****
運び込まれた病人を診て紅は眉をひそめる。
「何これ」
長いマントを捲ってみると男の着衣は血に染まっていた。脇腹が出血源らしくどす黒く変色している。服の下にはきつく包帯が巻かれてはいたがそれも最早何の意味も成してはいなかった。
マントを取り去って、紅はその下から現れた金属に再び眉を顰める。現れたのは鈍い光を放つ剣。
「剣士なのね」
舌打ちしそうな勢いで吐き捨てると紅は彼が身に帯びていた剣や短剣も床に投げ捨て、そうして洋服を切り裂き、傷口に消毒液を振りかけて紅はもう一度さっきと同じ事を呟いた。
「何、これ?」
刺されたらしい脇腹の傷は腐りかけていたがなお新しい鮮血がとろとろと流れ出してもいた。奇妙な傷跡。
が、しかし今はそんなことを悠長に考えている場合でもなかった。ともかく容態は悪い。こんな状態のままでは本当に死んでしまうだろう。紅は手術の準備をせわしなくしながら、男をここまで運んできた店のマスターに短く声をかけた。
「アスマ、手伝ってちょうだい。一人じゃムリだわ」
ありったけの消毒液をざばざばと傷口に注いでいる。ともかくこの腐った肉を抉らなくてはならない。
「おう」
アスマも短く答える。黙々と進んでいく作業にじっと息を潜めていた恋姫がようやく口を開いた。
「何か、出来ることは…?」
小さな、声だった。何も出来ないとは分かっていたけれどここに運び込むことを決めたのは自分で。その自分だけが何も出来ず見守るだけなんて、どうしてもイヤだった。
「何もないわ」
手は動かしたまま視線だけをちらりとあげて紅は言う。そう、本当に自分に出来ることなど何もないのだ。打ちのめされたような気分で恋姫は手を握りしめた。
自分には、歌うことしか出来ない。「歌う」こと、しか。
「何もないから、歌を歌いなさいよ。彼はあなたの歌を聴きに来たのでしょう?」
今度は視線もあげないで紅は続けた。
「歌うことしか出来ないのだから、歌ってよ。あなたの歌が冥土のみやげになるか帰還の道標になるか、それはあなたの力量次第って所ね」
黙々と、手は動かしたまま紅は言う。
何も出来ないまま二人のずっと後ろに立っていた恋姫は紅の言葉に顔を上げた。歌うことしか出来ないけれど。
もう、「誰かのため」に歌うことはやめたのに。「誰かのため」に歌わないと決めていたのに。恋をすることも「誰かのため」に歌うことも、それはもうしてはならないこと。
けれど、でも。恋姫はじっと三人を眺めた。横たわる男と忙しなく動く二人を。
考えている場合ではない。そう、歌うことしか出来ないのだから。どうか私が歌を歌うことを許してください。
祈るように恋姫は一度だけ目蓋を下ろすと小さく息を吐き出して、その瞳を開いた。そうして、床にぺたりと座り込むと片時も離さず持っている異国の楽器を膝の上に置いて息を吸い込む。
還っておいで、と思いながら。しゃらんと、異国の腕輪が音を紡ぐ。古い旋律、古い歌。懐かしい、砂漠の歌。
冥土のみやげに聴きに来た歌は聴かれないままになってしまっているから。そんな寂しい土産にしないで、もっとちゃんと聴きにおいで。歌うことしか出来ないのだから、いつでも歌を歌ってあげる。
遠い遠い異国の歌。乾いた風と砂埃。あなたがやって来た場所の、歌を歌ってあげるから。
しゃらしゃらと手首の腕輪が音を立てていた。奏でる楽器の音色に合わせて恋姫は、歌う。ただ一人名も知らぬ、乾いた風を身に纏った男のために。遠い遠い異国の歌を。
誰かのために歌うなんて、とても久しぶりだと、そう、思いながら。
紡いだ音に合わせて恋姫は高い旋律の歌を歌い始めた。久し振りに歌う、歌だった。もう忘れてしまっているかも知れないと思いながら、遠い記憶を探って爪弾いた旋律はあの頃から少しも色褪せることなく自分の中に蘇った。
古い、昔の歌だった。古い古い、遥かな昔。遙か遠い国へと戦に駆り出された恋人への祈りを歌にした。その、やさしい歌。かつて自分がまだ、砂漠にいた頃に教わった歌の一つ。
還っておいでと。ここに還っておいで、と。
恋姫は旋律を紡ぎながら、青ざめて横たわる男を見つめた。ここにこうして座っていて確認できるのは、男の目の覚めるような銀の髪だけで。恋姫は古い旋律を口ずさみながら、銀の髪のその男に思いを馳せた。
還っておいで。悲しい願いを抱えた旅人。生きることを放棄して何故安らかな死を求めるのか。
私はまだあなたのことを何も知らないのに。医者に駆け込むことよりもただ安らかな死だけを願って私に会いに来たあなた。懐かしい、砂漠の匂いのするあなた。まだ名も知らぬ懐かしい人。乾いた風を纏った人。恋をするかもしれないと思わせた人。どうか私の元に還って砂漠の話を聞かせて欲しい。照りつける太陽と乾いた風と熱い砂の匂い。
