* * *
覚束ない浅い眠りの夜が過ぎ、そして。
久し振りの山道を足早に登っていく。地面を蹴るたびに鼻腔を掠める緑の匂い。春はあちらこちらに兆しているのにイルカの心は依然重く垂れ込めたまま、今日の空模様と同じようにどんよりと霞んで行き先を不透明にしていた。
この想いの行き着くところ。この心の到着点は一体どこにあるのだろう。踏みしめた草からは春の匂いがしているのに。
僅か先を行くカカシの背中を溜め息さえ吐けないまま見つめていた。久々の任務に高ぶる神経を少しでも収めようと、イルカはカカシの筋肉の動きをじっと見つめる。滑らかに隆起する背中の張りつめた筋肉。そこから伸びるしなやかな腕。あの腕に、昨日抱きしめられたのだ。あの暖かな腕に。
イルカよりもカカシの体温は低いけれど、それでも抱きしめられれば暖かいと感じる。女とは違う確かな安心感を持った身体。たったひとつの事実さえなければ、イルカは誤解してしまいそうだった。
カカシが5年前イルカをあんな目で見下ろさなかったならば。あんな憎しみに満ちた目で、見下ろしさえしなければ。そしてこの腕を、潰したりしなければ。きっと誤解していただろう。
カカシがまだ自分のことを想っていてくれていると、そんな風に、誤解していただろうと思う。そしてまだ、自分も、カカシのことを好きなままだっただろうとさえ思うのだ。
ひょっとするとまだ、恋人同士だったかもしれない。あの腕はまだ自分のモノで、自分だけのモノで。そしてまだ、笑えていたかもしれない。とても満ち足りた、そんな風に見える笑顔で。
カカシは自分を憎んでいるのに。自分もカカシを憎んでいるのに。違和感が付きまとって離れないのは一体どうしてなのだろう。自分の気持ちでさえまだ、ボタンを掛け違えたままのような気がしてならないのはどうしてなのだろう。
僅かに顔をしかめて物思いに耽っていたイルカは、不意に立ち止まったカカシの背中に危うくぶつかりそうになる。何とか衝突を免れたイルカを、カカシは面白そうに眺めて言った。
「ここらで一旦休んでいこう」
イルカの意見など聞きもしないで、カカシは道に沿って走る川の方へ足を向ける。雪解け水を存分に含んだ浅い川がざあざあと派手な音を立てていた。
河原にはあちらこちらに春の花が咲き始めていた。山中にも遅い春はやってきていて、イルカは思わずほっと息を吐く。考え事をしながら歩いていたせいかあまり思わなかったけれど、もうずいぶんと遠くまで来ていた。
里を出るときはまだ眠っていた太陽も、今や中天に座して尖った空気を暖めている。この時間に到着を予定していた地点はもうとうに過ぎ去っているのに、まだあまり疲れは感じていなかった。
悪くない、と思う。まだこれだけ動けるなら、任務に出たことを後悔しなくても良いかもしれない。カカシの足手まといにならないかもしれない。それなら、悪くない。上出来だとさえ、思う。
気を遣われるなんて真っ平ごめんだった。僅かに浮いた汗を拭って、イルカはカカシの隣に腰を下ろす。何故かそうしてしまった。わざわざ隣に行く必要なんてないのに、いつの間にか昔のように。まだカカシが自分のモノだった頃のように、いつの間にか。自分がまだ、カカシのモノだった、頃のように。
腰を下ろしてからふとそんな考えに行き当たって、イルカは今更どうしていいか分からないまま俯いた。触れるほどではないけれど、ほんの近くにカカシの気配を感じる。
水筒から水を飲みながら、イルカは目の前の急な水の流れにぼんやりと目を向けた。空気は清涼で任務自体にはまだ何の不安もなく、隣にはカカシが居る。昔だったらこの行程をきっと楽しんでいたに違いない。さわさわと水面を渡る風の匂いにイルカは息を吐き出した。
「なぁ、イルカ。これからどうする?」
突然の言葉に思わずびくりと肩を揺らして、イルカはカカシを恐る恐る見た。何をこれからどうするのか。発した言葉の意味が掴めないままイルカはカカシに視線を合わせた。カカシは、笑っている。
「そんなに怯えなくても、何にもしやしないよ」
