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        * * *



「ときに火影様」
 今まで黙ってイルカの報告を横で聞いていたカカシがふと口を開いた。
「なんじゃ」
 火影もまた、イルカからカカシへと視線を移す。
「笹岡から、遺言を預かってますよ」
 何の気負いもなくカカシの口からこぼれ落ちた言葉。イルカが言いそびれていた言葉。報告の中にどう織り交ぜていいか分からなかったそれを、カカシはまるで世間話みたいにふと口にした。
「遺言じゃと?」
「聞いたのはオレじゃなくイルカですが、確かに」
 淡々としたカカシの声にイルカは小さく息を吐き出した。どうしてか言えなかった言葉。伝えなくてはならないと分かっていたのに、喉の奥に引っかかってしまっていた言葉。きっかけさえあれば言える。
 ゆるりと視線を動かした里長にイルカは背筋を伸ばした。
「遺言、と言うほどのものではないかもしれませんが、私が対峙した笹岡の者が息を引き取る直前に、木の葉に笹岡の技を残してほしい、とそう」
 それがどういう意味を持つのかイルカに真実分かる日は永遠に訪れはしない。けれど、それはそれでかまわなかった。
「……そうか」
 里長はどっしりとした机に両肘をつき、そうして感情の読み取りにくい瞳でイルカを見返している。そうして、それから視線を逸らした。
「後任の指導にあたれる忍びはお主らしかおらぬ。どちらかがその任に就く気があるのであれば叶えてやりたいとは思うがの」
 ふぅ、と溜息をはき出すと里長はゆったりとその身を腰掛けているイスに沈めた。
「さりとてお主らを暗部に戻す訳にもいかぬ。特にカカシは下忍の指導があるからの。今それを放り出してもらうわけにはいかんのじゃ。となると、イルカよ、お主にしか頼めぬということになるが…」
 言葉を曖昧に濁した里長にイルカが何かをいうよりも早く口を開いたのはカカシだった。
「今更何をおっしゃってるんですか。イルカを上忍や暗部になんて戻させやしませんよ」
 そうしてわずかに身を乗り出す。火影からイルカを隠すように動いたカカシに思わず苦い笑みが浮かんだ。また庇ってる。この間と同じように。
 しかも火影はイルカに害為す者などではあり得ず、そうして里長の命令をそうそう簡単に覆すわけにもいかない。それなのに、イルカを世界の何もかもから護るように立ちはだかるカカシ。
 嬉しいと思う反面極端だと思わずにはいられなくて、イルカは眼前のカカシの肩をつかんだ。
「イルカ…?」
 振り向いたカカシに小さく笑みを返してイルカは火影を見つめた。
「火影様、私は暗部に戻るつもりも上忍に戻るつもりもありません」
 カカシが悲しむから、辛い思いをするから。そのことは口にはしなかったけれど、イルカは確かにそう思った。もう、カカシの側から離れるわけにはいかない。
「けれど、笹岡の遺言は果たしたいと思っています。私が出来ることならば何でもしようと思いますが…。今まで通り教師を続けながら後任の指導にあたれるいい方法はないものでしょうか?」
 自分がひどく都合のいいことをいっていることぐらい分かっていた。あれもしたいこれもしたいけれどいうことを聞くのはイヤだと駄々をこねている子供みたいだ、と。
 けれど子供ではないから譲れない一線がある。教師の仕事を辞めたくないのだ。
 こうしてカカシと共に生きられることが分かった以上、なおさら。行動を起こせば同僚達にもいずれイルカの過去が知れてしまうだろうと思う。自らが上忍を退いた暗部だと知れたところで何も変わらないかもしれない。劇的に何か変わってしまうかも知れない。それはまだ構わなかった。
 けれど教職を休んで後任の指導に当たるのはどうしても避けたい。アカデミーの教師であることが今のイルカにとっては一番必要なことだと思うから。だから。
「…ふむ。そうじゃの…」
 呟いてから火影は煙管の先に火を点した。
「後任を育てることの出来る暗部を育成できれば、あるいは…」
 ふー、と長く煙を吐き出し火影はちらりとカカシを見た。その視線にカカシはがりがりと頭を掻く。
「分かりました、分かりましたよ。約束ですもんね。まもりゃーいいんでしょ」
 いきなりのカカシの言葉にイルカは思わず二人の間で視線を彷徨わせた。
「今回の戦で特務また一から編成し直しですよね。そん中の活きのよさそーな素直そうなの二、三人見繕っといてください。一年で何とかします。でもこれっきりですからね!」
 長い溜息と共にカカシは里長に向かって一気に言葉をはき出した。意味が分からない。カカシを見ても火影を見ても、双方は納得したような顔をしているがイルカだけが完全に蚊帳の外だ。
「何の話だ、カカシ」
 恨めしそうに火影を睨むカカシの腕を引いて、イルカはその顔をのぞき込んだ。
「あー、まぁ…色々」
 お茶を濁すカカシにイルカは尚も言い募ろうとした。けれど。その言葉を遮るように火影が、かか、と笑い声を上げた。
「ようやく元の鞘に収まったの。喧嘩もほどほどにせいよ」
 面白そうに笑いながら煙管をふかした老人をイルカは穴が開くほど凝視した。今、今なんて言った?元の鞘…?まるでイルカがかつてカカシと付き合っていたことを知っているかのような里長の言葉に動揺を隠せない。
 知られているかも知れないとは思っていたけれど。思っていたけれど、だ。でも、でも。
「カカシ、イルカ。そなたらには今日から3日間の完全休暇を言い渡す」
 混乱するイルカを余所に火影は言葉を続けた。
「カカシ、休暇明けそうそうに指導要綱の草案を提出せい。今月中には人選を決定するようご意見番に話を通しておく。追って沙汰を待て。以上」
 かつん、と音を立てて火影は煙管の灰を落とした。
「御意」
 深く頭を下げ任務を拝領するカカシに、イルカも慌てて頭を下げた。
「二人とも、辛い任務であっただろうが大儀であった。すまなかったな…」
 笠を深く被り直し表情を隠した老人にイルカはもう一度深く頭を下げる。気遣うような火影の言葉にさっきまでの疎外感も忘れてイルカは思わず感動していた。こんなにも里長が自分たちのことを気にかけてくれている、そのことに。
「そう思ってんだったらこんなめんどくさいこと頼まないでくださいよ、全く…。ホントにもうこれっきりですからね!」
 随分とぞんざいなカカシの口調にイルカは驚いて顔を上げた。そうして身を起こした瞬間にカカシに右腕を取られる。
「行くぞ、イルカ。じゃ火影様失礼します」
 ぐいぐいと手を引かれイルカは慌てて火影に頭を下げた。
「し、失礼します!」
 重たい扉が閉まる直前に見えた火影の顔はまるで吹き出すのを堪えるような顔だった。



