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   * * *



 ぼんやりと日々が過ぎていた。相変わらずカカシの事が気にかかっていて心が浮ついていて、でも。以前のように刺々しく思っている訳ではなかった。
 あの日。あの日公園でカカシに抱きしめられたまま泣き疲れるまで泣いて。そして何かが吹っ切れたような気がしてはいた。
 今でもカカシの事は許せないと思う。これからも多分許せはしないだろう。そう思うけれど、以前のようにどろりとした憎しみが胸を掠める事もなくなった。カカシの事は、過去になったのだ。カカシのした事も自分が上忍だった事も、すでに失われて久しい過去の事なのだから。だから醜く憎んでいても仕方がない、そういう事なのだと思おうとしていた。
 けれども過去の事と思いながらもカカシの事がずっと気になって。気になって気になってだから、日々は穏やかなようで妙にざわついたまま過ぎていった。カカシとはあれ以来どことなく妙な雰囲気で、以前のように親しくもなければ全くの他人という感じでもなく、久し振りにあった同僚にどう接していいのか分からないような、そんな緩やかで曖昧な関係を危うい均衡で保っていた。
 そうしてカカシも再会したばかりの頃のような、ひどく攻撃的な目をする事が無くなっていた。



 そんな風にしてじんわりと重い空気を孕んだまま季節は移り変わり、凍てついた空気はいつの間にかすっかりと和らいでいた。そんな、春。
 とろりと日差しは暖かく、イルカの心は相変わらずやんわりと疲弊したまま、時折掠める淡い花々にほんの少しだけ癒されるような、春のある日。イルカの元に一件の任務が舞い込んできた。そう、イルカをひどく動揺させる重大な任務が舞い込んできたのは、そんな穏やかな春の日の事だった。

 その日。

 アカデミーの校庭は吹き荒れる春の風に桜の花びらが舞い踊り白く白くけぶっていた。火影からの直々の呼び出しに良い予感など全くしなくて、イルカは溜息混じりに校庭に面した渡り廊下をのろのろと歩いていた。出来る事ならば行きたくはない。イルカの予感が正しければ、これから自分はきっともの凄く厄介な事をさせられるに違いないから。
 やだな。ぐずぐずとそんな事を思いながら渡り廊下を半分まで渡ったとき横殴りの風が不意にイルカの身体を押した。
「わっ」
 とっさの事にイルカはよろけてしまう。鈍ってるな、と思って校庭の方を見るともなしに振り返るとそこは。
 そこには。
 視界を埋め尽くす桜の花びら達。ざあざあと降り注ぐ雨のように空気を震わせて、桜がいっそ潔く舞い踊っている。美しい風景だった。確かに怖いくらい美しい風景だったけれど、イルカが思い出したのはもっと違う、とても恐ろしい光景だった。
 5年前のあの時。あの場所も桜の花吹雪に覆われていた。むせ返るような花の匂いと空気を埋め尽くす花びらと、みっちりと空間を埋めた毒の匂いに吐き気を覚えた。
 そして、あの時ようやく助かったと思ったのだ。地に伏したまま起きあがる事も出来ない自分の視界を掠めた銀の影を見たとき、ようやく助かったと思ったのだ。カカシが来たのならもう大丈夫だと、そう、思ったのに。
 倒れたまま起きあがる事も出来ない自分を見下ろしたカカシの表情は、影になってよく見えなかった。ただ、見上げたカカシのさらに上から白い白い花びらが舞うように降り注いでいて。息を吸い込むたびに毒に犯されていく肺がいつまでもつか、それがどことなく心配でカカシに早く抱き起こしてくれ、とそう言おうと思っていた。
 屈み込んだカカシの目を見るまでは。その時のカカシの目にははっきりと憎悪の感情が浮かんでいたように見えた。ざわりと空気を震わせたのは誰でもない目の前にいる、味方であるはずのカカシが発した殺気だった。
 あまりの恐ろしさに声も出なかった。殺される、と、そう。指一本動かす事が出来ない自分をカカシが殺す事など、赤子の手を捻るよりも容易な事で、その無防備さにイルカは怯えた。
 折角助かったと思ったのに。こんなにも必死で生き延びたのに。なのに。
 けれどもカカシは自分を殺しはしなかった。すらりと抜きはなったクナイをイルカの左腕に当てると、主立った筋肉と筋をぶちぶちと切り裂いただけだった。痛みに気を失ってそれから。イルカが目を覚ましたのはどのくらい経ってからだったのか。
 気が付いたのは木の葉の里の病院のベッドの上だった。血を吐くようなリハビリの甲斐あって日常生活を送るのに支障のない程度までは回復したものの、イルカが上忍に復帰するのは絶望的で自ら上忍職を退いた。あの時何があったのか火影に聞かれても、どうしてかカカシの事を報告する事が出来なくて、今もなおそれはイルカの胸にだけ秘められている。
