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 耳に馴染んだ、イルカの心を揺さぶる、その、響き。聴覚がその声を捉えたときイルカは誰かの腕の中にいた。イルカの視界を遮るように、敵との間に立ち塞がるようにカカシが、いた。
 抱き込まれた腕の中はこんな時でもひどく暖かくて、そんな些細なことがイルカをなんだか落ち着かなくさせる。
 何が起こっているのか理解できなかった。否、理解するのを拒んでいた。張り詰めていた神経がふつりと切れたような感触だけがそこにあって、イルカは不思議な気分で自分を抱きしめている人間の名を呼ぼうとした。けれどそれを遮るようにカカシが小さく呟く。
「もう一人は仕留めた。とどめを刺せ」
 低い囁きを残して、カカシはイルカの左手に、持っていた小刀を手渡す。そうしてそのままイルカから離れるとどさりとその場に崩れ落ちた。
 庇う物がなくなった視界に写ったのは、うずくまるもう一つの人影。色々なことが胸に去来したような気がした。けれどイルカは地を蹴っていた。
 何かを考えるよりも早くイルカの体が反応する。忍びとしての、殺人者としての本能が、反応する。使い物にならない左手の小刀を右手でもぎ取り、イルカはうずくまる笹岡最後の血族を蹴り上げた。仰向けに倒れた哀れな殺戮者は脇腹に酷い傷を負っていた。血を流すそこをもう一度蹴り付け、イルカは馬乗りになってその首をかき切ろうと小刀を振り上げる。
 その刹那。見下ろした敗北者は諦めたように不意に笑った。その笑みは冷えたイルカの心に何故か染みるように映る。躊躇したのではない。けれどイルカは振り上げた凶器を振り下ろさないまま笹岡を見下ろしていた。
「どうした、裏切り者」
 陰惨な笑みを貼り付けて笹岡が言う。裏切り者。そう、我々は裏切った。この一族を裏切った。彼らの同胞の全てを、死に追いやった。
 そしてまた彼らも裏切りには裏切りを持って返した。互いに互いを傷つけ合い、両者はもはや取り返しの付かないところまで来ている。分かたれた道はあまりにも遠く、かつての日々は永遠に戻らない。
「今お前を手当てすれば、恐らく助かる。生きる気が、あるか?」
 同情からの言葉だった。嫌悪される感情だと、分かっていた。けれどイルカは、嗤い嘲りながら死の間際まで呪詛の言葉を吐く目の前の男が、哀れでならなかった。
 この男が一番欲してない物だと分かっていたけれど、イルカはそう問わずにはいられなかった。イルカの下で浅く息を吐いていた男は顔を僅かに歪める。
「生き残ったとて、そのあとに残るのは同じような復讐の日々だとしてもか?」
 問いに答えたその言葉には微かに悲しみが滲む。哀れだ。
「他の道はないか?」
 復讐以外の道は。共存の道は。答えは分かっている。分かり切っている。裏切ったのは木の葉。彼らとの共存の道を捨てたのは他ならない己達。愚問だ。そう思うけれど。
 泥にまみれて横たわる男があまりにも哀れで、イルカは問い返さずにはいられなかった。
「ない」
 僅かのためらいも含まない明瞭な返答だった。男の瞳と同様にイルカのそれもまた悲しみに彩られている。何と哀れで悲しい。
「一族の運命を背負ったまま生きることなど、オレには重すぎる」
 溜息のように吐き出して、哀れな血族の末裔はイルカに呟いた。
「早くしないと後ろのやつが死ぬぞ」
 吐き出した声は雨にかき消されそうに弱い。空は笹岡の滅亡を嘆き悲しんでいるようだった。イルカはもはや何の言葉も持ち得なかった。
 イルカが笹岡に求めているものは勝者のエゴに過ぎない。彼を生かすことは、己の罪の軽減に他ならない。けれど哀れだ。彼も、彼の命を握りなお彼を生かそうとする自分も。何と愚かで、哀れだろう。
 生きることが全てではなく、ましてや削り取られていく彼の魂をここに繋ぎ止めるのは自分の役目ではない。
 けれど、けれど、けれど。刻一刻と流れ出す哀れな一族の末裔の命。そうして彼の後ろでもまた、一つの命が削り取られている。
 優先すべきは眼前にいる男ではない。失えないモノは。失ってはならないモノは。
 そう、失ってはならない。カカシだけは。不意に訪れた衝動に、イルカはようやく自分の心がどこにあるか気が付いた。目を閉じ、そして開く。迷いは去った。けれど、それでもなお、哀れで悲しかった。
 今ここに、このすぐ側に、カカシがいてくれたらいいのに。すぐ隣に立っていたらいいのに。背後に気配を感じるだけでカカシはイルカの隣にはいない。
 けれど、側にいたらお前は苦い笑みを浮かべるんだろうか。それとも怒るんだろうか。いつまでも甘いことばかり言うとオレを叱るんだろうか。
 頬を伝ったのは雨ばかりではなかった。その事に気が付いたのか、笹岡はイルカに視線を合わせる。イルカを見上げる瞳はひどく穏やかで、だからこそ、悲しいのだ。笑うように顔を歪めて、笹岡はひどく億劫そうにその腕を自らの胸に当てた。
 それが、最後。僅かに口を開き最後に囁いた笹岡の言葉にイルカは静かに頷くと、振り上げたままの右腕をようやく振り下ろす。









 かくして奈賀月城は雨の中に没し、笹岡最後の血脈もこの日をもって途絶え、永きに渡った木の葉と笹岡の戦いもこうして幕を下ろしたのだった。



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