* * *
それから数日。
カカシの受けた傷は大して深くはなかったものの、やはり一番厄介だったのがその刃に塗られていた毒だった。幸いだったのはイルカがカカシを野営地まで引きずっていったときすでに医療班が到着していたことだった。
カカシ自身が笹岡の毒に耐性を持っていたことと、医療班の迅速な対応によってカカシは程なくして意識を回復するまでに至っていた。最悪の場合、死んでいたかも知れない。けれどもカカシは別段後遺症も残らず、助かったのだ。
そして今。
目を覚まして見渡した景色に全く覚えが無くて、カカシは思わず声を上げた。
「あれ?」
辺りは静かでカカシは清潔な布団の上に寝かされている。畳の匂いが鼻孔をくすぐる。戦場にいたはずなのに何で畳の匂いがするんだろう。見上げた限りでは天井もあるようだし、どこかの建物の中にいるらしいことは分かる。分かるが、しかし。
どこだ、ここ。自分の記憶が混乱しているだけで、もう里についているんだろうか。疑問を解決すべくカカシが身を起こそうとしたその動作を遮るように、イルカの声がした。
「目が覚めたのか?」
声の方に首を向ければ、そこにはイルカがいた。深い紺色の浴衣を羽織って、髪さえも括ってはいなかった。静かな動作でカカシの枕元までやってくると、そのままそこに腰を下ろす。ずいぶんとくつろいでいるように見えた。そう、ずいぶんと気を緩めているように、見える。
「…イルカ?」
どこか不思議そうに自分の名を呼ぶカカシにイルカはふと笑みを漏らした。
「何だ?」
怖いくらいにイルカが穏やかでカカシは戸惑う。どうしてだか5年前よりもイルカが側にいるようで、カカシは夢でも見てるような気持ちがしていた。
「……ここ、どこだ?」
聞きたいのはそんなことじゃないのに、ついカカシはそんなことを聞いてしまった。本当に聞きたいのは、そんなことじゃないのに。カカシが言ったその言葉にイルカは呆れたように顔をしかめた。
「お前なぁ…」
溜息とともにそう吐き出してイルカはほんの少し怒ったような顔をした。
「お前が言ったんだぞ。絶対温泉に寄って帰るって。報告もまだだから里に帰ろうって言うのに絶対温泉寄るんだって駄々捏ねただろうが」
忘れたのか、とイルカはカカシを見下ろしながら告げる。そう言われてみれば、何となくそんなやり取りをした覚えがあるような気がした。けれどそんな願いがまさか叶えられると思っていなかったことも事実で、カカシは何となく困惑していた。
イルカの中で何か劇的な変化が起こっているような、そんな感覚。どことなく叱られた子供のような気分になってそろりと見上げれば、それでもイルカは柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「他の奴らは?」
見上げるのにはあまり慣れていなくて、カカシはどこか居心地が悪そうにもぞりと体を動かす。
「負傷者は里へ戻った。毒が退くのを待って残留している部隊もある。ちなみに呑気に温泉に宿泊してるのは俺たちだけだ」
冗談めかしたようにイルカはそう言って笑っていた。イルカが笑っている。その事が思った以上に胸を軋ませて、カカシは何も言えなくなってしまった。
昔のように屈託無く、昔以上に透明な笑みを湛えて、イルカがそこにいる。こんな風に笑いかけてくれる理由は分からないけれど、あんな風に嫌悪に満ちた目で見られるのはとても辛かったから嬉しいと思う。
そしてカカシは何も言えなくなってしまった。イルカが笑っているから、それだけでもう何もかも満たされているような気がして。それ以上何か言葉にすると全てが嘘になってしまうような気がして。不意に訪れた沈黙にイルカも何も言わないまま、ただ枕元に座していた。
明るい春の陽光が室内に溢れていた。さわさわと風が渡る以外には他に何の音もなく。カカシは床に伏したまま、ただぼんやりとイルカを見上げていた。イルカの視線は柔らかくカカシと絡んだまま、やがてふと口を開いた。
