遠い遠い物語
遠い昔の遠い国
さらさらとさらさらと
砂漠を渡る西風が
白いナツメの小さな果実に
そっとそっと囁いた
こんな話を知っている?
それはそれは遙かな昔
古い古い物語
皆が恋する歌姫と
砂漠を渡る隻眼の剣士
誰にも恋をしなかった
黒い瞳の歌姫が
その生涯で一度だけ
たった一人に恋をした
それはそれは遙かな昔
古い古い恋の歌
誰にも恋をしなかった
皆が彼女に恋をした
そんな歌姫の物語
恋姫
しゃらしゃらと、砂漠を渡る西風よ
どうかあの人を連れてきて
あの人の声を忘れる前に
あの人の姿を忘れる前に
西風よ
どうかあの人に伝えておくれ
待っていますと伝えておくれ
いつまでも、いつまでも
待っていますと
伝えておくれ
話の始まりは古い酒場から。
大きな大きな港町。小さな小さな狭い酒場。
ごみごみとした路地裏の西風さえもようやく渡る。
そんな古い酒場の中に。港の男、皆が恋する黒い瞳の黒い髪。
異国の腕輪をしゃらしゃら鳴らして。
歌姫は、そこにいた。
歌姫は、狭い酒場の一番奥の小さな椅子に腰掛けて。
異国の楽器と異国の腕輪。しゃらしゃらと、しゃらしゃらと。
鳴らしながら歌を歌う。
古い古い恋の歌。遠い砂漠の向こう側。
遠い遠い異国の町の。若い若い恋人達が。遙かな昔に紡いだ歌を。
しゃらしゃらと、しゃらしゃらと。澄んだ音色を響かせて。
しゃらしゃらと、紡ぎ出す。
誰もが恋する歌姫は。けれども誰にも恋しなかった。
誰もが恋する歌姫に。
誰にも恋せぬ歌姫に。
いつしかこんな呼び名が付いた。
───恋姫。
恋姫は。誰にも恋せぬ恋姫は。
けれども誰もが恋をする。
その歌声に。その瞳に。恋せぬ男がいるだろうか。
今日も酒場の片隅で。
恋姫は。
遠い遠い砂漠の向こう。異国の楽器をかき鳴らし。
古い古い恋人達の。恋を歌っておりました。
「次は何を歌いましょうか?」
しゃらんと楽器をかき鳴らして、恋姫は集まった男達を見た。浮かれたような瞳で自分を見つめる男達を。
誰もが自分に恋をすると、女達は囁いている。嫉妬と羨望がない交ぜになったそんな噂。関係のない話だ。恋姫はそう思う。自分は恋などしないのだから。一人で生きなくてはならなくなったあの時にそう決めた。
集まった男達にいつものように薄い笑みを浮かべて恋姫は訊く。
手首を動かした拍子に遠い異国の古い腕輪がしゃらりと音を立てた。しゃらりしゃらりと響く音は遙かな砂漠を呼び起こす。乾いた風と砂埃。懐かしい、故郷のことを呼び起こす。
彼方此方からちらほらと曲のリクエストが掛かり始めていた。今日の気分に一番合う曲を。燃え上がる恋の歌か悲恋の歌か。
そう思って恋姫が楽器に手をかけたとき、酒場の古びたドアが軋んだ音をあげた。立て付けの悪いドアをがたりと無理矢理に押し開けたのは、フードを目深にかぶった見慣れぬ男だった。瞬時にその場にいた男達の目がドアの方へ向けられた。
恋姫の、視線も。男はかぶっていたフードを緩慢な仕草で払い落とすと思いの外通りの良い声で尋ねた。
「こちらに、恋姫と呼ばれる歌い手がいると聞いたのだが」
男からは、砂漠の匂いがした。不意に郷愁に駆られて恋姫は腕輪のはまった手で心臓あたりをぎゅうと掴む。
なつかしい。懐かしい、砂漠の匂い。
その男は薄暗い店内にあってなお、光を返すような銀の髪をしていた。布で巻かれて見えない左目。覗いた右目は深い灰色の瞳。そうして、とても美しい顔立ちだった。
「恋姫と呼ばれている歌い手は私ですが。何のご用でしょうか?」
しゃらしゃらと音を立てながら恋姫は立ち上がる。
乾いた風と乾いた砂の匂い。懐かしい、砂の匂いがする。そんな風に思いながら。
店内に居る少なくはない人数の男達は、何も言葉を発しなかった。
恋姫だけが、男と向かい合っていた。