 そう、自分はあの時。カカシの憎しみに晒されてそのことが、ただ。
 ただ、なによりも。
 知らず握りしめていた左手をイルカはそっと開いた。感傷に浸っている場合ではない。火影が呼んでいるのだから。急がなくては、そう言い聞かせてイルカは足早に渡り廊下をすり抜けていった。



「失礼します」
 重苦しい気持ちを振り切ってようやくそう言って扉を開けると、そこには火影とそして、カカシがいた。あぁ、悪い予感は当たってしまった、そう思う。のろのろと扉を閉めて火影に一礼する。こんな所でカカシに会いたくはなかった。今更、だけど。
「来たかイルカ」
 里長の声に面を上げてイルカは苦い顔をした。呼び出されたのがカカシと自分、という事は。それは。
「まぁそう警戒するでない」
 煙管をふかしながら笑みさえ浮かべる里長に警戒しない訳がない。盛大に吐きそうになる溜め息を辛うじて、押さえてイルカはごく平坦な声で聞いた。
「何のご用でしょうか」
「うむ、そのことじゃがな。おまえとカカシにやってもらいたい任務がある」
 そう告げてぷかりと煙を吐き出した老人を見ながらやはり、と思う。悪い予感というのはどうしてこう間違いなく当たってしまうのか。
「お主らも聞き及んではいると思うが三月ほど前に攻略を開始した奈賀月城がようやく落ちた」
 予期しなかった火影の言葉に目を見張る。落ちた?見ればカカシも意外そうな顔をしている。てっきり城攻めに参加しろと言われるとばかり思っていたのに。
「落ちたんならオレ達がする事はないんじゃないですか?」
 イルカもカカシと同意見で無言のまま火影を見やる。そう、落ちたのなら自分たちにする事はないのではないか。カカシとイルカの視線に老人は動ずる事もなくゆったりと煙管を吸い込んだ。
「お前らにやってもらいたいのは救出じゃ」
 里長の言葉にざわりと背中が震えた。嫌な予感がする。視界を掠めたカカシの横顔も酷く強張っているように見えて余計に恐ろしくなる。なぜ、助けがいるのか。
「三代目、まさか」
 知らず零れたイルカの呟きに火影は小さく頷いた。
「その、まさかじゃ。5年前と同じ事が起こっておる」
 5年前と同じ事が起こっている。あの時と同じ事が。
「笹岡ですか」
 長い吐息のようにカカシが呟いた。
「うむ。奈賀月に笹岡が匿われておると聞いた時点で嫌な予感はしておったが、またしても同じ事を繰り返すとはな。愚かな事よ」
 老人の呟きも苦渋に満ちていてイルカはそっと目を伏せた。確かに愚かな事だ。愚かで何も生み出さないなんと非生産的な事をするのかと思う。思うけれど、それは見事な生き方でもあると反面思わずにはいられない。
 復讐のために。ただ復讐のためだけに5年もの月日を費やし、そして滅びた。一族の復興を願う訳でもなく奈賀月という後ろ盾を巻き込んで、ただ復讐を願った。その執念。なんと見事な意志だろう。
「で、オレ達は具体的に何を望まれてここに呼び出されたんですかね」
 カカシの声はいつもと何ら変わりなく平坦で読みとりにくい。笹岡のように自分もただ一途に復讐に走れたのならこんなにも苦しむ事はなかったのだろうか。
 苦しむ事は。
「先ほども言うたと思うが、お主らには残留部隊の救出に向かってもらいたい。笹岡の毒物に耐性のある人間はもうお主達しか残ってはおらんからの」
 復讐に踏み切れる訳でもなくさりとてカカシを許す事も出来ず、何となく側にいるような曖昧な関係を続けている自分よりも、なんと潔い良い生き方だろうか。褒められるべき事ではないけれど、木の葉にとってこの上なく厄介な相手ではあるけれど、仲間の命を惜しげもなく奪った憎むべき敵ではあるけれど。
 なんと見事な。
「オレは別に構いませんけど。でもね、火影様。聞く限りじゃ別にイルカを連れて行く必要はないと思いますけど」
 さらりとなんでもないようにカカシがそう言った。その言葉に目を見開く。カカシの声は相変わらずいつも通りで動揺しているのは自分だけみたいだった。
 なぜ、と思った。足手まといになるからか。なぜそんな事を言うのかとイルカ自身が問いただす前に、火影が煙とともにカカシに問い返した。
「なぜじゃ、カカシ。理由を言うてみろ」
 カカシはいつもと全然変わらないように見える。いつもと変わらない顔をしてイルカを邪魔だというのだ。足手まといになるというのなら、そうしたのは自分だというのに。なんで。
「だってそうでしょう、オレ一人だって出来る仕事じゃないですか。それにイルカは利き腕が使えない」
 つきりと痛んだのはどこだったのだろう。もう器用には動かなくなってしまった左腕か、それとも。なおも言い募ろうとするカカシの言葉を火影が遮る。
「今回の任務に危険はない。必要なのは笹岡の毒に耐性を持った人間じゃ。そして人手は一人でも多い方が良かろう」
