* * *
陰鬱に夜は過ぎ去り、そして二人は死の沈黙に支配された奈賀月城城門の上にいた。深い霧に取り囲まれて、城はこれほど近くにいても霞んで見える。
あの霧は、すなわち毒の檻だ。奈賀月にあって笹岡は、5年前と同じく敗北を知るや毒を撒いた。ただ木の葉の特務部隊を道連れにするためだけに。一族の技を伝え知る、唯一の部隊をこの世から消し去るために。
彼らの生き残りが一体どれほどいるのか。そうしてこの毒の中、笹岡を含め一体どれほどの人間が生き残っているのか。溜息にも似た吐息を漏らしてイルカは眼下の庭を見下ろしていた。
「城内進入は不可能だ」
沈黙を破ったカカシの言葉に小さく頷く。そう、これでは城内に進入することはまず不可能だろう。進入を果たせば自分たちもまず生きては戻れまい。それに。
「たとえ城内を探索したとしても、この有様じゃあ生存は絶望的だ。下手をすると5年前よりも酷いんじゃないか?」
イルカの心を代弁するようにカカシがそう言った。確かにカカシの言うように生存は絶望的だ。こんな状況で生き残れるほどに今の暗部は強くない。
吹き荒れる風が城外に漏れだした毒を巻き上げている。吐きかけた溜息を止めてイルカはカカシに静かに問うた。
「何故あんなにも特務部隊は弱くなってるんだ?」
その言葉に僅かに顔を上げて、カカシは苦い笑みを浮かべる。
「簡単な話だろう。技を伝える人間が絶えたからだ」
カカシの言葉にイルカはようやく顔を上げた。
「5年前特務部隊は、オレ達を残して全て死に絶えた。オレは特務部隊から外れたし、お前は中忍になって里に引っ込んだ。新たに編成された特務部隊に笹岡の技を伝える者はどこにもいなかった。それだけの話だ」
「あぁ、そうか。そう、だな」
微かな相づちを返して、イルカは眼前に広がる惨状にもう一度視線を向けた。城は、毒の中に没している。
「カカシ」
隣で同じように城を眺めていたカカシにイルカは小さく声をかける。その声に特に返事も無く、ただカカシは先を促すようにイルカに視線を投げた。
「前庭だけでも、探索できないだろうか?」
イルカの言葉にカカシは別段驚いた様子もなく頷く。
「いいよ、お前ならそう言うと思ってた」
その顔は、笑っているようにさえ、見える。ある時はイルカをひどい力でねじ伏せるくせに、こうしてまた途方もなく甘受するのもカカシだった。
再会してからその傾向はますますひどくなってるように思える。そう、きっと本当にカカシはイルカのことなどお見通しなのだ。心の奥のずっと深いところまで見透かされている。
ざらりとした感情が胸を撫でた。この期に及んで自分の心を持て余している。こんな状況なのにカカシの優しい言葉を喜ぶ自分がいる。その事が果てしなく醜いことのように思えて、イルカは知らず溜息を漏らしていた。
「雨が来るな」
城門の上に佇んだままカカシはどこか遠くを見ながらぽつりと言う。雨が、来る。見上げた先の空は、抱えきれない水分に重く垂れ込めていた。
あぁ、雨が来る。イルカもまた、そう思った。そう、雨が来るのだ。それは何という幸運。雨が降れば、動きが、取れる。やがて辺りに静かに雨粒が落ち始めた。
これで少なくとも城外の毒は沈静化する。毒霧は静まり、城外だけでも生存者を捜すことが出来る。果たしてそこで生きている者に出会えるかどうか、それはイルカにも甚だ疑問ではあったけれど。もっとも懸念していた探索の危険は、取りあえず去った。
「行くか」
カカシにそう告げる。カカシは無言で頷いただけだった。そうして二人は音もなく城門の上から姿を消した。細く静かに降り出した春雨は徐々に勢いを増しつつある。
誰か、生きている者があるのだろうか。ふとイルカは思う。生きている者がいたとしても、それが味方とは、限らない。そんな風に、思ってしまう。そしてそれが、きっと間違っていないとも。
降り注ぐ天の恵みが二人をしとどに濡らしていた。降り立った城の前庭はひっそりと沈黙している。城は死んでいた。打ち捨てられて、もはや寄る辺もなく、ただ死に絶えていた。
荒廃した城の前庭にいたのは、かつて人であった肉塊だけだった。死体はすでに腐敗が始まっている者がほとんどで、生き死にを確認する段階ではもはや無い。
「絶望的だな」
何度と無く繰り返したその言葉をカカシが重ねる。そう、絶望的だ。タイミング良く戻った者は生き残り、城にいた者は死滅した。だから城内で生存者を見つけるのは、絶望的だ。
分かっていたことながら、イルカは心が重く塞ぐのを止める手立てを持たない。間に合わなかった。否、間に合うなんて状況は、有りはしなかったのだろうけれど。これで自分たちが派遣された意味は失われた。救う者がいないのでは意味がない。
「イルカ、帰ろう」
今や雨は痛いほどに降り注いでいた。叩き付けるような水音を聞きながらイルカは傍らのカカシが小さく告げた言葉に頷く。イルカの返答を待たないままカカシが踵を返そうとしたその時、二人は僅かな違和感に足を止めた。
何か、いる。ちりちりと皮膚を焼くような殺気が注がれていた。警戒しながらカカシがイルカの側へ寄る。
「笹岡だ」
