動揺するイルカを落ち着かせどうにか眠らせて、紅はカカシの元を訪れた。夜の帳がとうに街を覆い尽くしていた。薄暗い廊下を歩き紅は扉をごく軽くノックする。
「はい」
わずかに漏れ聞こえた声を確認して、紅は扉を開く。ベッド脇の窓から差し込む月明かりに照らされてカカシは目を閉じている。まるで眠っているかのように見えた。月光を弾く銀の髪がひどく綺麗で紅はその光景に何となく見入ってしまう。
人ならざる美しさだ、と。
「何か?」
閉じていた目を開けてカカシは首を紅の方に向ける。その言葉に返答を返さないまま紅はつかつかと枕元まで近寄ると、置いてあったランプに火を入れた。硬質な月の光がランプのほんのりとした明かりに中和される。
そうして紅は無言のままその枕元に腰を下ろした。必然的に近くなったカカシとの距離。カカシの左目との、距離。
ランプの光に照らされてカカシの顔色は幾分かよく見えた。黙ったまま自分を見下ろす紅に、カカシも何も言わなかった。ただ、億劫そうに紅の視線を受け止めるだけ。無言のまましばらくそこに腰掛けていた紅は、ようやく重い口を開いた。
「アナタに聞きたいことがあるの」
「何でしょう?」
横たわる男はひどく穏やかで紅は俯いた。自分は何をしているのだろう。けれど。溜息のように息を吐き出して紅はこう問うた。
「そんな呪いを受けて、どうして生き長らえているの?」
紅の問いにカカシはわずかに目を見開いた。
違う、そうではない。違わないけれど。あぁ、もう。まとまりのつかない思考に紅は今度こそ盛大な溜息を漏らして、そうじゃないの、と言った。
「そうじゃないの。あぁ、でもつまり聞きたいのはそれなんだけど、そうじゃなくて。ごめんなさい、私何が言いたいのかしら」
捲し立てるようにいったあと紅は俯いて両手で顔を覆った。こんな風に聞いたのではカカシが生きてここにいることを、まるで責めているみたいだと思う。
呪いを受けたこと自体は多分本人には何の非もないはずだ。それ自体はある意味天災のようなものだから。だから、けれど。
「具体的に何を答えたらいいですか?」
俯いてしまった紅に、カカシはその気配と同様にひどく穏やかな声色で訊ねる。のろのろと顔を上げた紅は大きく息を吐き出すと、始めから話すわ、と言った。
「全部、始めから話すわ。私はアナタのことが、恐ろしいと思った。それは今も変わらないけれど、それでも聞かなくちゃならないと思う」
紅の言葉に、けれどカカシの表情が変わることはなかった。不思議なほどの穏やかさでカカシは横たわっている。
「聞きましょう」
穏やかなカカシがなぜか非道く奇異なものに見えて紅は軽く首を振った。深呼吸を一つ。そうして紅はカカシに長い問いを始める。
「昔、アナタと同じ呪いを受けた人を見たことがあるわ」
思いがけない紅の言葉にカカシは驚いたようだったが、それでも何も言わなかった。ただ、静かに横たわったまま。
「私がまだ軍医見習いだった頃の話よ。何年も前の古い話。先生に付いて初めて長い航海に出たとき、魔神が船を襲ったの」
あの日はひどく晴れた日だった。海は凪いで渡る風一つなく奇妙に白々とした日だった。寄せる波音さえ薄い膜越しに聞こえてくるみたいに遠く、ぽっかりと中天に浮かんだ太陽がやけに大きく見えた。マストは畳まれ船は海上にただ浮かんでいた。
生きとし生けるものがまるで死に絶えたような印象を受ける日だった。蒸し暑い船室に閉じこもっていることに堪えかねて紅は甲板に出て海を眺めていた。
見渡す限りの水平線。視界を埋め尽くす空の青、海の藍。世界はただ青く、全てを拒んでいるようだった。
そうしてそれは、青く孤立した世界に突然現れた。
始めは目の錯覚だと思った。青い世界にしみのような黒い点がぽつりと現れる。ひどく小さく、けれど確かに青い世界に現れた異質なもの。
目を凝らす紅に船内のざわめきが届いたのはその時だった。…現れた、誰かがそう言ったのが聞こえて紅は海から視線を外す。ざわめきは明瞭な言葉としては耳に届かず、けれど突然船内を包み込んだ緊張感に紅はふいに状況を把握して慄然とした。
現れた、と言わなかったか。あの声は見張り台に立つ者の声ではなかったか。では何が、現れたというのか。
何が?それは。魔神。
脳裏をよぎった言葉に紅の背中に冷たい汗が流れる。そう、あれは、あれは確かに人影ではなかったか。見つめた視線の先、ただ一つの島影も見えない海原に佇んではいなかったか。
