「ドラン帝国に広がるスクロ砂漠を知っていますか?」
「地図の上でなら」
言った紅に頷いてカカシは虚空を見つめる。灰色の瞳には何の感情も読みとることが出来なくて、紅は視線を落とした。
「あまり知られてはいない事実ですが、スクロ砂漠とディアナ山脈の間にオアシスの広がる一帯があるんです」
カカシは深く息を吐き出した。重たげに瞼を閉じて、瞳に浮かんだ陰鬱な色を隠す。
「オアシスには少数民族が数多く暮らしていました。彼らは、初代皇帝アルカディア一世がそこに帝国を建国する遥か以前から、その地にいた」
彼らの住むオアシスは形こそ帝国領として地図に記されてはいたが、実際は帝都から遥か砂漠を挟んだ向こう、帝国皇帝も彼らには不可侵だった。それは、建国の祖アルカディア一世と彼らとの間に結ばれた約束でもある。
初代皇帝は彼らの自治を認めた。砂漠を越えて彼らを武力で制圧することを決してしないと。彼らはそれ以降辺境の民として、帝国と寄り添うように生きてきたのだ。お互いに干渉することもなく、ただ、平和に。
「辺境は閉ざされた土地。だから故に、中世のいわゆる魔法を受け継ぐ人々が数多く暮らしていました。その中に奇蹟の民と呼ばれる部族があった。聞く所に寄ると彼らは他に類を見ないほどの癒しの技を持っていたということです」
癒しの技。遥か彼方に失われたはずの技を持つ民。紅の視線は、布で覆われたカカシの左目の上を彷徨う。
「その呪いを封印したのが、その民?」
今、紅達が施すことの出来る技は遥か昔に比べればあまりにも少なかった。そう、技は失われている。強力な魔法使いはその血を絶やし、今に伝わっているのは彼らが残したわずかな書物だけ。残された記述の中からほんの少しの術を掘り起こしている、我々。
自分たちの想像を遥かに超える術を持った者がまだこの世に残っているとは。わずかに苦々しい気持ちで紅はカカシの左目に視線を注ぐ。
「えぇ、そうです。けれどオレ自身はその事を良く覚えてはいない」
カカシは小さく溜め息を吐いた。
「オレがこの呪いを受けたのは6歳の時でした。オレの故郷も辺境にある。両親は呪いを受けたオレを奇蹟の民に預けたのだそうです。彼らはどんな病気も怪我も癒す事が出来たといいます。だから呪いも解けるだろう、と」
隠された左目。未だそこにある呪い。
「…けれど、呪いは解けなかった」
紅は小さくそう言った。
「そう、呪いは解けなかった。彼らですら封印するだけで精一杯だった。けれど、だからオレは今日まで生き長らえているんです」
カカシはふと重い息を胸から吐き出す。紅は胸の中でカカシの言葉を反芻した。
みすみす死なせてしまった同胞。彼らを救う術がないと拳を握り締めた師の姿。彼の、自分の欲した物は今も手にはいるのだろうか。わずかな沈黙のあと口を開いたのは紅だった。
「……彼らは、奇蹟の民は、今はもういないの?」
過去形で語られるカカシの言葉達。そう、カカシの言葉は過去を追憶する言葉だ。彼の語った言葉はすでに奇蹟の民の存在が過去のものだと告げているけれど。
紅の台詞にカカシは翳りのある笑顔を浮かべてそっと頷いた。
「奇蹟の民だけじゃない。辺境のほとんどの民は失われてしまった」
カカシの肯定に紅は落胆を隠せなかった。魔神は果てしない時を越え、未だ世界を壊し続けているというのに。人が失っていくものはあまりにも多い。
「どういう事?」
それでも紅はそう問わずにはいられなかった。彼らが失われた理由を知ったとて、何の意味もないというのに。彼らがいなくては、何の意味すらないというのに。
「スクロ砂漠は別名赫い砂漠とも呼ばれている。その訳を知ってますか?」
カカシは相変わらず穏やかに紅に問いかけた。けれど。問いのふりをしてはいるけれど、カカシはそれを知っていることを紅には求めていないようだった。もとより紅には彼らの住まう辺境の知識はまるでない。
ただ、黙ったままカカシの答えを待った。
「ドラン帝国先帝ウォーラル2世のことは?」
