粥を食べさせてもらいながらカカシは思う。このまま時が止まればいいのに。そうして、この先、ここを出るまでの短い間に、自分はいったいどれくらい今と同じ事を思うのだろうかと思う。
あぁ、本当に、幸せとは長く続くもんじゃない。ほんの少しだけ、微笑んでいるのが辛かった。
鍋に入っていた粥があらかたなくなった頃、開け放たれた扉がこつこつと叩かれた。
「いちゃいちゃしてる所悪いんだが、お邪魔するぞ」
煙草を銜えたまま人の悪い笑みを浮かべて、アスマは入り口の壁にもたれ掛かって中を眺めている。
「マスター?!」
慌てて振り返ったイルカは顔を真っ赤にして驚いていた。
「いつからそこにいたんです?人が悪いですね」
ぷりぷりと怒るイルカにアスマは別に悪びれた様子もなく、今来た所だ、と嘯いた。
イルカの手の中にはほんの少しだけ粥の入った小鉢が握られている。このままアスマの目の前でカカシにこれを食べさせるのは、いかに看病といえどちょっと恥ずかしい。ちょっとどころじゃなく、恥ずかしい。
頬を紅く染めたままイルカは上目遣いにちらりとカカシを見た。鍋の中に粥はもうほとんど残っていないしもういいですか、と何となく許しを請うような気分でカカシに視線を投げる。
困って紅くなった顔がとても可愛くてカカシは思わず笑ってしまう。もう一度、あ〜ん、と言ったらこの人はどんな顔をするだろうか、と。思わず意地悪をしそうになったけれど、きっともっと可愛い顔をするだろうこの人を熊髭に見せるのも勿体ない。
イルカが聞いたらどちらにしろ怒りそうなことを天秤にかけて、そうしてカカシは顔の前で神妙に手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
言ったカカシにイルカはあからさまに安心したような顔になる。
「いえ、お粗末様でした」
トレイの上に小鉢を片付けてイルカはアスマに向き直った。
「ところでマスター、持ってきてくれたんですね」
「あぁ」
短く答えて、アスマは手に持っていた紙袋をイルカに差し出す。紙袋を受け取って中身を確認しながらそうしてカカシを振り返る。
「カカシさん、こちら私の働いているバーのマスターで、アスマさんと言います。マスター、こちらがカカシさんです」
言いながらアスマの方を振り返る。
「あぁ、紅から聞いてるよ。よろしくな」
煙草を燻らせて片手をあげたアスマにカカシは軽く会釈をした。
「どうも」
適当に返事をしながらその視線はイルカの持っている紙袋に注がれていた。カカシの視線に気が付いてイルカは小さく笑う。
「カカシさんに合う服がなかったんでマスターに着替えを頼んでいたんです」
「オレのじゃ大きすぎるかもしれんがな」
その言葉にカカシは視線を紙袋から剥がして、アスマを見た。確かにカカシよりも身長も横幅も大きい。不躾なカカシの視線を気にとめた様子もなく、アスマはのんびりとイルカに言った。
「そういえば朝飯まだ喰ってないんだが、何かあるか?」
「簡単なもので良ければすぐ用意しますけど」
アスマの言葉にイルカはにこにこと笑みを浮かべて答える。
「あぁ、何でもいい。スマンな」
「いいえ、じゃあちょっとここで待っていていただけますか?」
トレイを持ってそそくさと部屋を出かけたイルカは、ふと思い出したようにカカシを見た。
「着替えてもらいたいんで、まだ眠らないで下さいね。マスターよろしくお願いします」
言い放ってイルカはそのままぱたぱたと部屋を出て行ってしまった。後ろ姿を苦笑いと共に見送ったカカシは、さて、とアスマの方に改めて向き直った。
「人払いまでして、何の用?」
途端に剣呑な雰囲気を身に纏う。アスマは銜えた煙草を深く吸い込んで細く長い煙を吐き出した。
「銀の死神、だったっけ?」
アスマの言葉にカカシは自嘲する。
「ナニ?オレって結構有名人?」
笑うカカシに頓着しないままアスマは記憶を探るように煙草をもう一度吸い込んだ。
「逃した魔神はいないって話だったが、ついに年貢の治め時か?」
笑うでもなくただ壁に凭れたままアスマはぽつりと聞いた。その問いにカカシは卑屈な笑みを引っ込めてぽふりとベッドに横たわる。
「怪我したけど不敗神話は更新中だね。まだ辞められない」