思いを馳せる。還っておいでと思いを馳せる。願いは歌に乗り、そうして彼の人を包み込むのだ。
もうどのくらい長い間、そうして歌い続けていたか分からない。辺りはすっかり明るくなっていた。歌声と道具の触れ合う金属音、アスマと紅の交わす小さな会話以外は何も聞こえなかった。
そうして恋姫はまた次の曲を演奏しようとしゃらりと腕輪を鳴らす。しゃらしゃらと鳴った腕輪の音に被さるように、紅が口を開いた。
「終わったわよ」
その声に恋姫は顔を上げる。
「どう、ですか?」
かたりと音を立てて異国の楽器を床に降ろすと恋姫はゆるりと立ち上がった。長時間同じ体制でいたためか、立ち上がったその瞬間恋姫の体はぐらりと揺らいで後ろにあった壁に思わずもたれ掛かってしまう。
「あんたこそ、大丈夫なの?」
恋姫の質問には答えないまま紅は不機嫌そうに眉根を寄せる。彼女がそんな顔をするのは決まって誰かを心配しているときだ。恋姫は小さく笑って、大丈夫です、と返す。
「私のことより、彼は?」
再度の問い掛けに紅は小さく溜め息を吐いた。
「一命は取り留めた、と言っておきましょう。けれど今後の経過を見ないことには何とも言えないわね」
思いの外歯切れの悪い紅の言葉に恋姫は不安げな表情を浮かべる。
「どういう事ですか?」
そう問いかけた恋姫に紅は僅かも表情を変えないままこんな風に返したのだった。
「彼の傷はただの傷じゃないわ。この傷口には何かの呪いがかかってる」
紅の言葉に恋姫は小さく息を呑む。胸の前で握り合わされた手が小さく揺れて、恋姫の手首でしゃらりと異国の音がした。
****
気が付くと薄明かりの靄の中を歩いていた。ぼんやりと発光する世界は時間の感覚を狂わせて、今が朝なのか昼なのかどうにも判別かが付かない。
歩みを止めるでもなく靄のかかった薄明るい世界を見渡すが、見て取れるのは足元に広がっているらしい草原だけだった。腰の辺りまである丈の高い草は、今までに見たことがないような気がした。けれど。それを本当に見たことがないのか、それとも見たことがないような気がするだけで本当は見たことがあるのか、そんなことは全く分からない。
どこにもあるような形だが、けれどそれに見覚えがないような気がするのは草の色がとても独特だったからだ。角度によっては覚めるような緑に見えるけれど、それでいてどこか薄青い草だった。
ぼんやりと草原に視線を投げて、けれども歩くのをやめることはないまま。何かに呼ばれている訳でもないだろうが、足を止めることはどうしてか出来なかった。
当て所もなく、歩く。草原を、しかもこんなに一面の草原を見るのは随分と久し振りだと思いながら。いつも自分の周りにあったのは見渡す限りの荒野、そして砂漠。視界を埋め尽くす緑などいつから見ていないのだろう、と。
そうしてふいに気が付いた。いつの間にか辺りを包んでいた靄は晴れて、眼前には遥か地平線まで埋め尽くす緑の、否、薄青い草原が広がっている。
草は腰の辺りまであるくせに不思議と歩きにくいとは思わなかった。むしろいつもより足取りは軽い。砂漠の砂に歩みをとられ、いつ果てるともない地獄を彷徨うことに比べたら、ここはなんと安らかで穏やかなことか。
歩く足はひんやりと冷たく、心地よい。そうして、気が付いた。足元の草は水中に生えている。自分の足も足首の辺りまで完全に水に没していた。
水の中を歩いていたのかと、そう思う。その事にまるで違和感はなかった。水に浸した足は気持ちよく、草原を渡る風は心地よく。
ふいに、渡る風がしゃらりと微かな音を立てたような気がした。けれどそれきり音もなく。流れる水原をただ、歩く。何かに引き寄せられるように。
目的など、何も有りはしないはずなのに歩みを止めない足は行き先を知っているかのようだった。水の中を歩いているはずなのに、不思議と音はたたなかった。静寂が満ちた草原をゆっくりと歩く。
あれほど靄に霞んでいた景色はいつの間にか晴れ渡っていた。今や世界は眩しいほどの光に満ちている。腰の丈まであった草も進むごと徐々に低くなって、膝の辺りまでになっていた。世界は光に満ちていたがその光源が一体どこにあるのかは分からない。
そう、まさに世界に、ただ、光が満ちあふれている。
そしてふと気が付いた。
音楽が、聞こえる。
光と静寂に満たされていたはずの世界に不思議な音色が響いていた。音楽が、どこからか聞こえていた。そうして音楽は、歌だった。
水の流れる草原を音もなく歩きながら、ふいに世界を満たした歌に耳を澄ませる。優しく、柔らかく、ひどく澄んだ歌声だと思った。明度の高い歌声は世界の何を邪魔することもなく、ただ美しく、強く、そして儚い。
