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「しばらくは安静が必要ね。けれど…」
男の傷口に手際よく包帯を巻きながら紅は、心配そうに隣に佇むイルカにそう言った。
「上手く行くかいまいち自信がなかったけど、傷口は塞がったようね。この分なら命に別状はないでしょう」
包帯を端をきちんと止めて、紅は枕元のタライに貼られた水で手を洗う。イルカに渡されたタオルで水分を拭き取りながら、まだ顔色の悪い男を見下ろす。
「そういう訳で、まだしばらくはここで面倒を見るわ。よく休んで早く良くなって頂戴。恋姫、後はよろしくね」
最後の言葉はイルカに向けて。言いたいことだけを一方的に話すと、ドクター紅は慌ただしく出て行ってしまった。ドアを出て行く紅を見送っていたその背中に声をかけたのはカカシだった。
「あの」
呼びかけにイルカは体を反転させる。
「はい、何ですか?」
柔らかな微笑みを浮かべて振り返ったイルカにカカシは僅かに目を細める。そしてふと思う。カカシが二度目に目を覚ましたときも、この人はこんな風に笑っていた、と。
まだ色の戻りきらない蒼白な顔に二度と目を覚まさないのではないかと思っていたあの時。
掴まれた腕に感じた体温と、そうして柔らかに細められた瞳。
この人はいつだってこんな風に自分に笑いかける、とそう思った。
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カカシが二度目に目を覚ましたとき、一番最初に視界に飛び込んできたものは、見慣れぬ細工の腕輪がはまった白い手だった。手はカカシの額に冷たいタオルを乗せた後、離れていこうとしている所だった。離れていく手が僅かに傾けられた瞬間、腕輪はしゃらりと音を立てた。
この音、と思う。夢の中でずっと聞いていた音。歌声に溶けるように、小さく、微かに。けれど途切れることなくこの音が聞こえていた。しゃらりしゃらりと大気を震わせていた、音楽。
これだったのか、と思う。しゃらりと鳴った腕輪と、そしてその温かな手が離れていくことになぜか堪えられなくてカカシはその腕をやんわりと掴んだ。
掴んだ瞬間、手は驚いたようにぎくりと強張り、そして。
そうして次の瞬間にカカシの視界に割り込んできたのは、安心したように微笑む顔だった。
この人は、異国の夜の人。柔らかな笑みを浮かべるその人を見て、カカシはまたそんな風に思った。
「気が付いたんですね。良かった。何か欲しいものがありますか?」
笑いながらカカシに問いかけるその声は優しく柔らかく美しい。この声。この人の、歌声。
「…イルカ?」
ぼんやりと朧気な記憶を辿る。そう、眠りに落ちる前にこの人に問うたこと。この人の、名前。自分を呼んでくれた人の、名前。夢の中柔らかく響く歌声は、確かに自分を呼んでいたのだ。そんな風に、思う。
あの時、夢の中を歩いていたときは全然思いもつかなかったけれど、確かに呼ばれていたのだ。でなければ、ここにこうして生きているはずがない。
「はい?」
ぽつりと自分の名を呟いたカカシを見下ろしたまま、イルカはやんわりと微笑んでいる。
取りあえず、と差し出された水を飲み干して、カカシは横たわったまま改めてイルカを見た。黒い瞳、黒い髪。少し日に焼けた健康的な肌とそうして鼻の上を真横に通る大きな傷がとても印象的だった。
夜の人だ、と思う。イルカからは優しい夜の匂いがする。
照りつける灼熱の太陽が生きとし生けるものを排除する昼間。そうして、うってかわって夜になると凍てついた極寒の風が吹く、その砂漠。その砂漠にあって、けれどカカシにとって夜は優しかった。身を切り裂くような寒波に晒されても月明かりに照らされた砂漠は美しく、そして昼間よりもずっと生きるものを許容している。
その、優しい夜と同じ匂いのする人。そうして、この人は海辺の街にあるというのにどこか砂漠の匂いのする人だった。自分と同じ、砂漠の匂いのする人だ、と。
名を呼んだままじっと自分を見つめるカカシにイルカはどこか居心地が悪そうに少し身動ぐ。
「あの、どうかしましたか?」
ゆっくりと顔に浮かんでいた微笑が困惑の色を帯びる。イルカは見つめられることになれていないのか、困った表情を浮かべながらうっすらと頬を染めていた。
桃色に染まった頬が可愛らしい、と思う。微笑みが消えてしまったのはとても残念だけれど。けれど、こういう表情もするのかと思う。こういう表情も、悪くない、と。
つらつらと浮かぶ取り留めない思考をそのままに、カカシは緩やかに笑う。カカシのその表情にイルカの頬はますます赤みを帯びた。
「い、医者を呼んできますから」
やんわりと掴まれたままの手を振り解いてイルカは立ち上がった。手の平に感じていた体温を取り逃して、カカシはその事をとても残念に思った。カカシの手から逃れたその時、イルカの手首でまたしゃらりと腕輪が鳴る。
砂漠の音だ。渡る風、乾いた大地、水の匂い、オアシス。あぁ、この人はオアシスなのだ。乾いた人を潤す、オアシスなのだ。