        * * *



 質問を許さない気配を放ちながらぐいぐいと手を引くカカシを振り切ることも出来ないで、イルカは為すがままに後ろを付いて歩いていた。そうして辿り着いたのは。
 カカシの、家だった。
「まだこの家に住んでたのか…」
 イルカは驚いて思わず呟きを零してしまった。懐かしい家。
「上忍官舎にも部屋があるけどね。忍犬がいるからもっぱらこっちがメイン」
 カカシはイルカの腕を放さないまま、そのまま玄関の引き戸を開いた。古い平屋建ての家。一緒に中に入ればほんの僅かな違和感。あのころとは、趣を変えてしまっている。一瞬戸惑ったような気配を纏わせたイルカにカカシは小さくごめん、と言った。
「やっぱりあちこちガタがきててね。思い切って改修したんだ」
 無断でごめん、とカカシは謝る。その謝罪にイルカは小さく首を振った。
「いや、逆に驚いてる。お前ならいくらでも新しいところ買えるだろうに…。ありがとう、この家をずっと大切にしてくれて」
 頭を下げたイルカをそっと抱き寄せてカカシは玄関の扉を閉めた。ぴたりと塞がる空間。二人だけの空気。
 ここは元々イルカの生まれた家だった。暗部に入り、付き合いだしてまもなくの頃イルカの手からカカシへと譲られた家。
 イルカがまだ幼かった頃、両親と三人、この家で暮らしていた。けれど十二年前里を襲った厄災のせいでイルカは両親を亡くし、そうしてこの家には誰も住まなくなったのだ。
 まだ幼かったイルカは里の施設に収容され、そこからアカデミーへと通うことになった。両親と暮らした家は誰も管理するものもなく、やがては朽ちていく運命にあったのに。
 アカデミーに通っていた頃はまだ風抜きや掃除に訪れていたが、下忍、中忍、上忍と位を上り詰めていくに従ってイルカは里にいること自体が稀になった。
 帰ってくるのは任務と任務の間のほんのわずかな時間だけ。その時間は里から支給されたアパートで休息をとるために使われ、そうして家はますます荒れていった。
 その家をカカシが買い取ったのだ。屋根が半分崩れ落ち、畳もカビだらけ、廊下の板も反り返りところどころ陥没していたようなその家を。
 カカシが。
 イルカはもうここに戻るつもりはなかった。懐かしい思い出の家だったけれど、もうどうにもならないとも思っていたから。家は、家でなくなりつつあったから。何の気なしに任務帰りに両親と暮らした朽ちかけた家を持っていることを告げたら、何を思ったかそれを買い取ると言いだしたカカシ。
 そうして家はイルカからカカシへと委ねられ、甦った。屋根は吹き替えられ、畳は張り替えられ、床も水回りも全て人が住めるまでに回復した。
 庭のある家が欲しかったのだと笑ったカカシ。忍犬を放し飼いに出来る庭のある家。ここは郊外だからもってこいだ、と笑ったカカシ。なかば同棲のように暗部にいたあの頃ここで過ごしたことを思い出す。
 里にいる時間は本当にとても短くて。でもここで雑草だらけの庭を手入れしたり、忍犬を洗ったりして二人で過ごしていた。優しく柔らかな時間。イルカの思い出の場所。カカシとあんな別れ方をしてからは近づきもしなかった家。
 それを、こんな風に大事にしてくれていたなんて。嬉しくて、イルカはその事実だけで泣いてしまいそうだった。こんなにもまだ深く想われていたことに。
「ありがとう、カカシ」
 抱きしめられたカカシの胸の中は暖かく、イルカもその背にそっと腕を回したのだった。



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