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        * * *



 結局二人が宿を後にしたのはそれから二日後のことだった。その間にあった色々は取りあえずイルカの中では棚上げになっているが、帰ったらちゃんと話し合わないと体が持たない気がしてならない。
 軋む身体を騙しながら街道を抜け山道に分け入る。山間の道を抜けて普通に歩けば里まではあと三日の距離。
 けれど、分かれ道に立ったとき不意にカカシは里とは違う場所へ通ずる道を歩み始めた。この先に何があるか、イルカもいやというほど知っている。足を止めたイルカを振り返ってカカシは覗いている右目をふと細めた。
「寄っていかない?それとももう二度と行きたくない?」
 問い掛けにイルカはゆるく笑う。行きたいと思っていた。この道を通ると分かったときから何となく寄ろうと言おうと思っていた。見透かされてるな、と思いながらけれどそれはとても心地よい感覚だった。
 ほんの少し前のぎすぎすとした関係だった頃は、カカシに見透かされていることが苦痛でならなかったというのに。ちゃんと分かってもらえているのだと思うと、それはひどく安心出来た。
「行こう」
 ざくざくとカカシに歩み寄って肩を叩く。促すように追い越せば、カカシも肩を並べて歩き始めた。忘れたくても忘れられない道。
 この道の辿り着く先に、滅びた里がある。笹岡の、里。本当にひっそりと谷間に存在していた里だった。彼らはそこに小さな城を築いた。強大な力を持つその里が築いた城は、けれどその力と財力からするととても質素な城だったといえる。ただただ堅固なだけの何の飾り気もない城。
 あれは護るための城だった。同じ血を継ぐ者達をただ護るための、城。結局誰一人として守り通すことは出来なかったけれど。卓越した技を持つその里の人々は、けれどイルカの聞き及ぶ限りでは穏やかな気性の人が多かったという。
 彼らの血族は今はもう本当にどこにも残されてはいない。木の葉がその血を全て吸い上げてしまった。新緑の中をざくざくと歩く。辺りはあまりにも穏やかで、五年前のあの凄惨な風景を思い出させるものは何一つ無かった。そうしてどのくらい歩いただろう。中天に差し掛かっていた日がもうずり落ち始めていた。
「イルカ、見えたよ」
 物思いに耽っていたイルカの肩をカカシが叩いて留める。上り坂のてっぺんで眼下の風景を見下ろせば、緑に覆われた谷間にちらほらと瓦解した建物らしきものが見えていた。あの戦で、あの城も結局焼き払われてしまった。
「…………五年も、前なんだな」
 よくよく見なければ、ここにかつて城があったことなど誰も気が付かないだろう。生い茂る緑は、大規模な戦で焦土と化していたこの土地を、わずか五年で覆い隠してしまっていた。
 あそこには数多の笹岡一族と木の葉の忍びが眠っている。毒のせいで運び出せなかったあの死体たちは、誰にも邪魔されないまま静かな時を刻んでいた。
「そう、五年も前なんだよ。滅び去った過去だ」
 思い出すには生々しく、けれどもう覚えている者も数少ない過去だ。触れることも叶わぬ、巻き戻すことも出来ぬ、過去だ。彼らはもういない。そうして失われた時間は戻らない。
「もっと近くまで下りてみるか?」
 問いかけたカカシにイルカは小さく首を振った。あの土地は死者の土地だ。生きているものが入り込んでいいところではない。
「帰ろう」
 過去に思いを馳せるのはたやすく、笹岡に同情するのもたやすい。同じだけの木の葉の血が流れているとしても、彼らの一族が哀れなことに変わりはなかった。
 けれど。自分は木の葉の人間なのだ。決してそこから離れることはない。彼らを哀れんだとて、五年前に戻ればまた同じように彼らを滅ぼすだろうことは明らかだった。
 ただの感傷だ、と思う。自己満足のためだけの。けれどでも、ここに来てこうして笹岡の巨大な墓地を見下ろしてみて良かったと思った。ただの感傷を呼び覚ますだけの行為だったけれど、決別しなければならない過去をようやく置いて行けそうだった。
 すんなりと背筋を伸ばしイルカは広がる緑の谷間に小さく手を合わせる。自分たちを許してくれなくても構わない。ただ、けれど、彼らが安らかであるようにと、祈った。
 合わせた手を下ろし、目蓋を開いたイルカにカカシは、行こうか、と言う。頷いてゆっくりと踵を返す。

