* * *
かつて、まだ忍び達がおおよそ今ほどの力を有す以前。国々はまだ隠れ里を持つには至らず、今よりも数多くの小国が並び立っていた、その頃。人里から離れた霧深い谷間に薬師の一族が存在していた。
一族の者だけが住まうその集落は、延べにしても数十人にしか至らない小さな集落であったが、彼らの能力の高さは近隣の村々町々に知れ渡るほどであったという。彼らの元に通うのは多くは病人を抱えた人々であった。
だがその中には稀に忍びも含まれていた。彼らがそこに通う目的、それは彼の一族の調合する様々な毒物にあった。毒と薬は表裏一体、切っても切れぬもの。彼らの作る薬の効果に比例して、彼らの毒薬もまた非常に強力なものであったのだ。
無味無臭、少量で即座に死に至る薬から、じわじわと誰にも気が付かれることなく少しずつ衰えやがて死に絶える毒薬まで、彼らの作る毒の様々はやがて忍び達にとってはなくてはならないものになってゆく。薬師達の仕事は徐々に本来の仕事よりも物騒な仕事の割合が高くなり、やがて。
やがて彼らは薬師であることをやめた。
彼らはより精密で効果の高い、目的を果たすためだけの様々な毒薬を精製することにのみ没頭していったのだ。そしてある時、彼ら一族の元に一人の青年が訪れる。青年は、忍びだった。
彼は言う。自らの忍びとしての技と知識を引き替えに、彼らの持つ毒の知識を教えて欲しいと。そうして彼らはその取引に応じた。彼らの技術はもうこれ以上望めないほどの高みにまで達し、そう、行き詰まっていた。新たな技術を開発するためには、新たなる知識を取り入れなければならない。青年の申し出は彼らにとっても悪い話ではなかったのだ。
そうして彼らが長い間培ってきた知識は一人の年若い忍びに伝えられ、彼の持っていた膨大な技術は彼ら一族に新たな技をもたらした。青年は去り一族はますます栄える。
もはや彼らは忍びの一族だった。どこにも属さず、脈々と受け継がれてきた血と技で様々な国が彼らに依頼する。莫大な報酬は彼らをますます大きくしていった。
一方彼らから別れた青年も国元へ戻っていた。彼は年齢を凌駕するほどの凄まじい知識と技で並み居る同輩を蹴落とし、そして国元の忍び達の頂点に立った。
ある日彼は国元の大名に呼ばれる。この国にも、忍びの隠れ里を作ろうと思う。大名は彼にそう告げた。お主が頭領となり、隠れ里を興せ。そうして彼は隠れ里の長となった。
長となった彼は自里の忍びの能力を上げるため、かつて自分が教えを請うた彼の一族の元へまだ年若い忍びを送る。彼が一族を訪れた頃と同じ年齢の忍び達を。一族は彼らを迎え、そして教えを施した。そして彼らからも新たな技を学び取る。そうして彼と一族との間では友好な関係が築かれていたのだ。
そう、しばらくの間は。
やがて里は次々と新たな忍びを取り込み徐々に強大になっていった。彼の一族よりもずっと、強大に。
やがてある時、里に依頼が舞い込む。国元からの依頼だった。里に舞い込んだ依頼は、彼の一族を根絶やしにすること。一族は強くなりすぎていた。どこにも属さないということは、どこからの庇護も受けられないということだ。幾ら強力でもたったひとつの一族にすぎない彼らは、しかしひとつの一族にしては強くなりすぎていた。
大名達は彼らの存在を疎んじ、そして畏れた。依頼の内容は彼の一族の殲滅。里はその依頼を、受けた。
袂は分かたれたのだ。そう、その時に。
滅びの運命を辿ることになったその一族の名を、笹岡という。そうして彼らの元を訪れ、彼らから去り、彼らをやがて裏切る宿命を背負ったその人物は後の世に初代火影と呼ばれた人物である。
殲滅の依頼が舞い込んだのは、彼が死んでからもうすでに百年という月日が経った頃。彼から数えて三代目の火影が里を治める、その時代だった。
裏切り、と言うだろう。そう、それは裏切りに他ならない。彼と、彼の一族は仲間だった。ともに学び高め合う良好な関係の、仲間だった。かつては。しかし時代は彼が彼の一族のもとを訪れて遙か久しく、彼自身ももうこの世には見いだせない。彼の築いた里は彼の一族を裏切った。
木の葉の隠れ里は、笹岡を、裏切った。
それがたとえ国元からの依頼であろうとそうでなかろうと彼らが笹岡を裏切った事実は揺るぎようがなく、また里長の三代目火影もそれを後悔はしなかった。冷徹にただ任務遂行の指令を、出した。それが今から5年前。