お日様の匂いのする枕に埋もれて、カカシはゆったりと目を閉じた。そう、まだ辞められない。呪いを解くまでステージを降りることは赦されない。
「そうか」
煙草を吸いながらアスマは窓の外を眺めていた。目に映る景色は平和で平凡で何の影も見あたらない。ごく普通の、朝。
ベッドに沈み込んで目を閉じたままのカカシがふと思い出したように口を開いた。
「…無敵艦隊、だったかな。王国海軍第2艦隊がそう呼ばれてたと思うけど。総司令官は引退したのか?」
目を開いてアスマの方に顔を向ける。カカシの言葉にアスマは驚いたような顔をした。
「よく知ってるな。オレも意外と有名人だったか」
凭れていた壁から身を起こして、アスマはつかつかとカカシの方に歩み寄る。窓際に置かれた鉢植えの受け皿で煙草の火を消してから、そうしてアスマはカカシの枕元にどっかりと腰を下ろした。
「総司令官は引退じゃなくて辞職したのさ」
先ほどのカカシのように苦い笑みを顔に浮かべて、アスマはそう言った。きつい煙草の匂いにカカシはわずかに眉を顰めたけれど特に何も言わなかった。
「何で引っ込んだのさ。アンタこそ不敗の名将とか言われてなかったっけ?」
カカシの問いにアスマは顎に蓄えた髭をさすりながら苦笑する。
「判断ミスでな、部下を何人も殺しちまった。勝ってもあれじゃ責任取らなきゃならんだろう」
で、辞めた。軽い口調の中に深い後悔と自責の念を垣間見てカカシは、そう、とだけ言った。
「陸は生きにくいんじゃないの」
視線をアスマから外してカカシはぽつりとそう呟く。カカシの言葉にアスマは何も言わなかった。
「オレも海辺にいると呼吸がしにくい」
目を閉じてそういったカカシにアスマはふと視線を戻した。
「恋姫も、生きにくそうにしてるな」
アスマの呟きにカカシは小さく頷いた。
「あの人は、砂漠の人だよ」
さやさやと海からの風が窓から吹き込む。風に攫われそうなくらい小さな声で言ったカカシの言葉に、アスマはそうだな、と頷く。
頷いたきりアスマはしばらく何も言わなかった。カカシもそうして黙ったまま眠るように目蓋を閉じている。風に煽られてふわりふわりと軽く舞うカーテンをぼんやりと眺めて、アスマはぽつんと言った。
「ホントはオマエに釘を刺しに来たんだ。恋姫から手を引けってな」
アスマの言葉にカカシはゆっくりと目を開く。片方だけの視界が捉えたアスマの表情からは、あまり多くの感情を読みとることは出来なかった。
「紅が随分と心配してる。オマエの呪いが恋姫を浸食するんじゃないかとな」
「可能性としては十分あるね」
アスマの言葉にカカシはほんの少し悲しそうな顔をした。そう、この呪いがある限り、自分が安住できる場所はどこにも存在しない。
「で?釘は刺さないの?」
言ったきり次の言葉を口に乗せないアスマにカカシは問う。
「恋姫がな、あんな風に笑ってるんじゃオレには何も言えんさ」
あんな風にも笑えるんだな、と思ったんだよ。あんな風に幸せそうにも笑えるんだな、ってな。アスマは本当に小さな声で呟きを転がした。
「オレはもう何も言えんさ。あとはお前らで勝手にやってくれりゃあいいことだ」
胸ポケットを探ってくしゃくしゃの煙草を取り出すとアスマはそれに火をつけた。肺に貯め込んだ煙を吐き出しながら、アスマはそれきり黙ってしまう。
風に流される紫煙の行方を灰色の瞳で追いながら、カカシは苦い顔で笑った。いっそのこと釘を刺してくれれば良かったのに。あの人に近づくなと、釘を刺してくれれば良かったのに。これ以上、あの人との距離が近づく前に釘を刺してくれれば良かったのに。
もぞりと体を動かして溜息を吐いたカカシに、アスマはふと言った。
「泣かすなよ」
「分かんない、泣かしちゃうかも」
枕に顔を埋めてカカシは答える。泣きたいのは自分だったけれど、泣けないことも分かっていたから。泣く資格も泣く権利もないことも、分かっていたから。
海からの風が部屋の中に吹き込んでいた。ぱたぱたと廊下を歩く足音を耳にしながら、カカシはこのまま眠ってしまおうか、と思っていた。
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