しゃらしゃらと鳴るどこか懐かしい音に耳を傾けながら、足早に部屋を出て行こうとするイルカの背中にカカシはぽつりと言った。
「アナタからは砂漠の匂いがするね。とても、懐かしい、優しい」
断片のようにぽつりぽつりと語られたカカシの言葉に、イルカは弾かれたように振り向いた。振り向いた視線の先、イルカの視界が捉えたカカシはもう目蓋を閉じていた。
彼がどうしてそんなことを言ったのか、それを確かめようにも閉じられた瞳からは何も伺い知ることは出来ない。
ふいに泣き出しそうになって、イルカは慌てて部屋から出る。背後で扉が閉じた瞬間、思わずイルカの瞳からほろりと涙がこぼれ落ちた。慌てて袖で涙を拭ったけれど、泣きたい気持ちはなかなか去りそうになかった。
こぼれ落ちそうになる涙を懸命に堪えて、イルカは胸に堪った息をようやく吐き出した。大きく深呼吸をしてそっと扉から背を浮かす。あの人の言葉が、泣きたくなるくらい嬉しかった。泣いてしまうくらい、嬉しかった。けれど、同じくらい悲しかったのだ。
自分はもう二度とあの懐かしい場所へは還れないのに。砂漠へは、還れないのに。足を踏み出したその衝動にほたりと涙が一粒こぼれた。捨てきれない故郷への郷愁に、イルカは胸を塞がれてしまいそうだった。
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カカシは、あの、と言ったまま黙ってしまった。具合が良くないのだろう、顔色が悪い。長く喋るのが辛いのかカカシの言葉は短く途切れがちだった。
「何か欲しいものがありますか?」
カカシの負担を思ってイルカはそう問いかける。問い掛けにカカシは小さく首を振った。
「…恋姫?」
そうしてカカシはイルカに何かを強請る代わりに逆にそう問いかける。僅かな笑みを湛えて自分に問いかけたカカシに、イルカは苦く笑った。
どうしてこの人に、本当の名を明かしてしまったのだろう。誰にも告げないと誓った、その名を。どうして恋など、してしまったのだろう。
「皆には、恋姫と呼ばれているんです」
イルカは困ったまま僅かに微笑みを浮かべる。不思議そうにイルカを見つめるカカシから視線を外して、ようやく言葉を紡いだ。
「本当は、名を明かしてはいけないんです。だから、皆は呼び名に困って、いつしか私は恋姫と呼ばれるようになった。ただそれだけのことですよ」
それきり、口を閉ざす。イルカからそれ以上何も聞けないことが分かったのか、カカシは浮かべていた笑みを引っ込めてふいに真面目な顔になる。
「……名を、呼ばない方が…?」
ほんの少し残念そうな顔をしたカカシにイルカは小さく笑った。
「二人きりの時は、構いませんけれど」
「…そう」
小さな笑みと共にこぼれ落ちたイルカの言葉に、カカシも安心したように笑う。ほんの少し、名を呼んでくれる人がいることに心が温かくなる。まだ幸福だったあの頃を思い出すようで。ふうわりと心が温かくなる。
にこりと笑ったカカシと視線が不意に合った。カカシの指が小さく動いて、イルカを呼んでいるのが分かる。何だろうと思って枕元に座ると、カカシはイルカの細い手首を持ち上げた。
熱のせいだろう、熱く汗ばんだ手の平の感触にイルカは少し驚いた。
堅い手の平。自分とは違う世界に生きる人の手の平だと、思う。
その事にわずかに痛む胸。
イルカの心中などお構いなしに熱い手の平をした人は、握られたままの手首を小さく揺らした。はめられた腕輪がしゃらしゃらと涼やかな音を立てた。その音にカカシは無邪気な笑みを浮かべる。
「綺麗な音」
そうして、カカシはその手首を握り締めたままいつしか眠りに落ちていった。寝息を立て始めた男を見下ろしたまま、イルカは困った笑みを浮かべる。振りほどけるけれど振りほどけない手をどうしたらいいか分からずに、イルカは困ったままその柔らかな銀の髪を空いた方の手で梳いた。カカシに手首を取られたまま、枕元に腰掛けてその寝顔を見るともなしに見つめてしまう。
綺麗な人。砂と乾いた風を纏った人。イルカの手首を握る熱い手の平。長く骨張った硬い指先。その指先がぴくりと動く。そうしてカカシの眉が僅かに潜められた。吐き出す息は熱く湿って、イルカの腕の温度を上げる。
この人の苦しみを少しでも軽くしてあげたい。そう、思った。熱にうなされるカカシにイルカがしてやれることなんてほんの少ししかない。
口をついて出るのは柔らかいメロディー。カカシが眠ってしまった後、イルカがいつも口ずさむそれは、子守歌だった。カカシが初めて目を覚ましたとき口ずさんだ懐かしい曲。誰かのために歌う「特別な歌」ではないけれど、子守歌を歌うとカカシの表情が和らいだから。
だから、せめて。夢の中だけでも苦しむことがないようにと。
カカシの額に滲む汗を湿らせたタオルで拭いながら、イルカは子守歌を吹き込む風に乗せてゆるりと目を閉じたのだった。
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