すでに笹岡から直接指南を受けた者もほとんど生き残ってはおらず、ただその類い希なる技のみが里の暗部特務部隊に受け継がれているばかりだった。
笹岡を滅ぼすために遣わされたのは、その技を受け継いだ特務部隊だった。笹岡の技を持って笹岡を滅ぼす。木の葉が笹岡を超えた証拠を笹岡に突きつけること。それが火影の下した判断だった。
そして木の葉は勝利した。霧深き谷間に築かれた難攻不落の堅固な城塞を打ち破り、笹岡最後の当主の首を切り落とす。
だがそれは悲劇の幕開けに、過ぎなかった。城内に残った笹岡の一族は当主が戻らぬと分かるや、木の葉の特務部隊を道連れにするために毒を撒いた。
毒を。
ありったけの毒を。城内のどこにも逃げ場がないほどに大量の毒を、撒き散らした。笹岡は道連れにしたのだ。彼らを。彼らの一族の技を持った裏切り者達をせめての報いに、自らの餞のために。
集結していた特務部隊の誰一人も生きては返さぬよう、脈々と受け継がれたその膨大な知識を駆使して毒を、撒いた。彼らの目論見は、成功したのか、そうでないのか。特務部隊は沈黙した。ただ朽ち果てる笹岡の城とともに。動く者はなく、もはや人でもなく。死して、黙した。
ただ二人を除いては。そう、生きて戻る者の無いはずの戦場から木の葉の戦士は帰還した。たった二人、ただ二人。木の葉の人間は、そう思っていた。ただ二人でも生きて還る者があった。
だから、この戦は木の葉の勝利だと、誰もが、思った。しかしどうして笹岡に生きて残る者がいなかったと、言えるだろう。木の葉に生き残りがいたように笹岡にも生き残る者がいたとて、それはおかしいことではない。
そう、笹岡にも、生き残る者が、居たとしたら。彼らが抱く感情は一体なんだろう。彼らは木の葉を、裏切り者と、呼ぶだろう。裏切り者に復讐を、誓うかもしれない。それが果てしなく望みの薄い復讐だったとしても、誓わずにはいられないかも知れない。それは、木の葉の人間の考えるところではない。
けれど。今、復讐の刃は木の葉に向けられ。木の葉の特務部隊はあの時と、5年前と同じように毒の中に没していた。まるであの時の惨劇を写し取ったように。
「おそらく笹岡の狙いは、木の葉暗部特務部隊の壊滅にある」
静かなカカシの声に勝呂はごくりと唾を飲み込む。長い物語だった。初代火影がそれとは知らず撒いた種は思いも寄らない結果を生んだ。誰が想像したであろうか。一族の再興も願わずに、ただ殺すためだけに生き残りそして死んでいくなどと。
笹岡最後の血族の壮絶な生き方を、一体誰が、予測し得ただろう。落とした視線をあげることも出来ないまま項垂れる勝呂に、カカシは知られないよう小さく溜め息を吐いた。
イルカが聞くのも無理はない、と思う。暗部の、というよりは特務部隊の弱体化は殊更激しい。弱体化という言葉が正しいのかどうかは判断が付きかねるけれど、だがしかし。あまりにも無知だ。
彼らには知らぬことが多すぎてカカシの心を重くする。この野営地の外で生きている者が果たしてあるだろうか。僅かな沈黙が天幕の中を満たしていた。
勝呂は、この年若い忍びは起こっている事態の根の深さに怯えているのだろうか。天幕の外からじゃりと土を踏む音が聞こえた。その音にカカシも勝呂も顔を上げる。そして、天幕の入り口を再び潜ったのはイルカだった。
「カカシ、火を」
その言葉に心得たようにカカシは小さな空き缶に火をおこした。そうしてちょうど天幕の入り口のすぐ前に火を置く。イルカはその中に、手に持っていた石を無造作に投げ込んだ。燃料を投げ入れたときのように火は一度高く燃え上がり、そして小さくなる。イルカとカカシの行動を、勝呂はただ呆然と見つめるだけだった。
「いったい、何をしておられるのか」
勝呂のセリフに顔を上げたのはイルカだった。
「ちょっと待って下さい」
それだけ言って、また視線を元に戻す。イルカの足下で燃えていた火は今や消える寸前まで小さくなっている。そうして、イルカは無造作に口元を覆っていた布を引き下げると、最後の残り火を一気に吹き消した。
頼りなく揺れていた炎はそのまま消え去り、そして、細長い煙が天幕の中に拡散していく。カカシも黙ってそれを見ていた。揺れる煙からようやく視線を逸らして、イルカは勝呂の方に向き直った。
