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 カカシは意識こそ取り戻したものの、一向に熱が下がる様子はなく病状は改善の兆しも見えないままただ日々が過ぎていた。そうしてその傍らにはつきっきりで看病するイルカの姿があった。カカシがここに運び込まれてからずっと、彼を守るように歌を口ずさむイルカの姿が、あった。
 熱が下がることはなかったカカシの意識はいささかも混濁しておらず、二人はぽつりぽつりとお互いのことを知るようになっていた。



 少しずつ交わされた会話の中から分かったのだが、カカシは自分が倒れる直前あたりの出来事をよく覚えてはいないようだった。だから、カカシが意識を取り戻してから、程なくしてイルカに聞いたのはこんな間の抜けたことだった。



「あの、今更間抜けなことを聞くようなんですが、ここは一体どこなんでしょうか?」
 カカシの台詞にイルカはタオルを洗うためにタライに浸していた手を止める。
 あの日。カカシが店にやって来たとき。確かにカカシは明確な目的を持ってそこへ来たように思ったのだが。カカシは自分を訪ねてきたのではなかったか。
「…え?」
 質問の意味、それ自体は理解できたがいまいちその意図がはっきりしなくて、イルカはカカシと同じくらい間抜けな顔で問い返す。
「あ、いやその。どうも記憶がはっきりしないみたいで」
 カカシの台詞に、あぁ、とイルカは納得する。あの傷では、そうかも知れない、と。あの傷、歩いていることすら、否、生きていることすら意識があることすら信じられないような非道い傷を負っていた。
 それなのにカカシは歩いてイルカの元まで辿り着いたのだ。あの時のカカシの意識はすでに朦朧としていたのだろう。何という精神力だろうか。
 ほとほと感心してカカシをまじまじと眺めるとイルカはふと口元を弛めた。出会いとは奇蹟みたいな偶然の上に成り立っているのかも知れない。
「ここはサンカイハ王国王都ルシールト。この家があるのは港に近いダッカ地区になりますけど」
「王都?ホントに?」
 驚いたように問い返したカカシを、イルカは不思議そうに見つめた。カカシの記憶は一体いつから停滞しているのか。
「本当ですよ。あなたは私を訪ねてきたのだと思っていたんですが、本当は違うんですか?」
 イルカの言葉にカカシは記憶を探るように目を細めた。店で始めて出会ったときと同じようにその左目は隠されていたが、片方だけ覗いた瞳はとても美しいと思う。青みがかった灰色の瞳。濁りのない、澄んだ瞳だとふいに思った。
 細められた目がゆったりと伏せられ、そうしてまた灰色の瞳が現れる。ひょっとしたら、この瞳に囚われたのかもしれない。
 この、優しい灰色の瞳に。
 ぼんやりと見つめるイルカに気が付きもしないでカカシは細めた瞳をふと開いた。そうして、あぁ、と溜息のように漏らされたカカシの言葉。それからカカシはここに辿り着くまでの経緯をぽつりぽつりと語り始めた。
「そもそもは、この傷を受けたことが発端なんです」
 カカシはその長い話を、そんな風に切り出した。





 この世界には、遥か彼方の昔より人に害なす魔神が住む。ものの数こそさして多くはないが、その妖力は甚大にして無限。数多の魔物を操り、様々な厄災を人に運んでいた。
 そうして、また人の側にも魔神を狩る者達が存在している。彼らはありとあらゆる呪術をその身に有し、また卓越した剣技を持つという。彼らは人々にとってなくてはならぬ存在ではあったが、また、畏れの対象でもあった。人ならざる力をその身に宿すは、魔神とさして変わりない。町々に暮らす人と交わることは少なくその所在ははっきりしない。
 魔神を殺すが故の、尊敬と畏怖。彼らは一所に有ることはなく、流離うままに魔神を殺し続けるのだと、言う。カカシもまた、魔神を狩る者だった。





「ウィーザ連合国を知っていますか?」
