long




「出来うる限りの人間をこの中に収容する必要がある。入り口の月光石を除いてあとのものは全部片付けて」
 手を動かしながらイルカは勝呂を振り返りもしなかった。勝呂の視線は、イルカを追っている。物言いたげに。
 けれどイルカにとって大事なことは、一刻も早くこの天幕の中を整えることだった。月光石だけではまだ足りない。寝床を整えそして。何も言わず、振り返りもしないイルカをどう思ったのか、それでも勝呂はその命令に従って天幕の中を片付け始めた。
 あらかた片付いた天幕をぐるりと見回したところで、ばさりと天幕の入り口が開いた。僅かに驚いて見やればカカシが顔を覗かせている。
「どうした?」
 あからさまに訝しんだイルカに苦笑しながら、カカシは後ろにいた人物を天幕の中に押し込んだ。
「まだ動けそうだからこっちの方がいいと思って連れて来た。その代わりお前外を手伝ってくれないか。思った以上に雑用が多い」
 カカシの言葉に頷きながらイルカは口を開く。
「手順を説明したらそっちに合流する。先に行っててくれ」
 素っ気ない物言いにカカシは短く笑った。
「了解」
 身を翻したカカシを見送ってからイルカは改めて二人の方に向き直る。ここは早々に任せてカカシと合流したほうがいいだろう。砂時計の砂が落ちるように命は失われていくから。
 一つ息を吐き出してイルカが口を開こうとしたその矢先、まるで言葉を遮るかのようにあとから合流した男が固い声で問うた。
「オレ、あんたのこと見たことあるんだけど」
 その声にイルカは視線を合わせる。カカシの連れて来た男は、勝呂よりも年上のように見えたが、イルカよりは若い。背も高く体格もかなり恵まれているだが、毒をしこたま吸い込んだのかその顔色はあまり良くはなかった。
 そして、イルカに向けたその双眸に浮かんでいるのは。
「あんた、上忍か?」
 疑念。値踏みするようなその視線を鬱陶しく思いながら、イルカは溜め息を吐いた。
「上忍だよ」
「だがオレは、あんたを任務受付所で見たことがある」
「だから?」
「受付は中忍の仕事だ。あんたが上忍だというのなら辻褄が合わない」
 その言葉にイルカはあからさまに溜息を吐いた。このことか。カカシと火影が気にしていたのは、これだったのか。依然として上忍の中に巣くう不当な階級意識。無能なくせにプライドばかりが高いとは始末に負えない。
「だからどうしたと言うんだ。俺はここに上忍として派遣された。それ以外の事実に一体何の意味がある?」
 侮蔑を含んだイルカの視線に、男は皮肉げに顔を歪めた。
「大ありだ。何で一介の中忍ごときに、俺たちがアゴで使われなくちゃならないんだ」
 イルカは嗤い出しそうだった。戦場のことをすっかり忘れていた自分にも、この目の前のバカどもにも。勝呂の物言いたげな視線も、今これが言ったことと同じ意味を含んでいる。カカシが再三、気を付けろだの無防備だのと言っていたのはこれだったか。
 忘れていないようでも、確実に月日はイルカを変えていた。生温い平和な里が、イルカから戦場の慣習を忘れさせていた。
「言いたいことはそれだけか?」
 吐き捨てるようにイルカは言う。こうしているうちにも、この天幕の外では誰かが死んでいるかも知れないというのに。自分と同じ部隊の哀れな同胞の命が、永遠に連れ去られているかも知れないというのに。
 くだらない。あまりのくだらなさにイルカは皮肉げに嗤った。
「貴様、口の利き方には気を付けろよ」
 なおも言い募る男の言葉を半ば遮るようにイルカは続けた。
「いいか、もう一度言ってやる。オレは火影様から上忍としてここに派遣された。そうして事態は一刻の猶予もない状況だ。オレのいうことに黙って従うように」
 出来の悪い子供に噛んで含ませるような物の言い方に、男はあからさまに憤った。イルカを挟んで男と並ぶように立っていた勝呂も、このやり取りに口こそ出さないもののイルカの荒んだ物言いに明らかな不快感を覚えているようだった。
 呆れ果てる。本当に、何とくだらない。
「そんなに言うんだったらお前が上忍だって証拠を見せて貰おうか」
 男はバカにしたようにイルカを見下していた。そうして、勝呂も状況を静観することを決め込んだらしい。加勢する気こそ無いようだったが、明らかにイルカへの不信感を募らせている。
 何とくだらないことか。状況を理解しようとしない無能な人間のために、助かる命が失われるかもしれない。あの時のように誰一人として生きていないのならともかく、ここにはまだ救いの手が間に合う人間がこんなにも残っているというのに。ホルダーからクナイを抜いた男に、イルカは知らず溜息を漏らした。
 時間の無駄だ。これ以上時間を無駄にしないためにはこの男を黙らせ、そして。勝呂とかいうこの愚鈍な同胞を使うよりほかはないだろう。
 能力だけが低下して、こういうくだらない風習はいつまで経っても廃れない。馬鹿げている。
 通常よりも刃先の長いクナイがイルカ目がけて振り下ろされる。それをイルカは何でもないように避けた。クナイで弾き返すでもなくあからさまに回避するわけでもなく。
 勝呂にはイルカが避けたというよりも同僚がワザと外したというように、見えた。そんなはずがないのに。それほどに、何気なく。
 男は空振った自分の手が信じられないような顔をする。そうしてイルカは束の間呆然としたその横顔に拳をめり込ませた。歯の折れる鈍い音がして男はその場に昏倒した。
 馬鹿らしい、と思う。溜め息を吐いてイルカは無様に横たわる自分より階級の高い男を見下ろしていた。避けて、殴った。だたそれだけのこと。男は通常の状態よりも弱っていて、そうして明らかに弱かった。
 イルカはあの頃と同じくらいにはまだ強く男はそれよりも弱かった。ただ、それだけのことだ。遅く見えたのだ。カカシや自分がまだ暗部にいた頃の同胞達に比べて。
 意識を回復するまでには時間がかかるかも知れない。面倒くさそうにイルカは男を見下ろして、そして天幕の隅にその重たい体を易々と引きずっていった。
 勝呂は僅かに怯えたようにイルカを遠巻きに見ていた。非道い失望感を味わいながら、イルカは佇む哀れな同胞に重い口を開く。あまり言いたいことではないけれどこれ以上の面倒事は御免だった。
「5年前、笹岡との戦闘で生き残った人間の数を知っているか?」
 勝呂は身を竦ませて小さく二人、と呟いた。
「一人ははたけカカシ。もう一人は俺だ。俺がここに派遣されたのは笹岡の毒耐性を持っている者がカカシの他には俺しかいなかったからだよ。上忍は暫定措置に過ぎないがかつては俺も上忍だった。何か、問題が?」
 勝呂は小さく首を振った。深い深い溜め息を吐いて、イルカは勝呂に今後の指示を出す。カカシと自分がここに外の連中を運び込むまでには一人でも十分に準備は整うだろう。
「俺は外のカカシに合流する。手が空くようだったら彼の手当をしてやってほしい」
 説明を終えてイルカは勝呂にそう言い残すと、ようやく天幕の入り口を潜る。イルカが天幕を潜るとき見た勝呂の顔は、何か恐ろしい者を見るように歪められていた。



