* * *
一楽からの帰り道。ふとナルトがイルカを見上げて訊ねた。
「なぁ、イルカ先生って何で先生になったんだよ」
質問の意味を計りかねて、イルカはナルトを見下ろす。
「イヤ、だってよ。昔は戦忍だったんだろ?だったら何でやめたのかな、と思ってさ」
見上げる子供は憧れの職業を辞した自分を、ひどく不思議なモノのように思っているのかもしれない。辞めたくて辞めたんじゃ、ないんだけどな。笑いかけながら胸をよぎった銀の影を意識的に思考から追いやってイルカは息を吐いた。
「怪我をしてな。日常生活には支障ないけどもう戦闘に出るのは難しくなったんだ」
努めてなんでもない事のように言った。そう、もうこれはひどく遠い過去の事。5年も、前の。
「イルカ先生大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないように見えたか?」
笑いながらそう答えた。仄暗い夜道を歩きながら、それでもじくりじくりと身の内から湧き起こる痛みにイルカは耐えていた。
そう、大丈夫だけれど。普通に生活するには問題ないけれど。それでも。あの時の事を、カカシの事を思い出すと、まだ傷口が塞がりきっていないような錯覚に陥る。
じくじくと、もう痛まないはずの傷口がひどく痛むような、気が。
「大丈夫なら、いいんだけどよ」
子供はそう呟いたままふつりと黙った。
カカシの付けた傷は一体いつになったら塞がるのだろう。不意にそう思う。過去だ過去だと思っても、身体は一向に彼の事を過去にはしてくれない。姿を見るたびに、その気配を感じるたびに、じわりと痛みを訴える。隣を歩くナルトに聞こえないくらい小さな溜め息を吐いて、イルカは澄んだ夜空を見上げた。
* * *
相変わらず表面上はなんの変わりもなく穏やかすぎるほど穏やかに日々は過ぎていた。カカシは相変わらず何も言わない。ただ受付所で任務を受けとり、そうして提出していく。イルカは受付を持ったりアカデミーで教壇に立ったりしながら、カカシと付かず離れずの生活を送っていた。そんな日々を過ごしていた冬のある日。
誰もまだ起きやらぬ明け方にイルカは不意に目を覚ました。部屋の中は薄暗く辺りはひっそりと静まりかえっている。一度去った眠気は再び戻ってくる気配もなく、イルカはベッドの上に身を起こした。静寂が痛いくらいだと思う。ひんやりと体を包む冷気がイルカの記憶を不意に掬い上げた。あの頃もこうして目を覚ましたことがあった、と。あのときは側にカカシがいた。イルカのすぐ隣に。引き戻された過去に吐き出した溜息は、冷えた部屋の空気に白く溶けた。
どうしてこんな風になってしまうのだろう。授業をしていようがナルトとラーメンを食べようが、イルカの思考を埋め尽くしているのはたった一人の事だけ。何をしても思わずにはいられない。思い出さなかった5年が嘘のように、近頃のイルカはカカシのことばかりを考えている。薄暗がりの中に浮かぶのは骨張った己の手の平。昔のようには動かない左手。
どうしてこんなに気になるのか。どうして、だなんて愚問だけれど。不可解なカカシの行動が自分を悩ませている。かつて肩を並べ戦場を駆けたカカシ。戦闘でぼろぼろになり身動きの取れない自分の左手を潰したカカシ。
憎まれているのだと思った。あの時カカシの瞳に浮かんだモノは確かに憎しみだったように思ったから。けれど、なぜそんなに憎まれているのかは分からなかった。
あの時、腕を潰されたとき本当は。痛みよりも憎しみよりも何よりも、ただ。
何よりもただ。
明けようとしている世界に目を向けて、イルカは溜め息を吐いた。世界は朝靄の中で沈黙している。憎んでいるのに、これではまるで恋をしているみたいだと思う。始終あの人の事が頭から離れないなんて、同僚にでも聞かせたらどこのいい女の事だと問い返されるに違いない。そんなものではないけれど、こんなにも強くまだカカシの事を思う自分がいるのもまごうことなき事実であるのも確かだった。