 カカシの問いにイルカは小さく頷く。
「彼の国の南方にミスカと呼ばれる砂漠がある」
 カカシは言葉を紡ぎながら、枕元に座るイルカの細い手首を握る。熱のせいだろう。とても熱い手の平だと、イルカはいつも思ってしまう。
 この人の手は触れるたびに、いつも火傷しそうに熱い、と。カカシの熱に浮かされたみたいに少しだけ早くなる鼓動。
「ウィーザの首都ニヴァでオレはミスカに住む魔神の討伐を頼まれました」
 ぽつりぽつりと語りながらカカシはイルカの手を弄んでいる。握られた手首はしゃらりしゃらりと涼やかな音を立てた。その音に聞き入るようにカカシはうっとりと目を閉じ、そうしてまた語り始める。
「魔神の討伐は上手くいきましたが、死に際の魔神から一太刀腹に傷を受けたんです」
 閉じていた目をゆるりと開き、カカシは苦く笑った。それが、今持ってカカシを苦しめている、その、傷。
「傷には呪いが掛けられた。砂漠の熱気といつまでも塞がらない傷。傷の大きさ自体は大したことなかったんですが、それでもこのままじゃマズイと思いましてね」
 イルカの腕輪をしゃらしゃらと鳴らして、カカシはまた目を閉じる。苦しいのかも知れない、とイルカは思った。熱も下がりきらないし、紅は大丈夫といったけれど、まだその身を呪いが苛んでいるのかも知れない、と。
「取りあえずニヴァに戻って、医者にかかりました。けれど」
 閉じられた目は、今度は開かなかった。イルカの手に額を寄せて、カカシは言葉の続きを紡ぐ。
「けれどね、ニヴァじゃどうにもならなかったんです。彼の地には呪われた傷を治せる医者がいなかった」
 カカシの言葉にイルカはそうかも知れない、と思う。
 彼の地は。ウィーザは、国土のほとんどが砂漠と山に覆われた貧しい国だ。数多くの部族が未だ自治を守り、国家としての統一には遥か遠い。唯一、香貴布と呼ばれる香りを持つ特殊な布を産出しているくらいで、そのほかには際だった産業もない。
 そんな地に、呪力を有した高位の医者がいるとは到底思えなかった。イルカは静かに言葉の続きを待った。
「この傷を治せる医者がいるとしたら、おそらくはサンカイハの王都くらいだろうと医者は言ったんです。けれど、ニヴァから王都ルシールトまではあまりにも遠い」
 そう言ってカカシはふうと息を吐き出す。青白い顔をしたカカシの額には玉のような汗が滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
 握られていない方の手でイルカはカカシの額に滲んだ汗をふき取る。当てられたタオルの冷たさにカカシは閉じていた目をうっすらと開いた。わずかな笑みを湛えてカカシは小さく頷く。
 カカシに話をやめる意志はないようで、イルカは黙って話の続きを待った。額に当てられたままのタオルの感触にカカシは開けていた目を閉じた。
 また、瞳が隠れてしまう。イルカはカカシの灰色の瞳が砂漠を連想させるのだ、とふと思った。砂漠を渡るキャラバンの中にはカカシと同じような瞳の色をした者が多い。少しくすんだ、灰色の瞳。灰色に空を溶かし込んだカカシのような色の瞳にはついぞ出会ったことはなかったけれど、それでも懐かしいと思う。懐かしく、恋しい。
 愛おしい瞳。
 カカシの視線に晒されているときはどことなく見透かされているような居心地が悪いような気分になるのに、その瞳が閉じてしまうのはとても淋しい。そう思うのはそのせいなんだろうか、と思った。
 柔らかい、瞳の色。しばらく浅い呼吸を繰り返していたカカシは、またぽつりと話を始めた。
「オレ達のように魔神を狩ることを生業にしてる者は、空間転移の術を使えるんです。普通だったらニヴァからルシールトくらい平気で飛べるんですが、なにぶんこの傷じゃあそんな距離を飛ぶこと自体自殺行為に等しかった」
 憧憬と畏怖の象徴。何気ないカカシの台詞にイルカはふいに誰かの言葉を思い出した。