カカシは独り言のようにそう呟いて、短刀を鞘から抜き放つ。やはり、生きていたか。じりじりと近づいてくる気配にイルカの背中に緊張が走る。装備がまずい。小さく舌打ちしながら、イルカは自分の迂闊さに歯がみした。
こうなることは予想できたのに。むしろ、こうなることを予想すべきだったのに。戦闘ではないと聞いていたから最低限の装備品しか身に帯びてはおらず、この雨では火薬の類はまったく期待出来ない。
術は、効かないだろう。木の葉と笹岡では、同里間の忍びと争うようなモノだ。手の内は知り尽くされている。印を結ぶ間に毒に犯された凶器がこの身を引き裂くだろう。
クナイだけか。イルカの持っている物で使えそうな武器はクナイだけだった。小刀を構えているところ見るとカカシの装備も十分とは言えそうにない。どうしたってこちらの分が悪い。
分が悪いが、相手は恐らく毒に犯されている。自らの撒いた、その毒に。城内に潜んでいたのなら間違いないはずだ。その事だけが救いといえば救いだろう。雨のせいでひどく悪い視界に目を凝らす。気配は。
「二人だな」
イルカの意を酌み取ったようにカカシは言った。二人。そう、二人だ。そしてそれが恐らく、笹岡最後の、二人。
「一人に一つなんだからまぁ状況は、悪くない」
冗談めいたカカシの言葉にイルカはほんの少し笑った。
「行くか」
「あぁ」
その言葉を皮切りに二人は地面を蹴った。状況はほとんどイルカに味方していない。地理の不確かな城。相手は庭に配された僅かな茂みの中に隠れ潜んでいる。自分は城壁を背に、身を隠す物など何もなく相手に姿を晒している。
地面を打つ雨音がやけに耳に付いた。敵の一人は、カカシがどこかへ連れ去ったようだった。イルカの目の前にある気配は一つ。対峙した敵との距離を見極めながら、イルカはそろりと左足のホルダーに手を伸ばした。
そう、この期に及んでイルカの利き腕はまだ左手で。あの時潰された、左手で。徐々に激しさを増す雨の中、イルカは祈るような気持ちで左手に神経を集中させた。
どうか、どうかこの一瞬だけでもいいから。どうかあの頃のように動きますように。ホルダーからクナイを引き抜いた瞬間、イルカの眉間めがけて手裏剣が飛んできた。飛来する鉄の塊をイルカの左手はちゃんと弾いた。頭で考えるよりも早く体は動いた。あの頃のように。その事にひとまず安堵する。
まだ戦える。まだ。
視覚と聴覚を乱す激しい雨に打たれながらイルカは祈る。まだもう少し、このまま。雨になると途端にいうことを聞かなくなる左手が、もう少しだけこのまま動きますように。
春だというのに吐き出す息はひどく白くて、イルカは間を置かず飛んできたクナイをもう一度左手で弾き返した。弾き返すと同時に敵に向かって手にしていたクナイを投げ付ける。
まだ動く。大丈夫、まだ動く。接近戦に持ち込まれたら明らかに不利だ。イルカは体術には自信がない。昔から不得手だったけれど、利き腕が使い物にならない今となっては、余計に。どうにか間合いを取ったまま仕留められないものか。
間合いを詰めようと一気にイルカに向かって駆け出した黒い影に、次々とクナイを放る。金属同士が触れ合う神経質な音が響いて敵の足は鈍くなった。
接近戦に持ち込まれたら。
耳障りな金属音を立てて、木の葉で使われるのと同じ形をした手裏剣が足下に転がる。
袂を分かった、かつての同士。けれど、今は。
けぶる視界に目を凝らしてイルカは息を吐いた。接近戦は不利だ。けれどこの視界では、接近戦に持ち込まなくては息の根を止めることは難しい。そんなことは分かっている。分かってはいるけれど。
この装備とこの腕で果たして勝てるのか。相手はもはや生きて還ることなど微塵も考えていないだろうに。そんな相手に、果たして勝つことが出来るのか。この、ままならない、利き腕で。
視界を塞ぐ雨を拭うことすら出来ない。張りつめた戦場の緊張感にイルカは腹の底が熱くなるのを感じた。この歪んだ高揚感。懐かしいとさえ、思う。
戦いの中で徐々に研ぎ澄まされていく神経にイルカは集中した。一気に片を付けることが出来るだろうか。手にした凶器を握り締めてイルカは地を蹴った。ぐんと縮まる距離。投げ付けられる手裏剣を弾いて、イルカはその首をかき切るためにぬかるむ大地を蹴り付ける。
だがイルカの左手は不意に本体を裏切った。じくりと耐えがたい痛みがその左腕を襲い、イルカは思わず立ち止まる。非道い鈍痛に息をすることすら困難で、辛うじて膝はつかずに済んだけれど。
まずい。そう思ったときは遅かった。頭では反応しているのに、左手は動かなかった。
飛来する鉄の塊。イルカの命の鎖を断ち切ろうと。裏切り者への制裁が、今まさにイルカの目前まで迫っていた。この距離では完全には避けきれないだろう。避けきれなければ、その刃に塗られた毒がイルカの命を蝕む。
間に合わない。動けと命じた左手はもはや完全に沈黙していた。祈りは虚しく砕け散りイルカは息を呑む。
その時。イルカが死を覚悟した、その時。
「イルカ!」
悲鳴のような叫び声がイルカの鼓膜を震わせる。それはひどく聞き慣れた、耳に馴染んだ音だった。
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