 もう今となっては笹岡と戦った経験のあるものは、木の葉にはカカシとイルカしか残っていない。それはすなわち、笹岡の毒に耐性のある人間もその二人しかいないと言う事だ。そして救出の手は多い方がいいに決まっている。
 火影の言う事はいちいちもっともだった。けれどもカカシは納得しかねると言った態度を崩さないまま、憮然としてそこに佇んでいた。そんなにも、自分と行動する事がいやなのだろうか。つきりと、再び左腕が痛んだような気がしてイルカは無意識にそっと右手でさすった。
「これは命令じゃ。急ぎ奈賀月へ赴き一人でも多く助け出してやってくれ。これ以上の犠牲は無意味じゃからの」
 命令ならば仕方がない。そう、仕方がないのだ。ずきずきと痛むものの所在を無理矢理左手に押し込めてイルカが顔を上げた時、またしてもカカシが口を開いた。
「ならば火影様、お願いが一つあるんですが」
「何じゃ、言うてみろ」
 今度は一体何を言い出すつもりか。どうしてか腕ではなく胸が痛んだ。これ以上何か言われたら、自分は。
 深く緩く息を吐き出しながら、カカシからそっと視線を逸らす。そして続いたカカシの言葉に、今度こそ本当に鼓動が止まりそうなくらい驚いた。カカシは一体、何を考えているのだろう。
「イルカをこの任務期間中だけでも上忍に戻してください」
 イルカは絶句した。何を言っているのか。なぜ、自分を上忍に戻す必要があるというのだ。驚きを隠さないまま呆然とカカシを見つめるイルカをよそに、火影はいとも簡単に肯定の意を告げる。
「うむ、良かろう」
 ぷかりと白い煙を吐き出して老人は何でもない事のように言った。そのことにまた驚いてしまう。二人して、何を言っているのか。自分にはもうそんな力は無いというのに。上忍に戻れるほどの実力など、どこにも備わっていないというのに。なのに、何故。
「出発は明日じゃ。今日の受付は代わりの者を手配しておく。もう帰っても良いぞイルカ。明日に備えておけ」
 いつもとあまりにも変わらない火影の口調に、イルカはどうしていいのか分からなくなった。
 何故。何故、こんな事になっているのか。
「ちょっと待ってください火影様。一体どういう事ですか?」
 このまま話を打ち切られそうな気配に、イルカはようやくそれだけ言った。
「何がじゃ?」
 ぷかぷかと煙管をふかすその姿はまるでいつもと寸分違わず、自分が場違いな質問をしている気さえしたけれど、でも。でも、聞かずにはいられない。
「どうして私を上忍に戻す必要があるのです?」
 そう、中忍のままでも問題無いはずだ。戦闘に赴く訳ではないのだから。なのに、何故。
「イルカよ、分からんか?」
 逆に問い返されて言葉に詰まる。少し前にも同じようにここで火影にこうして問い返された事があったと、ふと思い出した。あの時と同じ。カカシの事も火影の事もまるで分からなくてイルカは重苦しい息を吐き出せないまま、俯いた。分からないものは、分からない。
「ならばこうしておこう。カカシがそう望むからじゃ」
 ぷかりと白い煙をたなびかせて、火影は会話を打ち切るようにくるりと椅子を反転させてしまった。
 もう、聞くなと言う事か。これ以上の事は、カカシに聞けという事か。ちらりとカカシを見ればカカシはどこか腹立たしげな表情でそこに佇んでいた。
 ちくりと痛むのはなんなのだろう。そんなにも自分と同じ任務に赴くのがいやなのか、と思う。足手まといになると、思われているのか。腕を潰したときの憎しみに満ちたカカシの瞳が不意に思い出されて、イルカは知らず胸を押さえていた。
 カカシには、聞けない。どうしてそんな事を望んだかなんて、聞けない。これ以上胸が痛んだら、どうなってしまうかなんて分からなかったから。
「じゃあ火影様、失礼します」
 ぼんやりと物思いにふけっていたイルカの思考を遮るように、カカシはそう言って小さく頭を下げると扉の方へと歩き出す。カカシが退出する以上イルカもここに留まる理由も思いつかず、後を追うように失礼しますとだけ告げて執務室を出た。必然的にカカシと並ぶように、執務室から続く長い廊下をとぼとぼと歩く。
 聞きたいのに、聞けない。どうしてカカシがあんな事を言ったのか、聞きたいのに。それはきっととても重要な事のような気がしたから。だから、聞きたいのに。
 火影には聞けたけれども、答えは返ってくる事は無かった。そしてカカシには、聞けない。あれほど憎んでいたはずなのに、いざカカシを目の前にするとあのどす黒い感情はどうしてかなりを潜めてしまう。
 許しているのか、いないのか。無意識に竦む体はきっと5年前のあの時の事を酷く引きずっているに違いない。だから、カカシが怖いのだと、そう思っていた。そんな風に解釈していたけれど、でも。
 でも、本当に?