 魔神を狩る者。すなわちそれは異形の者だと。人に有らざる過大な力。それは。
「飛べる限界地点まで飛んだんです。着いたのはゴハでした」
 ゴハはルシールトの丁度北に位置するキャラバンの中継都市である。アルディア山脈に端を発するスクーク川の中央付近にあり、川はそのまま王都へと流れ込みイデーエ湾へと注ぐ。独自産業には薄い街だが、交易の中継地点だけ有ってとかく商業の発達が目覚ましい、活気に満ちた街でもある。
「ゴハはね、悪い街じゃないんですが、あそこの人達はオレ達みたいな人種があんまり好きじゃない」
 カカシの顔には苦い笑いが浮かんでいた。
「ゴハだけじゃないか。とかくサンカイハ王国ではオレ達への信頼は薄いから」
 カカシの言葉にイルカは困って首を傾げた。なぜ、と思ったのだ。彼らは確かにどこでも手放しで歓迎される訳ではないだろうが、それでも表面上は手厚く持て成されることが多いと聞くのに。イルカの疑問に気が付いたのかカカシはこう言った。
「サンカイハは軍事国家でしょう?世界最強の魔導軍と海軍を有する、世界最大の軍事国家。この国の国民は我々に頼らずとも自国の軍隊が魔神をどうにかしてくれることを知っているから」
 意外な事実にイルカはに驚きを隠せなかった。この国が、軍事国家だったなんて。サンカイハは確かにさほど国土が広いわけではない。ただし国土の中央にはスクーク川が流れ川を中心に肥沃な大地が広がっている。気候も穏やかで、サンカイハは広大な穀倉地帯を抱えた有数の農業国家であったと記憶しているのに。
 軍事国家。驚きを隠さないイルカに、カカシは知りませんでしたか?と僅かに首を傾けた。
「あんまり知られてる事実じゃないかも知れないですね。この国は農業国としての一面も大きいですから。知らない人の方が多いかもしれません」
 カカシの言葉は何の慰めにもならなかった。意外な所でもたらされた事実にイルカは動揺を隠しきれない。
「多分ね、サンカイハの国民自体も自国の軍隊が結構強いくらいの知識しかないと思うんですけど…。オレ、何かマズイこと言いました?」
 不安げに呟くカカシにイルカは慌てて首を振る。何もカカシが悪い訳ではない。自分の無知が、悪い。内心の動揺も何もかもをようやく押し隠してイルカは笑顔を作った。
 そうして自分があまりにも無知だったことに後悔する。逃げ出してきた先が、軍事国家だったなんて。逃げたつもりだったけれど、自分は一番逃げ込んでは行けない場所に来てしまったのかも知れない。
 続きを、と小さく促せばカカシは何かを見透かすような目をしてふと息を吐き出した。
「ともかくね、ゴハでは医者にかかることが出来なかったし、それに多分王都じゃないとそういう医者は見つからないと思ってたんでね。諦めて王都行きの乗り合い馬車に乗ったんです」
 天井を見つめていた瞳をまた閉じてカカシはゆっくりと呼吸を繰り返す。生きていることを確かめているみたいだと、イルカは思う。内心の動揺は収まりつつあった。
 けれど。
「乗り合い馬車の中で、あなたの噂を聞きました」
 その言葉にイルカは目を見開く。
 噂。
 そんな遠くでまで噂が囁かれているとしたら、自分は近くここを離れなければならないかもしれない。やっとの思いで砂漠を捨てたのに、砂漠でない所でもイルカに必要に付きまとう影。そっと小さな溜息を吐き出して、けれどもイルカは何も言わなかった。
「噂によると、王都には聴く者全てに安らぎを与える歌姫がいるという。それを聞いた時ね、もういいかなって思ったんです」
 閉じていた瞼を重たげに持ち上げてカカシはイルカを見た。柔らかな視線に晒される。居心地の悪さを感じてイルカは小さく身動いだけれど、腕輪がしゃらりと鳴っただけだった。
「何が、もういいんですか?」
 居心地の悪さを誤魔化すようにそう問うたイルカに、カカシは薄く笑った。
「もう、死んでもいいかな、と思ったんです」