「あなたの噂を聞いてきました。噂では、あなたの歌声は聞くものに安らぎを与えるとか」
そう言葉を発した男は薄暗い店内だということを差し引いても、とても良いとは言い難い顔色をしていた。蒼白を通り越して土気色をしているといっても過言ではない。
それなのに、男は。笑っていた。
「そんなに大層なものではないと思いますが、私の歌を聴くことがお望みですか?」
「そう、あなたの歌を聴きに来ました。冥土のみやげに」
そう言って男はまた笑った。
「もう長くはない命なので、せめて安らかな気持ちで死にたいと思いましてね」
あなたの歌が安らぎを与えてくれるというのなら、それを聴いてみたいと思いました。
そんな風に、男は笑ったまま言った。砂漠から来たにしては驚くほど白い顔をした男は、そう言って笑ったまま不意に顔色をなくすとどさりとその場に崩れ落ちた。しんと辺りは静まりかえったままだった。
崩れ落ちた男に駆け寄ったのは恋姫。冥土のみやげに自分の歌を聴きに来たのだと言った、遠い故郷の匂いのするの人。床に転がったまま浅い息を吐くその人は驚くほどに熱い体をしていた。
死が間近まで迫っている。長くはない命。男が言葉にした通り、死が男の耳元までやって来て何か囁いているようだった。
「マスターすいません、この人を連れて帰ります」
しゃらしゃらと音を立てて恋姫は言った。熱い男の顔を拭いながら。
死が、もうそこまで。そんな考えがふと脳裏を掠めた。その瞬間ひやりと胸の裏側を何かに撫でられたような感触に恋姫は少し身震いをする。
男の顔はもう笑ってはおらず、そうして不意に恋姫は思った。ほんの少し前に思ったことと正反対のことを。
砂漠の匂いのする男に、恋をするかもしれないと。初めて出会ったのにどうしてか懐かしいこの男に。故郷と同じ匂いがする、それだけではない懐かしさ。灰色の瞳はひどく優しくて、見つめられた瞬間泣きそうになった。懐かしく優しく温かい。
名も知らぬ、男。死をその身に纏ったまま浅い息をつく男。
恋をするのかもしれない。この男の瞳がもう一度開いたならば、恋に落ちるかもしれない。もう誰にも心を許したりはしないと決めたのに。
あぁ、と恋姫は深く瞳を閉じた。恋などしてはならないと分かっているのに。閉じた瞳をもう一度開いて、恋姫はカウンターの中にいるマスターを見つめた。
にわかに店内がざわざわと騒ぎ出す。突然倒れた男とそれを引き取ろうとする恋姫の行動に。ざわざわと、空気が揺らめいていた。
「恋姫、つれて帰ってどうする気だい」
そうして誰かがそう問うた。恋姫は医者ではないから。恋姫に出来るのは、歌うことだけ。皆がそれを知っていた。
「同居人に見せます」
明確な発音で、恋姫は言う。黒い髪に黒い瞳。強い意志の宿った瞳で恋姫は、そういった。
「同居人って…」
「私の同居人はセント・リアナ号船医、ドクター紅。彼女なら、この人を助けられるかも知れない」
恋姫がそう言った後を引き継いでマスターは低い通りの良い声で皆に告げた。
「残念だが今日はこれで店仕舞いだ。お詫びに今日の酒代は俺が持つ。また寄ってやってくれや」
銜えたタバコを揉み消して男は恋姫と倒れた男に近づいた。
「俺が運ぼう」
誰もが恋する恋姫に、けれども恋をしなかった店のマスターはそう呟いた。彼の心は恋姫に会うずっと前からただ一人だけに縛られている。今も昔もこれからも。だから恋姫は、ここで歌を歌うのだ。
「マスター」
そう呟いた恋姫の横を一人また二人と男達が帰っていく。
恋姫恋姫、愛しい恋姫。また明日、あなたの声を聞かせて欲しい。
そう言って、男達は、帰っていく。
隻眼の男は恋姫の腕の中で未だ浅い息を繰り返していた。
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