ひどい感傷だ。切り替えのきかない頭を冷やしたくて、イルカは上着を羽織るとふらりと外に出た。身を切るような寒さと朝靄よりも白い吐息。風はなく辺りは何の音もしなかった。戦場の朝みたいだとぼんやり思う。
さりさりと歩く自分の足音を聞きながら、イルカは何の気なしに目の前の公園に向かって歩き始めた。ベンチに腰を下ろして肺の中に新鮮な空気を取り込む。世界は静かだった。まるで時が止まったように何の音もしない。カカシの事でぱんぱんだった心が不意に軽くなる。
カカシの事がなければ、こんなにも軽い。忘れてしまえたらいいのに。何もかも、きれいさっぱり忘れてしまえたら、いいのに。カカシのした事全て。カカシの事を考えて辛くなるのは、かつて優しくされた記憶があるからだ。優しく笑うカカシ。
『イルカ』
そう名を呼ばれるたびにどれほど胸が高鳴ったかしれない。憧れて憧れて同じ部隊に配属になったときは、どれほど嬉しかっただろう。その人に対等に扱われとても優しくされたとき、どれほど嬉しかっただろう。ようやく認めて貰えたと安堵の溜息を漏らした事さえあったのに。恐ろしさも憎しみも今もってイルカを灼き続けてはいるけれど、本当は。
本当はただ。なによりも。
「イルカ?」
ぼんやりと物思いに耽っていたら不意に声を掛けられた。その声にびくりと背中が強ばる。これは夢ではない。これは。
「イルカ、何してるんだ、こんなところで」
あの頃と同じように。あの頃のように暖かいとさえ感じる声で、そう問いかける者。顔を上げたその先に、佇んでいたのは。
「…カカシ」
心が弱くなっている事に気が付いていた。朝靄の中で世界はかすんで、イルカに過去と現実の区別を付け辛くしていた。
「こんな格好で風邪引くぞ」
カカシの声からはいたわるような響きしか聞こえなくて、ふわりと掛けられた外套の暖かさがカカシの体温だと気が付いたとき、不意に泣きそうな気持ちになった。外套をイルカに掛けたあとカカシは、当たり前のように隣へ腰を下ろした。それきり沈黙が訪れる。
弱くなっていた。何故だかとても。こうしてカカシと並んでいても、何の憎しみも怒りも湧いてはこなくて、ただ懐かしいとそう思う。あの頃のようだ。まだ自分がカカシの全てを信じていた頃のようだと。
「なぁイルカ。これ覚えてるか?」
永遠にこのままの時が流れるんじゃないかとイルカが朝靄に目を凝らしていたとき、不意にカカシが静寂を破った。これ、といわれてカカシの方に視線を向けると、カカシはその手の中に小さな筒を握っていた。2センチほどしかないその茶色の筒は。
「懐かしいな…」
まるであの頃に戻ったみたいに自然にそんな風に返してしまっていた。ただ本当に懐かしくて。
カカシが握っている筒は、花火だった。
「爆薬を作った余りの火薬で、試しに作ったんだよな」
笑いながら。あの時二人は何が可笑しいのか戦場のただ中にいて、それでも恐ろしく幸福だったような気がする。もう永遠に訪れない幸福。あの時の透き通るようなカカシの笑みがふと甦る。そう、あの時確かに死と隣り合わせでも、これ以上はないくらい幸せだった。懐かしそうに目を細めただけで噛み付きもしない自分をどう思ったのか、カカシは柔らかい口調のまま、懐かしいだろ、とだけ言った。
「火をつけてみようか?」
手の中で筒を転がしながらカカシはそんな風に言う。まるで5年前何もなかったように。久し振りに会った友人のように。そのことに腹を立てるでもなく、イルカもまたカカシを懐かしい友のように扱っている。これはだからきっと別世界での出来事なのだ。あまりにも現実味の薄い朝の中で、くたくたに弱り切ったイルカに出来る事なんてあまりにも少なくて。
