* * *
「よく、助かったよな」
夕飯の席でカカシがぽつりと言った。山中にある木の葉の里ではあまりお目にかかれない刺身などをもぐもぐと咀嚼していたイルカはその言葉に、ふと笑った。
「助かるさ。そりゃ」
「なんで?」
当たり前のように言ってのけたイルカの言葉に、カカシは憮然とした。心配じゃなかったんだろうか。
「だって、そりゃ笹岡の解毒剤が手に入ってたからな」
カカシの表情になどまるで頓着しないまま、イルカは楽しそうに食事を続けていた。
「わ、これウマー」
「え?なんで?どうやって?」
イルカの言葉に面食らったのはカカシである。何がどうなってイルカはそんなものを手に入れたんだろうか。驚くカカシにイルカは意味ありげに笑う。
「ま、いいじゃないかそんなこと。助かったんだから。それより蟹食わないのか?」
箸を延ばしてきたイルカの手を叩き落としてカカシは尚も言い募る。
「何よそれ。教えてくれたっていいでしょ?」
食い下がるカカシにイルカは笑うだけで、答えようとはしなかった。別に教えてもいいんだけど、とイルカは思う。何となく意地悪したい気分だっただけで別に隠すようなことではないのだ。
あの時、刀を振り下ろす直前笹岡が小さく呟いた。
『解毒剤がある』
雨の音がひどくて聞き取りにくかったけれど確かにそう言った。そうして笹岡は億劫そうに胸に手を当てたのだ。多分そこに、解毒剤が入っている。僅かに驚いたイルカに笹岡は続けた。
『その代わり、笹岡の技をどうか木の葉に残して欲しい』
真意は分からない。けれどイルカは頷いた。頷くより他に何も出来なかった。彼が何を求めそう言ったのかは全く分からなかったけれど、彼らがそう望むならそうするより他に木の葉が笹岡にしてやれることはないから。
だから。
教えろとわめくカカシをちらりと見て、イルカはふと思った。カカシなら、分かるだろうか。彼が最後に何故あんなことを望んだのか。
「なぁ、カカシ」
イルカの呼びかけに取りあえずカカシは口を噤んだ。
「何?」
「笹岡がさ、最後に言ったんだ。俺達の技を木の葉に残してくれって。何でだろう」
カカシは唐突な問いに面食らう。そして首を捻った。
「さてねぇ」
笹岡は一族の技を伝え残す木の葉の特務部隊を滅ぼすために毒を撒いたのに、何故最後の最後であんなことを言ったんだろう。考え込むイルカにカカシは想像でしかないけど、と言う。
「ま、奴さん達が何考えてんのかオレの知ったこっちゃ無いけど、多分このまま跡形もなく消え去るのは御免だったんだろうよ。奴らは生き残るつもりだったんだな」
木の葉を滅ぼし、そして生き残り笹岡を再興するつもりだったんだろうと、カカシは言う。途方もない夢だ。笹岡の一族が何人生き残っていたのかは知らないけれど、カカシの想像が間違っていないとすれば、何という途方もない、夢。どこか呆然としたイルカに頓着するでもなくカカシはまた言葉を紡ぐ。
「でなければ、ひょっとすると木の葉を許してくれたのかもしれない」
箸を弄びながらカカシはそう続けた。
「どういうことだ」
カカシの言葉にイルカは驚きを隠せない。
「どうって、よく分かんないけどね。笹岡の技を木の葉に残してくれっていう頼み事は言えば希望を託す行為でしょ。託された願いを叶えることで気持ちが軽くなるのはいったい誰だと思う?」
「それは…、俺たち木の葉の人間だ」
「そう。もっと言えば火影様だよ」
カカシは穏やかな顔をしてそんな風に言った。
「三代目…?」
「そう、三代目。国からの覆せない命令だったとはいえ火影様が笹岡を滅亡に追い込んだことに変わりはない」
穏やかな表情と静かな声。カカシの言うように火影は国元からの命令に従わないわけにはいかなかっただろう。けれど、笹岡を攻撃することに何の躊躇もなかったとは思えない。
「イルカは知らないだろうけど、十二年前里が九尾に襲われるまでは、笹岡と木の葉には交流があったんだ」
四代目を師に持つカカシはまだほんの幼い頃笹岡の子供達と共に修行をしたことがあった。定期的に木の葉へとやってくる子供、そうして木の葉から派遣される忍び達。
九尾が里を焼き尽くすまでは確かに木の葉と笹岡には交流があったのだ。そうしてあの惨事のあとも、笹岡は惜しみない救助の手を木の葉に与えてくれた。
けれど、残された人材を復興にしか充てる余裕のない木の葉は笹岡の子供達を受け入れることが出来なくなった。そうしてまた笹岡に自里の忍びを派遣することも。やがて笹岡と木の葉の間に交流はなくなり、幾年か経ったある日、木の葉の里へと極秘任務が舞い込んだ。
「三代目はつらかっただろうと思うよ。三代目は初めて笹岡で技を習った木の葉の忍びの一人だし、笹岡にも三代目の教え子が沢山いただろうからね」
けれど彼は感情を優先させられる一個の人間ではなく、忍びの頭領だった。優先された任務、そうして滅びた里。
「笹岡は最後の最後で木の葉を許したのかもしれないね。俺たちの都合のいいように解釈すれば、だけど」
ただ恨みだけを抱えたまま死ぬのがしんどかったのかもしれない。カカシの言うように完全に滅び去ってしまうのが恐ろしかったのかもしれない。
カカシの言葉はすべて憶測に過ぎず、だけれどもどこか真実を含んでいるような気もした。彼らは最後の最後で本当に滅び去ることが恐ろしかったのだろうか。それとも、木の葉の里に罪を償うチャンスを与えてくれたのだろうか。
どちらも違うような気がするし、どちらも正しいような気がする。考えてもイルカにはさっぱり分からなかった。彼が何を望んで木の葉に笹岡を託したのか。自分が勝者である以上、永遠に分からなくてもいいのかも知れないけれど。
「解毒剤って、ひょっとして笹岡から?」
物思いに浸っていたイルカにカカシがふと言った。
「あぁ」
短く頷いただけのイルカにカカシは別段何を言うでもなく、ただ、そうかとだけ言った。
「お前どうするの?」
さすがにまだ食欲が戻りきらないのか、食事半ばにもかかわらずカカシは箸を放り出してイルカに問う。
「何が?」
質問の意味を計りかねてイルカが問い返す。
「笹岡の遺言。暗部に戻るの?」
カカシの顔にちらりと不安がよぎるのを見てイルカは少し困ったように笑った。
「さてね。まだ分からないよ。ただ、暗部や上忍に戻るつもりもないから火影様にでも言って指導役みたいなセクションを作ってもらうかな」
カカシが安堵に表情をゆるめたような気がした。最後の最後でこの男の命を救ってくれた笹岡の遺言は、出来れば果たしたいと思う。けれどもう戦場に出ることはないだろうとも思った。
未来はまだ不透明でまだ分からないけれど。けれど、もう決めたから。側にいると、もう、決めたから。どのみちこの任務で、利き腕が使い物にならないことは証明された。だから、もう、カカシを不安にさせたりはしないと、思う。側にいると、誓う。
「何?」
ぼんやりとカカシを眺めていたら、そう聞かれた。
「別に」
別に、何でもない。カカシがそこにいて、幸せなだけだ。ただ、それだけ。納得いかないような顔をしてイルカを見つめるカカシに吹き出しそうになりながら、箸を持ち直す。
そうしてイルカは食事の続きを再開すべく、目の前に所狭しと並べられた料理に目を移したのだった。
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