「今燃やしたのは月光石です。結界の四隅で無造作に燃やしてあったので取りあえず火は吹き消しておきましたが、これは本来密閉空間で使うもの。そして浄化作用があるのは燃やしたあとに立ち上る煙です」
徐々に天幕を満たしていく煙を見ながら、イルカもまた知らず溜め息を吐く。こんな初歩のことも知らないのか、と。特務部隊とは名ばかりとなってしまったのか。気分は鬱々と暗くなる。
戦況は悪くなかった。これほどまでに生き残った者がいるのだから。だがしかし、悪くないだけで良くもない。助かったかも知れない者が、死んでいる。この状況から見ても多分間違いなく。
結界内で死に絶えている者達は多分助かっただろうはずの命。結界ひとつ満足に作れないなんて、どうなっているのか。考えてもイルカには分かるはずもなく、今はただ一人でも多くの命を里に帰すことに専念するのみだ。そう、一人でも多くの同胞を救うには少しでも早くしなくてはならない。
軽く頭を振ってイルカはカカシに近づく。素顔を晒したイルカを勝呂が怪訝そうな顔で見ていることに気が付きもしないまま。
「カカシ、急がないと拙い。時間が経ちすぎてる」
側に寄ってひそりと囁きを落としたイルカにカカシは苦笑する。拙いのは分かるが。確かに状況は刻一刻と悪くなるが。しかし。
「お前ちょっと無防備すぎるよ、イルカ」
イルカの肩に手を置いて、カカシは苦く笑ったまま囁き返す。面倒なことにならないといいが。
「何のことだ?」
肩に置かれた手を払い落として、イルカは眉を顰めた。急ぐといっているのに何を言い出すのか。カカシの口から零れた言葉が明らかに任務以外の何かを示しているのに気が付いて、イルカは苛ついてそう問うた。
「分からないならいいけど。ま、分からないままに越したことはないし」
独り言のように呟いたカカシに、イルカの眉間の皺が深くなる。
「お前何が言いたいんだ?」
怒気を孕んだイルカの声にカカシはひょいと肩を竦めただけで、それ以上そのことについて何も言わなかった。
「オレは何を?」
ただ、そんな風に不意にイルカを現実に引き戻す。カカシの言葉に怒りを解いてイルカは息を吸い込んだ。天幕を満たす月光石の僅かな匂いがイルカの肺をほんの少し清浄にしたように思えた。まだもう少し天幕内の浄化をするには足りないか。
「外を頼む。症状の重い者から運び込む用意を調えておいてくれ。中は俺がやる」
「あいつは?」
ちらりと視線を勝呂に這わせてカカシが再び問う。しばしの思案の後、イルカは言った。
「こちらに残す。笹岡の毒に耐性があるとは思えない」
イルカの言葉を侮辱と取ったのか、二人を見る勝呂の視線は険しかった。だがそんなものは別段二人にとって何ら影響するわけでもない。
ただカカシはその視線の中にあるイルカにだけ向けられた疑念が、ほんの少し気になっただけで。ここでイルカに諭すわけにもいかないか。鈍くて真面目で融通が利かないのは昔から。
「了解」
溜息混じりにそう言ってカカシは天幕を潜って行った。その背中を見送りながら、イルカの中にまた訳の分からぬ苛立ちが湧き起こる。訳が分からないのは、苛立ちの理由ではない。そう、カカシの言葉達。意味深に肝心なことは語らないカカシの言葉。昔から、そういうところは変わらない。自分だけが納得している。
すでにぴたりと閉じられた天幕の入り口をいつまでも睨んでいても仕方がないだけだ。この任務が終わったら一度カカシとじっくり話をつけるべきかも知れない、そう思う。
カカシのことについていえば本当にどうかしていると思うけれど。どうかしているといって差し支えがないほどに自分の中で決着が付かないから。だから。任務が明けたらもう一度だけ話をしてみる必要があるかも知れない。
またあの時のように、あのいつかの朝のように訳の分からない感情に押しつぶされるかも知れないけれど。胸にわだかまった思いを吹っ切るように軽く頭を振って、イルカは振り向いた。
振り向いた先に佇むのは無知で愚かで哀れな同胞。眉を顰めて不審そうに自分を見つめる勝呂の視線の意味に、イルカはまだ気が付かないでいた。 勝呂は口を閉ざしたままイルカにじっと視線を注いでいる。イルカはそれを別段気にする様子もなく、ただ淡々と勝呂に指示を出しただけだった。
←back |
next→