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   * * *



 それから3日。カカシはあれ以来イルカを寄り道に誘うことはなく目的地はもう目前まで迫っていた。目的地である奈賀月の城は、今や深い霧に閉ざされていた。
 否、これは。これはただの霧などではなく。
「凄い瘴気」
 この先に生ける者が本当に存在するのか疑わしくなるような光景だった。
「5年前と全然変わらない光景だな」
 誰に言うでもなくカカシがぽつりと呟いた。そう、変わらない。まるで5年前を忠実に再現しているような、あの時の絶望をまざまざと思い出させるような、そんな光景。イルカはおろかカカシでさえ、目の前に広がる瘴気の渦に5年前の陰惨な戦場を思い出さずにはいられなかった。
 あの時生還したのはたった二人。カカシと、イルカだけだった。投入された3つの部隊の内2つは全滅。カカシとイルカの部隊も、二人を除いては再び生きて木の葉の地を踏んだ者はいない。そして、五体満足で生還したのはカカシただ一人だった。深い溜め息を吐き、イルカもカカシのように顔を口布で覆う。
 二度と戻ることのないと思っていた戦場。懐かしいとさえ、思う。張りつめて切れそうな緊張感が体の中を走る。もうずいぶんと忘れていた感触だった。
 まだ、生きている。自分はまだ。まだ忍びとしての、上忍としての自分はこの身の中に巣くっている。静かに目線だけで合図を送ったカカシに小さく頷いて、イルカは地面を蹴った。前線基地はこのすぐ先に置かれているはずだ。もしも生存者がいるとすればおそらくそこにいるはずで、しかし自分たちが救うのはその者達ではない。彼らを救うための医療班ももう里を立っている。明日にはおそらく後続の者達がここに辿り着き、前線基地にいる者達を里へ連れ帰るだろう。
 そう、自分たちが救うのは、そこにいる彼らではないのだ。自分たちが行かなくてはならないのはあの、瘴気の渦の中心、奈賀月城。そこに取り残されている者達の所だった。
 身体を満たす不思議な高揚感にイルカは昏い笑みを漏らす。所詮は自分も忍びなのだ。幾ら生温い生活に身を浸していても、嗅ぎ取る戦いの匂いにこんなにも血が騒ぐ。人殺しの血は全然薄まっていない、と。隣を走る男を盗み見てこれもまたただの獣に過ぎないとぼんやりと思った。