笑っている。笑っているけれど、その瞳は笑ってはいないように見えた。
どこか。そう、どこか悲しげにさえ見えて。
「…何を、どうするっていうんだ」
誤魔化すように、そんな風に言ってしまう。カカシとのことはいつもそうだ。カカシの考えてることなんて全然分からないから、ついそんな風に誤魔化すみたいに違うことを聞いてしまう。一番聞きたいこととは、違うことを。
「いや、これからの行程をさ、どうするかなと思って」
「どうって…。このまま直進すればいいだろ?」
一体カカシが何を悩んでいるのか分からなくてイルカは聞き返す。目的地まではこのまま山を突っ切るのが一番早いことはカカシも分かってると思ったんだけれど、それとももっと近道があると言うんだろうか。当然のように言い放ったイルカの言葉に、カカシはがっくりと肩を落とした。
「お前はそう言うと思ったけど。変わってないね、イルカ」
呆れたようなカカシの口調にどことなくむっとしてイルカは問い返した。
「お前一体何が言いたいんだ。お前の考えてる近道とやらをオレが突破するのは無理だと思ってるのか?」
そりゃあ確かに自分が前線から退いてからずいぶんと時間が経ってはいるが、戦闘以外ならまだそう以前より見劣りしていないくらいの自信はある。今日のことを見たって分かると思うのに。
怒ったようにそう言ったイルカに、カカシは声を立てて笑った。笑い転げるカカシにイルカはますます腹を立てる。
「何を笑ってるんだ!」
「いや、だから変わってないな、って思って」
目尻に浮かんだ涙を拭いながらカカシはそう言った。懐かしそうに目を細めて。その笑顔は、イルカのひどく見知った笑顔で不意に胸が痛くなった。この笑顔に一体どれほど助けられただろうか。
過ぎ去った、あの懐かしい日々の中。
「何、言ってるんだ」
呟きは自然と小さく、カカシの耳にようやく届くくらいだった。
「変わってないね、イルカ。お前はいつも真面目で融通が利かなくて、オレがこういう事を言い出すと決まって凄く怒るんだ」
カカシの言葉を意味を掴み損ねてイルカはふと口をつぐんだ。こういう空気はひどく懐かしい。懐かしいように、思う。懐かしくて暖かくて、だからこそひどく居心地が悪かった。
「街道に出ようか、って言おうと思ったんだ。これから山道を外れれば日が落ちきる前には宿場に着くから、今日はそこで休もうかって」
変わってないね、カカシも。あの頃から全然変わってないね。寄り道ばかりしたがる。寄り道のような、そうでないような。
確かに宿場に泊まった方が疲れも取れるし今後のことを考えたら悪くない案だけれど。どうしても目的地までの日数が余計にかかることになるから、だからいつもこういうときは俺が反対して。
イルカは真面目だとか融通が利かないとかカカシがからかい混じりに言って。そしていつも強引に寄り道をさせられることになる。昔からそうだった。二人で任務に赴くときはいつも。そんな風に。
「駄目だ」
「…そう、言うと思ったよ」
短く言い放ったイルカの言葉にカカシは異を唱えるわけでもなく、ただそう返した。変わってないけど、変わったのか。もう強引に誘ったりしないんだな。あの頃みたいに。
「折角お前の腕を潰したのに」
唐突に、それはひどく唐突にカカシの口からこぼれ落ちた。
「お前は全然あの頃と変わってないんだもの」
溜息混じりにそうカカシは呟く。どこか悔しそうにも聞こえる、そんな口調で。
「オレのスピードに付いてくるんだな、今でも」
カカシが何を言いたいのか、イルカにはよく分からない。よく分からないけれど。
「オレ一人、馬鹿みたいだ」
はは、とカカシは笑った。酷く乾いた笑い声だった。その声にまた胸が痛くなる。
どうしてだろう。どうして、こんなにも。
歯車は咬み合わないまま、今も回り続けているのだろうか。今も、カカシと自分の歯車はどこかで。深く息を吐いたイルカのことをどう思ったのか知らないけれど、カカシはそれ以上は何も言わなかった。
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