そうしてこの歌に引き寄せられていたのだと、唐突に分かった。もっと側でこの歌声を聞くためにこうして歩いていたのだと、何の前触れもなく突然理解した。
草原に風が渡り、音もなく草が揺れていた。歌声は途切れることはなく、そして。渡る風が、しゃらりと音を奏でたような気がした。
そうして、世界はまばゆいばかりの光に包まれ。
ふいに意識が浮上する。聞こえてくる小さな歌声。ただなんとなく口ずさんでいるだけらしいその声は、けれどひどく耳に心地よかった。
開いた視界に写ったのはどこかの古い板張りの天井。今まで見ていた風景とあまりにも違うその景色に戸惑いを隠せないまま僅かに首を動かしたとき、不意に歌声がとぎれ柔らかい声が聞こえてきた。
「気が付きましたか?」
優しい柔らかいその声をどこかで聞いたことがある、と思う。
「具合はどうですか?」
でも、どこで?わずかな疑問を抱きながら、そうしてその声の方向に首を傾ける。
まだ霞む視線が捉えたのは漆黒の髪と漆黒の瞳。そこに佇んでいたのは、深い夜の色をした異国の人だった。異国の人はひんやりと冷たい手の平を額に当ててくれた。その感触がとても気持ちいいと思う。
「…アナタの」
「え?」
久々に使った声帯はひどく掠れた音しか発しなかったけれど、それでも構わないと思った。
「…アナタの歌を、夢の中で聴きました」
ぼんやりと視線を投げかけたまま呟いたその言葉に、夜の人はほんの少し驚いたような顔をした。手の平の感触が、とても優しいと、思う。
「…なまえ……」
「え?何ですか?」
「……名前、教えて、くれませんか?」
柔らかく冷たい手の平はそれでも徐々に温かくなっていた。おそらく自分は熱があるのだろう、と。その熱がこの人の手の平を温めているのだろう、と。そんなことを考えながら、そう聞いた。
異国の人はほんの少し迷ったような顔をしたけれど、ふと力を抜いてこう答えてくれた。
「イルカ、といいます。貴方の名は?」
意識がまだ眠りを欲していた。具合が良くないのだろうと思う。まるで他人事のようだと思いながらそれでも意識を手放す前に、一言答えを返すことが出来た。
「……カカシ」
それきり意識はまた柔らかいものに包まれる。
イルカと名乗った異国の人は、次に目覚めたときもそこにいてくれるのだろうか。完全に意識が途切れる直前に、ふとそんなことを思った。
カカシと名乗ったその男は、ずるりと引きずり込まれるようにまた眠りに落ちていった。
異境の人。異国の人。遠い遠い、懐かしい。砂と風を運んだ人。
イルカの歌を聴いたと言った。夢の中で自分の歌を聴いたのだと、そう、言った。その事になんの意味があるのかそれは分からなかったけれど、想いは届きこの人は還ってきたのだと思った。
イルカの元へ還ってきたのだと、そう思った。恋をするかもしれない、と。そんな風に思ったのはつい先日のこと。彼の瞳が再び自分を捕らえたとき、恋に落ちるかもしれないと。
あぁ、とイルカは瞠目する。教えないと決めた名を告げてしまった。けして誰にも言わないと決めていた、名前さえ告げてしまった。もうきっと恋に落ちている。
胸の痛みに耐えかねるようにイルカは息を吐き出す。名を捨て、故郷を捨て、「歌」さえも封印し、誰にも心を許さず一人で生きていくと誓ったのに。なぜ、今になってこんな風に自分の心を捕らえる人が現れるのか。
幸福だったあのころならば、この恋心をきっと愛しいものだと思っただろうに。もう、あのころには戻れないというのに。
「目覚めたことを、紅に報告しないと」
沈みそうになる意識からわざと思考を逸らしてイルカは呟く。そうしてしゃらりと音を立てて立ち上がったイルカは、ふいに引き留められるように服の裾を引っ張られた。起きているのかと思って振り返っても、当の本人にはどうやったって意識があるようには見えなかった。
眠りに落ちる前に握るともなしに握ってしまったのかも知れない。握られた裾を無理に解く気にもなれず、イルカはまた枕元に座り込んだ。
歌でも歌おうかと思う。けれどイルカの楽器は壁に立てかけられたままだった。どうしようかと思ったけれど裾を掴まれていては手が届かない。
ふと、イルカは笑う。仕方がないか。柔らかな笑みを浮かべて、そうしてイルカは眠る人の銀の髪を優しく梳いた。
まだ胸は、痛みを増すばかりだけど。それでもそれに気が付かない振りさえすれば、とても幸福な時間。髪を梳きながら知らずイルカが口ずさんでいたのは、遠い昔、母の歌ってくれた子守歌だった。
←back | next→