 もう二度と、後ろは振り返らなかった。



        * * *



 それから特に急ぐでもなく、淡々と帰り道を歩いた。時には休み、土産物をぶらぶら見ながら、早く帰らなくてはいけないと思いながらもどこか肩の荷が下りたような旅路だった。
 肩の荷が下りたというよりは肩の力が抜けたというか。また日常に戻るのかと思うと少しの不安が胸を過ぎるから、この非日常を少しでも延ばしたいのかも知れないとも思う。
 日常に戻ればカカシとの関係が元に戻ってしまうような気さえして。有り得ないと思いながらも、イルカはどこか不安を捨てきれないでいた。
「今日はここで休んでいこう。そうしたらもう明日は里だ」
 急げば今日のうちに里にほど近いところまで進めたけれどイルカはあえてカカシにそう提案した。どうにも野宿はごめんだったのと、もう少し二人きりでいたいという気持ちから軽く口にしたのだがカカシはひどく驚いているようだった。
「何?」
 歩を止めてまじまじと見つめるカカシに、イルカはどうにも居心地が悪くなってそう聞いた。
「いや、イルカ変わったねぇ…」
 それってオレの台詞だと思ってたよ。驚いたように見開いた目は、不意に細められる。柔らかな笑みを湛えてカカシはイルカの頬をそっと撫でた。
 確かにカカシのいう通り、これはイルカの台詞ではない。今までならカカシがここで泊まろうと言い、イルカがそれに反対する。それが普通だった。
「ちぇ、こんなコトなら五年前オマエの側から離れるんじゃなかったよ」
 憎まれても、疎まれてもいいからオマエを監禁しても側にいるんだった。ひどく物騒なことを呟くカカシは、半ば本気でそう思っているようだった。埋められない時間を嘆いても今更時を巻き戻すことなんて出来はしないのに。
「いいんだよ、オレ達はこれで。五年の空白がなかったら今頃は多分別れてるよ」
 肩をぽんと叩いてイルカはカカシを促した。必要な喪失だったのだと、思う。きっと、これは。あの頃のひどく欠けていたカカシと未熟な自分にはきっと必要な時間だったのだ。
「そうかな」
 そうだよ、とイルカは呟いた。空に広がる夕日はカカシの銀の髪を綺麗な朱色に染め上げている。イルカをじっと見つめたまま佇んだカカシは、ふと力を抜いて微笑んだ。
「温泉」
「え?」
「温泉のあるとこ泊まろ。イルカ温泉好きでしょ」
 にこりと右目を細めてカカシはイルカに手を差し出した。手を繋ごうという意味だろうか。こんな往来で?イルカはカカシににこりと微笑み返すと、差し出された手を叩き落とした。
「わ、ひどっ」
 叩き落とされた手を胸の前で握り締めて、カカシはよよと泣く真似をした。
「往来で手なんか繋ぎません。あと温泉に泊まるのはいいけどエッチはナシだからな」
 小声で言い放ったイルカに、カカシは今度こそ本気で嘆いた。
「わー、本気ですかー?イルカさーん」
 そんなのないよー。めそめそと言い募るカカシを放置してイルカは宿を取るために歩き始める。
「ちょっと待ってよ、イルカ」
 慌てて隣に並ぶ人影。五年前と変わっていないようで、けれど確実に変化しているものがある。
 あの頃はこんな風にカカシに甘えることが出来なかった。気を張って、せめてカカシと釣り合うようになりたいと願っていた。自分の限界を超えて無茶もした。
 結局それが元でカカシは暴走したといえなくもないとイルカは今になって思う。すとんと肩の力が抜けてみれば、別にカカシに見栄を張る必要などどこにもないことくらいちゃんと分かるのに。
「ねぇ、ホントに駄目なの?」
 猫背気味の背中をさらに丸めて、カカシはイルカを覗き込むように見ていた。
「駄目だ。今日したら明日帰れなくなるのは目に見えてるからな」
 近寄った顔をぺちりと叩いて、イルカはそこそこ大きめの宿の暖簾を潜る。宿の看板にはちゃんと温泉と書いてあった。ゆったりと湯に浸かって疲れを癒さなくては。
「いらっしゃいませ」
 出て来た店員に、二人、と告げたその後ろでちぇと舌打ちするカカシの声が耳に入った。やけに子供っぽいその言い方にイルカはカカシに分からないようにひっそりと笑ったのだった。



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