「カカシ、聞いてもいいか?」
カカシの視線はイルカの厚い唇の辺りを彷徨う。言葉を紡ぐイルカの唇。
「何?」
何もかもがひどく穏やかでカカシはその事が少し怖かった。これが夢でないと誰が証明してくれるだろう。
「お前がどうして俺の手を潰したのか、聞いてもいいか?」
その声に咎めるような響きはなく、カカシはまるで自分が赦されてるみたいだと思う。あの時、5年前のあの日イルカの腕を潰したことを赦されているみたいだと思う。穏やかな、イルカの声。
カカシはイルカから視線を外し、古い旅館の天井に目を向ける。部屋には春の風が吹き込んでいた。
「もう、間違うわけにはいかなかったんだ」
そう、もう間違えるわけには、いかなかった。自分はあまりにも多くのことを間違えてしまったから。溜息のように吐き出したカカシの言葉に、イルカは僅かに首をかしげた。
「何を?」
「オレはね、イルカ。いつもいつも大事なときに間違うんだ。オレには大切だと思った人が幾人かいたけれど、みんな死んでしまった。オレを庇って死んだやつもいたし、オレが止めてれば死ななくて済んだかも知れない人もいる。オレが間違うから、みんな死んでいくんだ。だからもう、間違うわけにはいかなかったんだ」
カカシはイルカと視線を合わせないまま言葉を続けた。
「お前を失うわけにはいかなかったんだ。お前だけは。疎まれても、憎まれても、お前に殺されてもイイから、それでもお前を失うわけにはいかなかった」
「カカシ…」
「あの時、5年前のあの日倒れてるお前を見つけたとき、もう死んでるのかと思ったんだ。オレはまた間違えたのだと、そう、思ったんだよ。生きていてくれてどうしようもなく嬉しかったけど、お前が戦場にいる限りオレはこの先ずっとお前を失うことを恐れて生きなくちゃならない。オレは間違わない自信がなかったんだ。だからお前が二度と戦場に戻れないようにしなくちゃならなかった」
だから、とカカシは言う。だから利き腕を使い物にならないよう、潰したのだと。囁くような声だった。小さく、吐息を漏らすような、頼りない声だった。それは後悔に苛まれているからなのか、そうでないのか。
「後悔はしてる。けどオレは百回あの時をやり直せたとしても百回同じことをするだろう。オレは愚かで弱い。どうしようもないバカだ。ごめんな、イルカ」
庭から差し込む春の光は眩しく辺りを浮き立たせている。暖かい、柔らかな、日。血生臭い戦場からはかけ離れたひどく穏やかな日常。イルカはカカシの話に柔らかく目を細めただけだった。
こちらに視線を合わせようとしないカカシに、そっと手を伸ばす。髪に触れ、撫でるように梳けばカカシは驚いて身を固くした。
この男はずっと自分を恐れていたのかも知れない。ふと、イルカはそんな風に思った憎しみを抱きカカシに嫌悪の目を向ける自分を、恐れていたのかも知れない、そう思う。自分たちはあまりにも遠回りをしていた。
5年もの長い間。
「オレはね、カカシ」
ぽつりとイルカは言った。
「お前のことを憎んでいた訳じゃなかったんだ」
イルカの言葉にカカシは僅かに視線をあげる。憎くて憎くて殺したいとさえ思っていたけれど、本当は憎んでなどいなかった。雨に打たれ笹岡と対峙していたあの時ようやく気が付いた。そう、ずっと憎んでなどいなかったのに。
「憎んでると思ってたけど、そうじゃなかった。ただ、オレはお前に憎まれてると思ってたんだ」
カカシの柔らかな髪を梳きながら、イルカはぽつりぽつりと囁きを落とす。
「腕を潰されたあの日、薄れていく意識の中でオレはお前に憎まれていたんだと思った。オレにはそれが耐えられないくらい酷いことだったんだ。お前を憎んでいないと悲しくて壊れてしまいそうなくらい」
とても、酷い出来事だった。だから。そう、だからオレは。
「ただ、悲しくて。お前に疎まれていたとそう思うと、悲しくて。お前を憎むことしか、多分思いつかなかったんだと思う」