だから。
「そうだな」
ぽつりと漏らして頷いた自分をどう思ったのだろうか。不審に思いはしないだろうか。だいたいカカシも自分を憎んでいたのではないのだろうか。
けれども。けれども視線が捉えた懐かしい人は。カカシはあの時と同じひどく透明な笑みを浮かべているだけだった。
「じゃあ」
薄く透明な笑みを浮かべたまま、カカシはそう言って簡易花火に火をつけた。手のひらで燃え上がったそれを目の前の砂場に投げ込む。火の固まりがちらちらと燃え、そして。
そして。
「……」
「……何にも起こらないな」
花火だったはずのモノはただ燃えていた。それでは花火ではなくただの火の玉だ。窺うようにカカシを見るとちょうど同じようにこちらを見たカカシと視線がぶつかって、申し合わせたように吹き出してしまった。
朝靄に吸い込まれる笑い声。カカシに再会してから初めてこんな風に笑ったと、思った。再会してから、と言うよりはもっと昔。あの日カカシと別れてから初めて、こんな風に笑ったと。
上忍になって暗部に入ってカカシに会って。それなりに辛く凄惨な日々を送ってはいたけれど、それでも二人でこんな風によく笑い転げていたのに。あれからずっと笑えなかった。あの頃のようだ、と笑いながら思う。ひとしきり笑った頃にぼんと弾けるような音がして、そして目の前の火の玉から赤い色の火柱があがった。しゅわしゅわと軽い音を立てて赤い火柱が青く、そして緑へとくるくると色を変えて吹き上がる。
花火、だった。
ワンテンポ遅れてようやく花火になったそれはひどく綺麗で。こんな真冬のただ中、まだ夜も明け切らぬこんな時間に何をやってるのかと思う反面、その現実味の薄さは、本当に息を吐き出すのもためらわれるほど美しかった。
笑い飛ばしてもいいのに。なんてタイミングだ。そんな風に。やっぱり不良品だ、俺たちの作るモノなんて。そんな風に笑い飛ばしてもいいはずなのに。どうしてかそれは神聖とすら思えるほどに美しかった。
「イルカ」
囁くように名を呼ばれて、光の渦から傍らに座る彼の人へと視線を移す。カカシは困ったような顔をしていた。困ったような、途方に暮れたような、そんな顔をしていた。どうしたのかと問うよりも早く、その腕が伸ばされ頭を抱えられた。カカシの肩に押しつけられる自分の頬。
「泣くな」
踊る光の柱はいつの間にか消え失せ、そして戻ってきた沈黙。朝靄の中。
「もう、そんな風に泣くな」
髪を梳く優しい手の感触に、ようやく自分が泣いている事に気が付いた。
「イルカ」
胸が痛いから。あなたがそんな風に泣くと、とても。とても胸が痛いから。
だから、泣かないで。
引き寄せた暖かさは、ずっと昔砂埃と硝煙の中で抱き寄せたときと全然変わらなくて、だからあの頃のように、そっと髪を梳いてみた。どうか、そんな風に泣かないで。言いながら馬鹿みたいだと思う。泣かせているのは自分に他ならない。自分が、この人を泣かせているのだ。手酷い裏切りを与え絶望させ、さりとて彼の目の前から消える事も出来ず馬鹿みたいに舞い戻ってきた。そうして昔のように優しくしてみたりして、馬鹿みたいだ。
髪を梳きながら心の中でごめんね、と思う。愚かな馬鹿者でごめんなさい。あなたを泣かす事しかできない、非道い人間で。それでも離れる事も出来ない、愚かな人間でごめんなさい。
イルカは肩に顔を押しつけたままカカシに縋り付いて泣いていた。堪えきれない嗚咽を漏らしながらとても純粋に悲しんでいるように見えた。絶望に耐えきれない心を悲しんでいるように見えた。
可哀想に。なんて、可哀想に。
ごめんなさい。それでもあなたから離れる事が出来なくて、ごめんね。ごめん。
それでもあなたを好きでいる事をやめられなくて。
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