 言ったカカシにイルカは眉を顰める。たとえ嘘でもそんな言葉は聞きたくなかった。
「こんなに苦しい思いをしてまで生きてる意味があるのかなって。どうせ誰からも疎まれる人生です。だったら安らかに死ねるならそれもいいかなって、そう思ったんです」
「迷惑です、そんなの」
 カカシの台詞にイルカは思わずそんなことを口走ってしまった。すいません、と小さな声でカカシは謝罪を口に上らせる。
「そうですよね、アナタにとっては迷惑な話だ。でも、その時オレはそんな風に思ってしまったんです」
 いい加減疲れていたのかも知れません、とカカシは言う。生きることに、疎まれてなお生きることに。疎まれ、呪いをその身に受けて生き続けることに、疲れていたのかも知れません、とカカシは言った。
 悲しい告白にイルカは掛けるべき言葉を持たなかった。握った手に少しだけ力を入れてカカシは言葉を吐き出す。
「どうせ王都に着いた所で医者を見つけることが出来るとは限らない。見つけることが出来たとしても治療を受けられるか分からない。果たして完治するなんて事があるだろうか。ならば、ならばいっそ、と。そんな風に思いましてね」
 カカシの顔に張り付いた笑みが悲しくてイルカは空いた手をその頬にそっと当てた。火照った頬をイルカの冷えた手の平が覆う。思いがけないイルカの優しい行動にカカシはゆるりと優しい笑みを浮かべた。
「あとのことはあまりはっきりしないんです。おそらく、アナタのいる店をどこかで聞いてそうしてここまで辿り着いたんでしょうが…」
 よくもまあ死ななかったものです。そう言ってカカシは笑っている。
 この人は本当に死にたかったのかもしれない、とイルカは思った。笑みを浮かべるその顔はどこか疲れ果てているようにも見えて。彼はひょっとしたら楽になりたかったのかも知れない、と思った。
 けれど、カカシが死ななくてよかったと思う自分もいる。ただのエゴ、自己満足に過ぎないだろうけれど、カカシがこうして生きて自分の前にいてくれることにイルカはひどく安堵している。
「あなたはとても運がよかったんです」
 緩やかに笑みを湛えたままそれきり黙ってしまったカカシに、イルカはぽつりと呟きを落とした。
 午後の柔らかな陽光が窓から差し込んでいる。港から吹く南風が海の匂いを運んで、窓際のカーテンをふわりと揺らした。通りの喧噪が随分と遠い。カカシの話を聞きながらイルカは周囲を取り囲む柔らかな空気にゆるく笑みを浮かべる。
 明るい午後。辺りを満たす人々のざわめき。切り取られた世界の中に二人で閉じこめられてるみたいだと。そんなふうにも思えた。
 そうしてイルカは話を終えたカカシに、もう一度同じ言葉を転がした。
「あなたはとても運がよかったんですよ」
「運がイイ?」
「そう、とても運がよかった」
 なぜ?と問いかけるカカシをイルカは笑みを浮かべたまま見つめた。頬に当てた手はすっかりと温まってしまっていた。
 そうっと頬から手を外し、カカシの額に張り付いた髪の毛を梳いてやる。その行動にカカシはうっとりと目を閉じたけれど、イルカの手首を握った手の平を開くことはしなかった。
「あなたのことを診てくれた女性を覚えていますか?」
 イルカの言葉にカカシはこくりと頷いた。
「あの派手な姐さんでしょ?」
 ほろりと零れたカカシの言葉にイルカはくすりと声を漏らした。
「そんなこと聞かれたら放り出されますよ」
「そりゃマズイですね」
 笑いながら、カカシもそんな風に言う。それで?と先を促すカカシにイルカはわずかに頷いた。
「あの女性、紅さんというのですが彼女は海軍所属の軍医です。いくらここが王都だからといって多分軍医以外には呪術を使える医者はいないでしょうね」
 イルカの言葉にカカシは驚いたようだった。カカシの驚きも無理はない。今更だけれどそう思った。
 世界有数の海軍に所属する軍医。その地位は、如何ほどのものだろう。女であること、そして年齢からの未熟さ経験不足。それを問われる場所。軍とはそういう場所だ。