ただ、悲しかったのだ。この身を苛む痛みよりもずっと心が痛くて。目覚めてからずっとカカシが姿を見せないことが、悲しみに拍車を掛けた。
あんなことをしたのにカカシが姿を見せるはずがないと分かっていながら、いつものようになんでもないような顔でひょいと現れることを願っていた。心のずっと奥底で。
「中忍への降格を願い出たのはオレ自身だった。この腕で戦える自信はなかったし、何よりお前に会うのが怖かったから。お前に会って疎ましいものを見るように見られたらどうしようと思ったら、上忍としてやっていくなんて無理だったんだ」
髪を梳いていた手をカカシがやんわりと掴む。その手を引き寄せて、カカシはイルカの指にゆっくりと口付けた。
「ごめん、イルカ。全部オレが悪い」
カカシの言葉にイルカは小さく首を振った。
「もういいよ。別に。ちゃんと分かったから」
柔らかく微笑みながらイルカは穏やかにそう告げる。カカシはイルカの手を放さないまま小さく問うた。
「オレを赦してくれるの?」
「赦すも何も、俺はずっとお前のことを恨んだりはしてないよ。してなかったんだ」
そう、お前を憎んだり恨んだりなんて、してなかったんだ。ただ、俺は、ずっと悲しかっただけで。悲しみを憎しみにすり替えなくては生きていられないくらい悲しかっただけで。
「気が付いたのはついこの間だけどな」
イルカはそう言って笑った。そうずっと長い間気が付かなかった。イルカはカカシが自分を憎んでいるのだと思っていたし、自分もカカシを憎んでいると思っていた。
そう思っていた。けれど、カカシが自分を庇って倒れたあの時、イルカには分かったのだ。自分がカカシを憎んではいなかったこと。そして恐らくカカシが自分を憎んではいないだろうことに。浅い息を吐きながら辛うじて命をこの世に留めているカカシを目の前にして、ようやくイルカは理解したのだ。
自分がまだ、カカシを好きだということを。長い間胸につかえていたものがやっと取れたような気がしていた。笑みを浮かべるイルカに、カカシは上半身を起こして身を寄せる。正座をしたその足に頭を乗せて、イルカの腹に顔をつけた。真新しい浴衣の匂いがして、カカシはゆるりと目を閉じる。
奇跡が起こったのかも知れない。そう思う。そうでなければ都合のいい夢を見ているのだ、きっと。目が覚めたらきっと辛くて泣いてしまうだろう。そしてまたイルカを苦しめるような、愚行を繰り返すのだ。
けれど、夢ならば。これが夢だというのならば、それはそれで構わないではないか。そんな風にも思う。夢でも良かった。別に夢でも、いい。
イルカがいて、側で笑ってくれていて、そして髪を撫でてくれるなら、それで。
「好きだよ、イルカ」
オレは愚かで、いつかお前を殺してしまうかも知れないけれど。それでも。
「うん」
イルカは小さく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。でもそれで、それでいいと思う。体が重くて、これはきっと毒がまだ抜けきっていないからだろうけれど、春の日差しが眠気を誘う。
イルカの身体は以前触れたときと同じように暖かくて泣きそうになった。あぁ、夢の中でも、眠くなったりするんだな。カカシは緩やかに拡散していく意識の中ぼんやりとそんな風に思う。
「晩飯には起こしてくれ」
イルカの身体に手を回したまま、カカシはそう言ってふつりと意識を手放した。すやすやと寝息を立て始めたカカシを見下ろしてイルカは笑う。
「意地汚い奴」
笑いながら、涙がこぼれた。こんな風に穏やかにまたカカシと話が出来ることが信じられなくて。カカシがこの腕の中にいることが、まだ信じられなくて。カカシの体温を抱きしめたまま、イルカはただ静かに涙を流していた。
春の日差しは相変わらずうららかに辺りを照らすばかりだった。
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