 所詮自分の性根は人殺しなのだ。あんな目で見られることは慣れている。忘れていただけで、慣れていたこと。僅かに目を伏せて天幕の入り口の布を潜ると、そこには。
 そこには、カカシがいた。ポケットに手を突っ込んだまま、どこか面白がる様子さえ滲ませて。
「お前…!」
 眦を吊り上げて、イルカはカカシの胸倉を掴みあげた。
「何そんなに怒ってんのさ」
 イルカの行動になどまるで頓着しないまま、カカシはいつものようにのんびりとそう言う。その事が一層イルカを苛立たせると知っていて。
 どうして。どうしてこの男は自分が一番居て欲しくないところに現れるのだろう。
 どうして。どうしたっていつもと変わりようのないその表情が、イルカの怒りを煽っている。どうして、どうして。頭に血が上っていた。それとは気が付かぬ間に。
 けれど突然、巻きすぎたネジのようにイルカの怒りはふつりと切れた。カカシを掴んでいた手の力を緩め、放す。
「面白がってないで止めにくらい入れ」
 カカシはおやという顔をした。そうしてイルカに問う。
「どっちを?」
 イヤな奴。息を吐き出して、イルカは吐き捨てるように言った。
「俺をだよ」
 今更ながらにたかがあんなことで同胞を殴り付けたことが、心に苦い。頭に血が上っている。カカシのせいで。
 あんな些細な、そう、あれは些細な出来事だったのに、たかだかあんなことくらいで仲間を昏倒させるほど強く殴り付けてしまった。
 溜息が知らす零れる。怒りはイルカの思考を酷く濁らせる。濁った思考はイルカの行動を凶暴化させた。醜い自分。そんなものは見たくない。出来るならば。
 分かってはいるけれど。自分がそんなに綺麗な存在ではないと分かってはいるけれど。カカシに怒ったとて仕方のないことなのだ。怒りに任せて仲間を殴り付けたのは自分。カカシのことが原因であろうと無かろうとそれが事実。それだけが事実。
「いざとなったらさ、止めに入ろうと思ってたんだけど」
 結界強化のために歩き出したイルカに並びながら、カカシはぽつりと漏らす。
「イルカ、あの頃と同じくらい強いからさ」
 それは別段普段のカカシと変わりない声だったけれど、何故かイルカの胸を打った。
 カカシは、自分がかつて上忍だった頃と同じように振る舞えることに、ひどく落胆しているように思える。再会してからずっとその事に拘っている。腕を潰したこともきっと関係しているだろうけれど、どうしてそんなに拘るのだろうと思う。
「お前はオレをどうしたいんだ?」
 ただ、不思議だった。イルカが上忍であること、忍びであることが、どうしてそんなにも気に触るのだろう。どうしてイルカのことを、そんなにも気に掛けるのだろう。イルカの問いに、カカシは何も言わなかった。
 言わないのか、言えないのか。カカシの答えはイルカには見えない。この任務から帰ったら、カカシと話をしよう。もうこれ以上、カカシに振り回されないために。カカシのことを本当に吹っ切るために。自分が中忍として生きていくために。
 ざくざくと大地を踏みしめて、イルカとカカシは歩いた。そう広くない野営地の中、せめてもう少しなりともましな結界を張り直すために。そうして、負傷者に気休め程度の治療を施すために。
 明日早く、日の昇りきらぬうちに、城内探索に乗り出さなくてはならないから。それまでには、ここの機能をもう少しましなものにしなくてはならない。医療班がここに到着するまでは、もう誰も死なせてはならないから。せめてそのくらいのことはしておかなくてはと思う。
 時間は足りない位なのにイルカはひどく疲れていた。全てを終わらせて早く日常に埋没してしまいたかった。カカシのことに、こんなにも煩わされていたくはなかった。霧に沈む野営地の中、イルカの心もまた同じように出口が見えない。
 この霧は、いつ晴れるのだろう。黙したまま隣を歩く男にかつてほど憎しみが湧かないことを、他人事のように思いながらイルカは思考を閉ざしていった。

 全ては任務が終わってから。そう言い聞かせながら。



←back | next→