 そうして彼女はその全てを克服してなお、そこにいるということ。
「すごいでしょう?」
 紅が今の地位にいることが我が事のように嬉しくて、イルカは満面の笑みを湛えた。
「確かに、すごいですね」
 イルカが単純にすごいと言った以上の重みでカカシは肯定の言葉を発した。
「彼女は私の同居人なんです。海軍付きですから軍医というよりは船医ですね。一年の半分は海にいるような仕事だから」
 留守番代わりに置いてもらってるんです。イルカはそういいながら笑う。
「とても真面目で優秀な人なんですよ。航海に出ていない今みたいな時だって王宮に行かなくて良い日は近所の人達をタダで診てあげてるんです」
 下の階の半分が診療所になっててね。言いながらイルカはにこにこと笑った。紅を心の底から慕っているのだろう。彼女の話をするときのイルカの表情には一点の曇りもない。
「店に出るのは夕方からですから、私も診療所のお手伝いとかしてるんです」
 屈託のない、笑顔だった。カカシはイルカがこんな風に心を許す人間がいることに、わずかな胸の痛みを覚えた。
 この感情を、知っている。遠い昔に閉じこめたはずのこの感情の正体を、カカシは知っていた。
「私の所に生きて辿り着いたこと、そして私の同居人がたまたま呪術の使える医者だったこと、そして彼女が航海に出ていなかったこと」
 それを考えるとあなたはとても運がいい。カカシを柔らかく見つめてイルカは、良かったですね、といった。
「死んでしまわなくて、良かったですね。神様はまだあなたをお側には呼ばれなかったんですね」
 微笑みかけるイルカにカカシも笑みを返した。神様なんてとうの昔に信じることをやめてしまっていたけれど。イルカが嬉しそうに笑うなら、それでもイイかと思った。
 そんな風に、思った。
「まだ、死にたいと思っていますか?」
 わずかな沈黙の後、イルカはぽつりとそう聞いた。小さな翳りが笑顔を曇らせる。あぁ、この人は笑ってる方がずっといい。カカシはそう思う。
 この人の笑顔は人の心を温かくするから。オレの、荒んだ心を、温かく、するから。
「イイエ、こんな命でも、助かったら助かったで惜しいみたいです」
 カカシは薄く笑う。死んでもいいと、思っていた。あの時確かにそう思ったのに。
 けれど、イルカに出会って急に命が惜しくなった。この温かな笑顔をもう少し見ていたいと、そう、思った。惜しむほどの命ではないと思うけれど。
「良かった。あなたが生きていてくれて私も嬉しいです」
 安堵の滲む笑顔。心からの、それ。ずるりと気持ちが引きずられていくのが分かった。
 誰も愛してはいけないのに。誰を愛することも、誰に愛されることも願ってはいけないのに。死の淵から自分を呼び戻した、この温かな人にずるりと気持ちが引きずられるのが、分かってしまった。
 止めようと思う気持ちほど止められないことなど分かっている。けれど。けれど、愛しいと思えば思うほどこの想いは心のずっと奥深くに閉じこめなければならない。
 隠した左目が熱を帯びたように酷く疼いた。この左目がある限り。この人に思いを告げることはまかりならない。戒めのように疼く左目を布の上からやんわりと押さえる。
「大丈夫ですか?」
 黙ったきりふいに左目を押さえたカカシにイルカは心配そうな声を掛ける。
「大丈夫です。多分ちょっと疲れただけですから」
 にこりと笑ってカカシは答えた。引きずられる心を止める術を誰か教えて欲しい。この想いを断ち切る術を、誰か。
 思いとは裏腹に、イルカの手首を握ったカカシの手は一向に開いてはくれない。死にたくなかった。今、死にたいとは、全く思わなかった。
 けれど。カカシはなぜあの時死んでしまわなかったのだろうと、まるで他人事のように思っていた。



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