 怖いのは、身が竦むのはカカシに植え付けられた身体の痛みなどではなく。本当は。本当に痛いのは。
 のろのろと引きずるように歩くイルカの横を、何も言わないままカカシも歩く。カカシがイルカに歩幅をあわせている事にさえ気が付かないまま。溢れ出る感情を処理できないまま、歩く。そうしてぽつりと呟いたのは、カカシだった。
「どうして聞かないの?」
「え?」
「さっきの事、ホントは聞きたいんでしょ?何で聞かないのかな、と思って」
 カカシの口調はあまりにも何気なくて、ずっと昔まだ自分たちの間に何のわだかまりもなかった頃のようでイルカは目を見張る。聞かないのではなくて聞けないのだと正直に言うことも出来ずに、イルカはただ緩く呼吸を繰り返すだけだった。
「それとも聞きたくない?」
 カカシの声はあくまで優しいようにイルカに響いて鼻の奥がつんと痛くなる。こんな風に優しくされていた、とても幸せだった頃の事を不意に思い出して泣きたくなった。
 憎んで憎んで殺したいとさえ思っているのに、どうして。どうしてこんな事で泣きたくなるんだろう。顔を歪めたまま立ち尽くすイルカにカカシはそれ以上何も言わなかった。
「…どうして?」
 ぽつりとイルカの唇から言葉がこぼれ落ちる。その問いは一体何に対してだったのかイルカ自身にもよく分からなかった。分からなかったけれど、それはもうずっと長い間、イルカの中に降り積もったカカシの言葉達に対してのような気がしていた。
 たった2歩離れただけの所に立っているはずのカカシは、ずいぶんと遠い所にいるようでそのことにまた、少しだけ胸が痛いような気がした。
「……いたら…」
「え?」
「聞いたら答えてくれるのか?」
 オレの欲している答えを、返してくれるのだろうか。本当にただひとつ真実求める言葉を、返してくれるのだろうか。オレ自身にすら分からない、その真実を。
「答えるよ。イルカの望むように」
 自分でも分からないのに?自分自身にすらまだよく分かっていない、その望みを、どうしてカカシが知っているというのだろう。望む答えなんて、分かりはしない。
「どうして、あんな事を言ったんだ?」
 声の震えを止めるなんて器用なことは、出来そうになかった。オレは一体何をそんなにも、畏れているのだろう。問い掛けに満足したようにカカシは柔らかく目を細めて、笑った。そう、確かに笑っていた。イルカがかつてよく知っていた、優しい瞳で。
 どうして?どうしてそんな顔で笑うの?イルカの困惑をよそに、カカシは笑みを浮かべたまま問い掛けに答えた。
「イルカがもうこれ以上、傷つかないように」
 外を吹き荒れる風のせいで、廊下の窓が神経質な音を立てていた。眩しすぎる春の陽光に目がくらみそうでイルカは思わず目を細める。
 何と、言ったのか。今カカシは、何と言ったのだろうか。
 その優しい、笑みのまま。
「オレ以外の人から傷つけられないように」
 何を、言っているのか。
「何を、言ってるんだ?」
 そう問い返すのが、やっとだった。
「分からない?イルカ」
 窓の外は酷い嵐で、巻き上げられる桜の白い花びらが目に映る風景を白く染め上げている。
「分からない。お前の言っている事は何一つ、分からない」
 まるで独り言のように小さく呟いたままイルカは頭を振った。
 どうして。どうして?