   * * *





 奈賀月城正門からほど近いところに設営された野営地にカカシとイルカは歩を進める。張り巡らされた結界は微弱で、城に近づくにつれ濃くなっていく瘴気を塞ぎきることも出来ず、ただ倦み疲れた暗部の生き残りが力無く座しているのが見えるだけだった。
 そこには勝利が訪れた人々の持つ喜びや希みはどこにも存在してはいない。ごろごろとボロ布のように地面に横たわる人々は、それでもまだ息をしていた。傷を負い毒に冒され、削り取られる命に怯えながらそれでも尚多くの忍び達がそこで生きていた。
「思ったほど戦況は悪くないな」
 横たわる人間を見下ろしたままイルカは呟く。カカシは無言で頷き、一番身近で呻き声を上げる年若い男に声を掛けた。
「おい、ここの責任者かもしくはまともに話の出来る奴はどこにいる?」
 蒼白な顔で小さく呻いたあと、男は震える手で奥の一番大きな天幕を指す。それだけで、精一杯だった。何度か咳き込んでまた身体を丸めると、男は再び浅く覚束ない眠りの中に意識を手放したように見えた。
 イルカは深く溜め息を吐く。戦況は悪くないが一体どうなっているのか。治療らしき治療も施されていない。ここにいる者は皆、ある程度毒の知識と耐性を持っているとばかり思っていたが。黙り込んだまま考え込んだイルカをカカシがそっと促した。
「考えるのはまだ先だ、イルカ。戦場で何が起こったのか、それを把握するまでは何も考えるな」
 カカシの声にイルカはふつりと思考を閉ざす。確かにカカシの言う通り、ここであれこれ考えを巡らせても仕方のないことだ。戦況は悪くないのだから。そう、まだこんなにも生き残っている。
 人の気配がこんなにもあるだけ、ましなのだから。呻き蹲り浅い息を吐く哀れな同胞達の中を通り過ぎながら、淡々とそんな風に思う。地獄のような光景だけれど、まだこんなものじゃない。あの中心にはきっともっと陰惨で目を覆うような光景が待っている。
 ざわりと背中を駆け上がったのは、一体どんな感情だったのか。歓喜とも戦慄ともつかないその感情は、一体。辿り着いた天幕の入り口をサリと潜り抜けて、イルカは知らず溜め息を吐いた。ここはあまりにも5年前のあの場所に似ていて、自分を落ち着かなくさせる。あの、笹岡一族の住まった城と。あまりにも、似ていて。
「援軍要請により派遣された者だが、まともに話の出来る人間はいるか?」
 くぐもったカカシの声に、彷徨っていた思考が現実に引き戻される。そう、自分はここに援軍としてやってきたのだ。自分の過去を回想し、懐かしみ、憎悪するためではない。あの日の苦しみを思い出すためにわざわざ来たわけではないのだから。
「私が。木の葉暗部第2特務部隊副隊長の勝呂と申します。あなた方は?」
 呼びかけに答えそう言葉を発したのは、まだ年若い小柄な男だった。おそらくまだ二十には手が届いていないだろう。肩につくほどに伸びた長い黄金の髪を無造作に束ね、訝しむようにこちらを見ていた。確かに自分たちの風貌は、良くない。感情を殺しきらない若さ故の無防備さに、思わず笑みが漏れそうになった。かつて自分も、あんな目をしていたのだろうか。
「これは失礼した。オレは上忍はたけカカシ。こっちは同じく上忍のうみのイルカだ。とりあえず先発部隊として派遣された。後続の部隊は早ければ明日、遅くとも明々後日にはこちらに到着の予定だ。何か質問があるか?」
 淡々と進められていく会話をまるで他人事のように思いながら、イルカはぐるりと天幕の中を見回した。生温い風がふわりと天幕の入り口にかかった布を揺らす。まとわりついた風に微かな匂いを感じてイルカはふと眉を顰めた。
 この、匂い?何だろう、昔。感じた匂いはごく僅かで、イルカは記憶の底を引っ掻いたその匂いに思いを馳せた。これは…。この匂いは―――。
「……ところで、戦況は一体どうなってるんだ?火影様からは城は落ちたと聞いたが」
 またしてもぷつりと思考が切れる。多分、間違いない。この匂い。色々とする仕事が多そうな予感がイルカの頭をよぎった。
 そしてふと思う。上忍が、上忍というよりは暗部の特務部隊が弱体化しているという噂は、本当なのかもしれない。そう、思う。
「城は落ちました。城主奈賀月雪平以下血縁の者は全て死に絶え、もはやあの城には誰もおりません。ただ…」
 そう、ただ。ただここには、5年前の亡霊が、いる。
「ただ城が落ちた直後のことです。奈賀月城内からじわりと染み出すように霧が発生しました」
「毒の、霧か」
「はい。私自身はすでにこちらに戻って来ていたので被害を受けずに済んだのですが、まだ城内に取り残されていると思われる者も多くいます」
 イルカは不意に沈黙を破り、目の前に佇む青年に疑問をぶつける。
「笹岡のことは聞いていないのですか?」
 聞いていないはずはない。火影はすでに上忍職を離れていた自分にさえ、笹岡のことを仄めかしたのだから。
 ではこの無防備さはなんだろう、と思う。聞いているのならあまりにも笹岡に対して無防備だ。彼らは、笹岡は、奈賀月よりももっと執念深く恐ろしいというのに。
「一応聞いてはいますが、詳しいことを把握していたのは隊長達だけでした。しかし隊長達はまだ誰一人として基地には戻っていません。だから我らには分からないのです」
 不安げに瞳を揺らして勝呂と名乗った男はイルカに視線を向けた。
「そもそも笹岡とは一体何なのですか?」
 勝呂の言葉に少なからずの衝撃を受ける。そんなことも知らされていないとは。そんなことすら、忘れ去られているとは。あんなにも酷い戦闘だったのに。十二年前のあの日以来の惨事と言っても過言ではないのに。
 吸い込んだ息を緩く吐き出しながら、イルカはカカシを見た。これでは、城内に取り残された者の生存はほぼ絶望的だろう。こんなにも無防備に命をさらけ出しているのだから。
「カカシ、一体どうなってるんだ」
 一体どうしてこんなにも無知になってしまっているのか。自分が上忍を辞して以来、どうしてこんなにも暗部は弱くなっているのか。口には出さない問い掛けを汲み取ってカカシは浅い溜め息を吐いた。
「どうもこうもないさ。お前の見たままだよ。それよりも今はそんなことを話してる場合じゃない」
 視線を逸らしてカカシは勝呂の方に向き直る。
「笹岡のことを話してやろう。そしたらオレ達はここの結界を強化した後城内に向かう。望みは薄そうだがな」
 狭い天幕の中に僅かな緊張が走る。向き合って座った二人を見ながらイルカは天幕の入り口を再び潜った。あとの話はカカシに任せておけばいい。先にやるべき事がある。そう、せめてこの天幕の中だけでも安全に保つ必要がある。ばさりと音を立てて再び閉じた薄暗い天幕の中、カカシはイルカの姿を見送ってから勝呂に向かい合う。
「あの…?」
「あぁ、あれは放っておいてもいい。やるべき事をやりに行っただけだから」





 5年も経ってるとは思えないほど上忍が板に付いてるじゃないか。酷い話だ。深い深い溜め息をこぼしそうになってカカシは口布の下で思わず顔を歪めた。
 やっぱり連れてくるんじゃなかった。こんな思いを再び味わうくらいなら、もっと三代目に噛み付けば良かった。目の前の青年はあの頃のイルカによく似た目をしている。あの頃のイルカのように真っ直ぐだ。やりにくいな。ただそんな風に思ってカカシは重い口をようやく開いたのだった。



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