long


 具合が良いとは言い難い。カカシの顔はまだ青白く、しばらく話をしただけで疲れてしまったように見えた。握られていた手首からようやく力が抜け、拘束が弛む。うとうとと眠り込んでしまったカカシを見届けてから、イルカは部屋を後にした。
 話をしている間中握られていた手首は、じんじんと痛むみたいに熱を帯びていた。
 カカシの、熱。彼が生きていることの証明。
 扉にそっと背中を預けてイルカは手首を持ち上げてみた。はめた腕輪が手首を滑り落ちながらしゃらしゃらと音を立てる。
 うっすらと赤くなった手首。カカシに握られていた、証明。剣を振るう人だから、きっと握力も強いのだろう。わずかに赤みを帯びた自分の皮膚を眺めながらイルカは妙なことに感心していた。
 いつもより早く脈打つ鼓動に気が付かないふりをするみたいに。
 あの人に恋をしている自分に気が付かない振りを、するみたいに。





 階下に降りると紅が王宮から帰ってきていた。
「あ、おかえりなさい」
 にこりと笑ってそういったイルカに紅はわずかに表情を曇らせる。
「ただいま」
 普段とはわずかに違う紅の態度にイルカは小さく首を傾げた。
「何か、あったんですか?」
 紅は手元のカルテをぱらぱらと捲っていた。具合の芳しくない患者がいるのだろうか、と思う。そうしてふいにそれがカカシであることに思い当たる。
 おそらく、自分はカルテなど読めはしないけれど、紅が捲っているそれは、きっと。問いかけたままカルテを捲る手元を凝視するイルカに、紅はふいに表情を弛めた。
「症状は安定してるわ。傷口にかかっていた呪いも問題なく解除できたと思う。熱はまだ引かない?」
 水の張られたタライを抱えたイルカに視線を注いで紅は逆に問いかける。
「熱はまだ高いみたいです。でも意識ははっきりしてますよ」
 不安そうに顔を曇らせたイルカを紅は困ったように眺めた。
「熱は2、3日もしたら引くと思うわ」
 じゃあ、一体何が問題だというのか。歯切れの良くない紅にイルカの不安はいっそう募る。熱が高いのが問題ではないのなら一体何が紅の心を煩わせているのだろうか。
「カカシさんの、ですよね。そのカルテ」
 不安を隠しもしないままイルカは紅の手元を指さした。紅は否定も肯定もしなかった。イルカからふいと視線を逸らして窓の外を眺めている。
「カカシさん、どこか悪いんですか?あの傷以外にも」
 紅の態度にイルカは苛立ったように問いかけた。まだ、あの傷以外にもまだあの人を苦しめているものがあるのだろうか。あの人の心を死に追いやるほどの、何かが。
「…左目が、問題なの」
 イルカに視線を戻さないまま暮れゆく町並みを眺めて紅はそう言った。
「左目?」
 隠された、左目?何かに堪えるようにカカシが押さえていた、あの左目。
「そう、左目よ。あの男の左目には腹の呪いなんて目じゃないくらい強力な呪いがかけられているの」
 紅は弄んでいたカルテをばさりと机に放るとようやくイルカの方を向いた。
「気が付いたのは手術中だったわ」
 夕日の差し込む窓からぬるい風が吹き込んでいた。紅の長い髪が風に煽られてばさりと音を立てる。そうして紅は、こんなゆっくりと口を開いた。