「イルカ、お前はあまりにも長く戦場から遠ざかっていたから忘れているのだろうけど、オレがお前を上忍に戻してもらった理由は、きっとすぐ分かるよ」
「え?」
「戦場に戻れば嫌でも思い出すさ」
 カカシは、笑っている。望む答えを返すと言いながらオレの望む答えなんて全然返さずに、ただ優しく微笑んでいた。
 その意味が分からない。微笑む意味が、問い掛けに答えてくれた言葉が、分からない。まるで言葉さえ通じない遠い国の人のようにカカシの事が何もかも分からない。今までと同じように。再会してからずっとそうだったように、今も何一つ分からないまま。困惑して佇んだままのイルカに、カカシは不意に困ったような顔をした。
「ねぇ、イルカ。お前はどうしてと聞いたけれど、本当はオレが聞きたいくらいだ」
 困ったような表情のままカカシは気弱に笑いながらそう言う。
「…何を?」
 カカシが聞きたい事なんて、一体何だろうか。ずっとずっとカカシには分からない事など無いと思っていたのに。そう、いつも見透かしたように笑うから、オレの心の奥底まで見透かされてると思っていたのに。
 何を?
「聞いても良い?イルカ」
 カカシの言葉にこくりと頷く。本当は頷きたくなんてなかったのに。どうしてか、頷いてしまっていた。
「じゃあ聞くけど。お前は本当はオレの事をどう思ってるの?」
 普段のようにからかう訳でなく、ひどく真摯な瞳がそこにあった。オレがカカシを、どう思ってるかなんて。そんな事、分かり切ってるに決まってる。
「…ど、どうって……」
 それなのにどうしてだかただ上擦ったような声しか出せず、イルカは苦い思いのまま俯いてしまった。
「お前はオレを憎んでるんだと思ってたけど、本当はどうなの?憎まれて当然の事をしたしそれはそれで仕方がないと思ってたけど、お前を見てると分からなくなるんだ。憎まれてるのか、そうでないのか。本当は、どう思ってるの?」
 俯いた顔を上げるように、カカシの乾いた堅い手がそっと頬に添えられた。久し振りに感じるその感触はイルカを訳の分からない感傷に引きずり込むには十分だった。
 憎んでいるのか、許しているのか。そんな事自分が一番分からないのに。憎んでいると、殺してやろうと思った側から、カカシを懐かしく愛しく思う自分がいる。かつての柔らかい記憶に飲み込まれたいと思う自分がいる事に一番困惑しているのはイルカ自身だというのに。何故カカシがそんな事を聞くのだろう。そんな、酷い事を。
 頬を撫でる手の平は思っていたよりも暖かくてイルカはまた泣きそうになった。悲しいのではない。悲しいのではないのに、泣きたい事があるなんてイルカは今までずっと知らなかった。カカシに再び出会うまで、ずっと。
 何も言えないままカカシを見つめるイルカをどう思ったのか、不意にすごい力で抱き寄せられた。イルカはそれに抗う手段を持たない。ただ為すがままにカカシに抱きしめられるだけだ。
 分からなくて。本当にカカシがこんな事をする理由が欠片も思いつかなくて、イルカはゆるりと目を閉じた。瞼が視界を閉ざす瞬間掠めたモノは、吹き荒れる嵐に翻弄される脆弱な花びら達だった。網膜に焼き付いて離れないその花達を、まるで自分のようだと思いながらイルカは小さな溜め息を吐いた。
 カカシの腕の中は暖かく。かつてそうであったように今もなお暖かく安らかで、あんな事さえなければ今こうしてこの腕に抱かれている事にどれほどの喜びを覚えたろうとさえ思う。あんな事さえ、なければ。
 ずっと憎いと、許せないと思っていたけれどこうしてこの腕にすんなりと抱かれてしまう自分。どうして、なんて本当は分かっているのかもしれない。気が付きたくないだけで。本当は、カカシの裏切りが、ただ。

 ただ。

 目を閉じたまま身動ぎもしないイルカの耳元を、カカシの低く掠れた声がくすぐる。
「イルカ、オレは馬鹿でとても愚かな人間だけど、もう間違う訳にはいかないんだ」
 カカシの声が、耳元で囁く。イルカをどこか遠くへ連れ去ろうとして。
「…間違う……?」
「そう、もう間違うわけにはいかないんだよ。そしてお前を逃がすつもりもないんだ」
 悲愴とさえ取れるカカシの言葉にイルカはどうして良いのか分からずに、この腕を振り解きたいのかそうでないのかさえ分からずに。ただ、何一つ理解できないカカシの言葉達を丸ごと胸の中にしまい込んだまま、流れる風に運び去られる花びらをぼんやりと眺めるだけだった。



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