考えるよりも先に紅は振り返っていた。振り向いてはいけないと理性が叫ぶのも構わずに。振り向いた先、海原には人影が佇んでいた。さっきよりもずっと近く、今はもう表情さえも見える位置で。
人影は甲板に張り付いた少女に気が付いた。口の端をにいと吊り上げ、そして。
「あとのことはあまりよく覚えていないわ。先生に無理矢理船室に押し込められて、戦闘が終わるのを他の見習い生と一緒にただ待っていた」
薄暗い船室の中、恐怖が張り付いたように誰も何も言葉を発しなかった。蒸し暑いはずの船室は奇妙に寒く、紅は両手で自分の体を抱きしめていた。
「震えが止まらなかったわ。魔神があんなに恐ろしいものだなんて知らなかった。生まれてこの方、後にも先にもあんなに怖い思いをしたことはないわ」
紅はあの時と同じように自分の体を両手で抱きしめて息を吐き出す。
「そのあとよ。戦闘が終わって手当の手伝いに狩り出されたの。負傷した兵士の中に呪いを受けた者が何人もいたわ」
いったん言葉を句切って紅はカカシを見つめた。
「みんな左目に呪いを受けてた」
自分を見つめる穏やかな視線にぶつかって紅はわずかに顔を伏せる。次の言葉を探すように視線を泳がせたけれど、結局は諦めたように目を伏せて開く。
「みんな、死んだわ。全員が発狂して三日以内に死んでしまった。一人の例外もなく」
カカシを見つめる紅の視線には様々な感情が入り乱れているようだった。けれどそれを知っていてカカシは何も言わない。言わないのか、言うべき言葉を持たないのかは分からなかったけれど。
「みんな死んだ。なのにアナタは生きている。おそらく同じ魔神から受けた呪いだと思う。なのにアナタは死んでいない。どうして?」
だからこそカカシが恐ろしいのだ。発狂し、死に逝く同胞を見つめながら紅の師は絶望に打ちひしがれていた。自分に出来ることは、もはや何一つ無いと。否、自分だけでなくこの世のありとあらゆる術者でさえ彼らを助けることは出来ないと。
彼の人の無力な背中をまだこんなにも鮮明に覚えている。焼くことも出来ず、さりとて汚れた遺体を船内に残すことも出来ず、呪われた同胞の死体は次々と海に葬られた。白い布に巻かれた死体が放物線を描いて海に落下していく光景を、昨日のことのように思い出せる。
なのに、なぜ、この男は生き長らえているのだろう。それは、人ならざる力?痛みを堪えるように自分を見つめる女を、カカシはただ穏やかに見返すだけだった。
「それを聞いて、どうするんです?」
そうしてようやくカカシから発せられた言葉は、それだった。
「アンタが何者でも、私は構わない。けれどあの子は違うでしょう?」
言った紅に、カカシはようやく表情を崩してその顔に苦い笑みを浮かべた。カカシの表情に紅は心が重くなるのを感じた。あぁ、やはりそうなのだ。この二人は惹かれあっている。ほんの短いわずかなこの日々の中で惹かれあい始めている、と。
苦渋を滲ませた紅に気が付かないふりをしてカカシはぽつりと呟いた。
「奇蹟の民を知っていますか?」
「奇蹟の、民?」
聞き慣れない単語を口の中で転がした紅に、カカシは小さく頷いた。
「そう、奇蹟の民」
「知らないわ」
答えた紅に視線を投げて、それからカカシは疲れたように目を閉じた。
「昔、砂漠にそう呼ばれる民がいたんです」
ランプの油が燃える匂いがしていた。吹き込んでくる風は穏やかだったが、夜風が怪我人に良いとも思えず紅は窓を閉めに立ち上がる。目を閉じたまま黙っていたカカシは窓に手を掛けた紅の背中に、昔話をしましょうか、と言った。
「少し、昔話をしましょうか」
カカシの声を背中に聞きながら紅は窓を閉じた。流れていた空気が留まり、部屋の空気が妙な重力を持ったみたいに思えて紅は小さく息を吐く。閉めるのではなかったかも知れない。
「短い、昔話なら」
振り向きながら紅はそう言った。
「医者としての見解だけれど本当はもう休んだ方がいいと思うわ。けれど」
「けれど?」
「医者じゃない自分の見解としてはもう少し話を聞いておきたいと思う。だから、短い話なら」
閉じた窓に凭れて溜め息を吐いた紅にカカシは笑った。
「アンタいい人だね。あの人があんなにも慕ってるのが分かる気がする」
くつくつと笑いを漏らすカカシに紅は苦笑した。
「一応誉め言葉として受け取っておくわ。で、どうするの?」
窓から身を離し紅はまたカカシの枕元に戻ってそう聞いた。
「じゃあ、ほんの少しだけ」
しばらく笑いをかみ殺していたカカシはようやく顔を上げ、紅にそう告げたのだった。
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