「腐った肉を削りながら、言い様のない違和感を感じたの」

 そう、あれは確かに違和感だった。呪いを中和する結界の上に手術台を置き、そうして始めた手術。最初は傷の酷さに気を取られて気が付かなかったけれど、傷口が徐々に清められていくたびに強くなる違和感に紅は眉を顰めずにはいられなかった。
 重要な処置を取りあえず済ませ、紅はあとの細々した処置をアスマに任せると違和感の出所を探った。
 紅が感じる違和感。それは。違和感というよりは圧迫感に近かったかも知れない。呪いを解こうとする紅の術に対する圧迫感。
 なぜ、と思った。傷口に施されていた呪いはそんなに強力なものではなかった。強い恨みを残して死んだ魔神がかけた呪いは、どんなことをしても解けないものだってあったけれどこの男にかけられたものはそういう類のものではなかったのに。では、なぜこんなにも術に反発を感じるのだろう。
 そうして紅は気が付いた。もう一つの、呪いの存在。ざっと検分したカカシの体の中で一際奇妙に映ったのは左目を覆う布の存在だった。
 きつく巻かれた布にははっきりと呪術のあとが見えた。これは、と思った。これは、この布に施されている呪術は。
 封印?
 呪布で封印してもなお微かに漏れる禍々しい気配。紅は意を決してその布を外した。外した呪布の下、布に覆われて見えなかった目は閉じられている。そうしてその瞼の上にも濃い呪術の残り香が見えた。
 これもまた、封印。二重に封印を施してなお、この瞳から漏れ出る禍々しい気配は。

 魔神の、呪い。

 違和感の正体は、これだったのだ。紅はゆっくりと息を吐き出して布を元に戻した。
 強い呪いがかけられている。自分ごときの術者では、手に負えないほどの。
 呪布をまき直したカカシの左目に紅は手の平を押し当てる。呪布に施された術式を読みとりそして。そしてまた、紅は驚愕に目を見張る。
 読みとった術式とそうして解くことの出来ない呪い。否、これは。これは、そんな生易しいものではない。自然と震える手を叱咤して紅は深く息を吸い込んだ。ゆっくりと息を吐きながらそうしてようやくカカシの左目から手を浮かせる。
 恐ろしい、呪い。
 けれど、本当に恐ろしいのは。本当に恐ろしいのは、こんな呪いを身に受けて生きながらえているこの男ではないだろうかと紅は思わずにはいられなかった。

「彼の左目には魔神からの呪いがかけられている。彼自身だけでなく、彼に関わるものにも呪いが降りかかるような、そういう呪い」
 溜息と共に吐き出された紅の言葉にイルカはびくりと体を震わせた。なんて非道い。
「強力な術で彼の呪いのほとんどは封印されているみたいだけど、あの呪いにいろんな呪いが引きずられるんだわ」
 今までにも同じような経験をしているはずだと紅は思う。あの男がいつあの呪いを受けたのかは知らないけれど、術の具合からいっても最近掛けられたものではないことだけは確かだった。呪いを身に宿すものは、そのほかの呪いを引き寄せる。今回の傷だとて、彼でなかったらあれほどにひどい傷にはならなかっただろう。
「取りあえず今回の傷は一月もあれば治るでしょうけど…」
 深い溜め息を吐いた紅をイルカはじっと見つめていた。
「左目の呪いを解くことは…?」
 紅の憂鬱そうな表情からそれが叶わぬ事はイルカにだって分かっていたけれど。けれど。体が震える。
「無理ね。あの呪いは、呪いをかけた魔神を殺すしか解く手立てがない」
 椅子の背もたれに体重を預けて、紅はまた視線を外に向ける。
 体が震えて仕方がなかった。あんなに優しく笑うのに。あんなに温かく、笑う人なのに。どうして神様はあの人にそんな過酷な人生を背負わせたのだろう。恐怖に体が震えていた。
 持っていたタライが腕を滑り落ちる。ばしゃりと派手な音を立ててタライの水が床にこぼれ落ちた。
「イルカ?」
 慌てて椅子から立ち上がった紅にイルカは、大丈夫です、と答える。けれど、震えは止まらない。あの人のほんのすぐ側に、死が横たわっている。ほんの些細なきっかけで自分を殺してしまうものをその身に抱えて、それでもカカシは笑っていたから。
 あの人が死にたいと思った理由が分かったような気がしてイルカは泣きそうになった。あぁ、あの人に死が付きまとっている。
「大丈夫?」
 紅が細い腕をイルカの肩に掛けた。震える体を止める術を知らないイルカは紅に縋り付いた。
 あの人に、死が。


 震えるイルカを抱きしめて紅は思う。本当に怖いのは呪いじゃない。あんな呪いを受けてなお、生き残る彼の方だ、と。
 痛みに耐えるようにきつくしがみついたイルカの体温に、紅は考えても仕方のないことだと小さな溜息を漏らした。



←back | next→