待った先に帰ってきたのは答えではなく新たな問いだった。紅は今度の質問には口を開いた。
「知ってるわ。帝国始まって以来最も在位期間の短かかった王。病弱で、帝位についたはいいが結局はすぐに崩御された聞いているけれど」
紅の答えに満足したように、カカシはゆるりと瞼を持ち上げる。灰色の瞳に月が映り込んでいた。
「表向きは、ね」
カカシの言葉に紅は眉を顰めた。
「彼は狂っていたんです。即位してすぐ辺境の力を自国の軍隊に引き入れようとした」
カカシは言葉を紡ぎながら思う。もうこれも、過去のことになってしまった、と。あんなにもひどい出来事だったのに。もうこんなにも色褪せている。
都合良く色褪せていく自分の記憶にカカシは苦い笑みを漏らした。記憶は薄れても、呪いは消えたりしないのに。
「辺境と帝国軍の間に戦争が起こりました」
建国以来長い間守られていた約束はいとも容易く破られた。辺境の民は皇帝の要請を固辞し、そして皇帝は辺境に軍隊を派遣した。卓越したその力、我が手元に有らざるならば滅びよ、と。
「大量虐殺ですよ。辺境の民はその類い希な力で軍に抵抗したけれど、数があまりにも違いすぎた」
砂漠は辺境の民の血で真っ赤に染め上げられた。
「逃げ出した人達も多くいましたけど、殺された人の方が多い」
「あなたの、部族も?」
「いいえ、オレの部族は滅ぼされなかった」
カカシの部族が住んでいた土地は、辺境の一番帝国寄りに位置していた。帝国からの終着地点、そして辺境への出発地点である彼の部族の住まう街は、堅固な城塞を持つ武装都市だった。籠城した彼らの部族を結局帝国は陥落出来なかった。
彼らの街を迂回し、さらに辺境の奥へ奥へと進んでいく。大地を血で染め上げ、砂漠に逃げた人々もそして殺されていった。
「スクロ砂漠は血で染まりました。そうして多くの辺境の民が散り散りに追いやられ死に絶えたあと、やっと皇帝は実弟に粛正された」
ウォーラル2世の実弟シャスタは兄が帝位についたとき、カルガイシュ王国に留学中だった。父の急死による帝位相続だったため即位式にも間に合わず、そうして兄の凶行を止めることにも間に合わなかった。
けれどシャスタは兄にこれ以上の凶行をさせる訳にはいかなかった。彼は密かに帝国に戻ると、姉である皇女ティアの手引きで王宮に戻り、そしてようやく兄の凶行を止めた。何もかもが遅すぎたけれど。
「奇蹟の民も失われた。オレの一族のように持ちこたえた一族はごく僅かです。たった一人の狂人によってあの地は永遠に損なわれてしまったんです」
そう言ってカカシはまた虚空を見つめた。憎んではいないのだろうか。
紅はぼんやりとそんな風に思う。彼は、先帝を、彼の故郷を血に染めた彼の帝国を恨んでいないのだろうか、と。けれどぼんやりと宙を見つめるカカシの瞳に、憎しみの色を見つけることは出来なかった。
いっそ不気味なほどの静寂を纏ってカカシはただ穏やかに横たわっている。考えても、仕方のないことだ。紅は小さく息を吐いてようやく口を開いた。
「長居をしたわね。短い昔話だったけれど」
軽口を叩いた紅にカカシはほんの少し笑う。
「イイエ、どういたしまして。疑問は解けた?」
薄い笑みを浮かべて紅に向き直り、カカシはそう問いかける。
「そうね、最初ほどあなたを不気味だとは思わなくなったわ」
そうして紅も笑う。
「そりゃ良かった」
笑うカカシに、お休みなさい、と告げて紅は枕元からようやく立ち上がった。ランプを手に取り薄暗い廊下へと歩み出る。後ろ手に扉を閉め、そうして紅は長く深い溜め息を吐いた。胸中をかき乱す様々な感情に振り回されないよう、ゆっくり深呼吸をする。胸が痛むのはただの感傷に過ぎないと知りながら、けれどカカシを哀れだと思った。
そうして、失われたものの大きさに打ちのめされずにはいられなかった。
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