* * *
イルカは顔を歪めてカカシを見つめていた。泣きそうだ、と思う。泣きそうな顔をして、それでも歯を食いしばって必死で泣かないように頑張っている子供のような顔。そんな顔をしていると、思った。
可哀想に。こんな顔をさせているのが他ならぬ自分だということに湧き上がる喜びを押さえられないまま、カカシはぽつりとそう思う。可哀想に、こんなにも追いつめられてそれでも逃げられないなんて。
逃がさないけど、逃がすつもりなんてどこにもないけど。でも可哀想だ。そうして思う。本当はあの頃みたいに笑ってくれたら嬉しいのにと。何の屈託もなく子供達に笑いかけるみたいに笑ってくれたらいいのに。イルカから笑みを奪ったのは他ならぬ自分だとわかりすぎるくらい分かってはいたけれど。
笑ってくれたら。
* * *
からかわれているわけではないと思う。ただ本当にカカシはそう思ってこんな行動に出たのだろう、と。どうすれば自分がひどく腹を立てるか知っていて。こんな子供じみた行動に。今更どうしていいのか分からずに、イルカは知らず顔を歪めた。このまま昔のように話しかければいいのか、それとも上忍に話すべく態度を正すべきなのか分からなかった。何もかも、分からないことだらけだ。
ようやく息を吐き出してイルカはカカシを見た。分からないことだらけだけれど、頼まなくてはならないことがある。それをどう切り出したらいいのか。イルカは迷いながらカカシを見つめた。絡み合う視線。うっすらと開いたイルカの口から言葉がこぼれ落ちるより早く、またしてもカカシが先に口を開いた。
「また我慢するの?」
嘲るような口調だった。
「我慢?」
何のことか分からなくてイルカはカカシの視線を正面から捕らえる。
「そう、我慢だよ。今度はナルトのために我慢するの?殺したいくらい憎んでる男と何事もなかったように接するの?」
「!」
「殺したいと思うくらい憎んでるのに、あの子供のためにオレに頭を下げるの?イルカ」
嘲り笑うように、カカシはイルカにそう告げた。見透かされている。何もかも、心の奥底まで何もかも見透かされている。息を吐き出すのさえ苦しくてイルカは目を伏せた。
「お前のそういう自己犠牲精神には反吐が出る」
告げるカカシの口調は静かで、イルカは伏せた目を上げることを躊躇った。
怖い。5年前のあの時と同じようにカカシが何を考えてるか分からなくて、酷く恐ろしかった。カカシにはすべて知られているのに、自分は何も分からない。
どうして。何も言えないイルカにカカシは聞こえよがしに溜息を吐く。
「いいよ、イルカ。お前の望むように接してあげる」
溜息を吐きながら、そんな風に、言った。
「お前がそう望むのなら子供達の前では何も言わないし、お前が望むように振る舞うよ」
あの頃と同じ口調でそんな風に、言うのだ。どうして。
「ただね、イルカ。オレはお前にしたことを一度も悪いと思ったことはないし、時間が巻き戻せたとしてもオレは同じ事をするよ」
あまりの台詞に伏せていた目を上げる。どうして?どうしてそんなことを、言うのか。カカシの瞳を覗いてみても、そこからどんな感情をくみ取っていいのかイルカには分からない。どうして。
「どうして」
口を突いて出る疑問。あの時は聞けなかった、疑問。どうしてあんな事をしたのか。
「どうして?そんなことも分からないの、イルカ」
哀れみを込めてカカシはそう呟いた。可哀想に、そんなことも分からないなんて。そんな、簡単なことも。カカシの台詞に今度こそ何も言えなくなって、イルカは視線を逸らす。
分からない。分かるはずがないのだ、そんなこと。なのにカカシはそんなことも分からないのかと、イルカを笑う。
どうして。どうして?
「分からないままでも構わないけど、だったら気を付けた方がいい」
カカシはイルカの心中などお構いなしにそう言った。一体、何を。
「今度はお前の左腕を潰すだけじゃなく、きっと両手を切り落とすだろうから気を付けた方がいい。あの時と同じ状況にならないよう気を付けた方がいいよ、イルカ」
笑いながら、カカシはそう言ってじゃあねと姿を消した。
怖い。左手を潰されたときの恐怖よりも、カカシが何を考えているか分からないことが、この上なく恐ろしいことのように思えた。
* * *
淡々と過ぎていく日々。イルカとカカシの上に起こった過去の不幸な出来事など誰も知らないまま、日々はただ淡々と過ぎ去っていた。流れていく日々はありふれていて、その日常に驚くほどカカシは馴染んでいるように見えた。そのことがとても不思議に思えてイルカはまた混乱した。
約束通りカカシは何も言わない。イルカがかつて暗部に所属していたことも上忍だったこともその様子からは全く伺えなかった。だから、また、混乱するのだ。カカシが優しいともいえるような行動を取る度にイルカの混乱は深まっていく。イルカをこうして中忍に貶めたのは、他ならぬカカシだというのにどうして今更優しくなんてするのだろう。
どうして。
降り積もった疑問はいったいどのくらいの高さになったのだろうか。イルカは考えても一向に答えの出ない疑問に深い溜め息を吐いた。
「イルカよ、どうかしたか?」
しわがれて乾いた声がイルカの意識を引き戻す。よくよく考えてみればここは里長の執務室で、三代目が巻物に目を通す間ずっとそのことも忘れて考え込んでいた。そんな失態は今まで犯したことがなかったというのに。三代目の前でぼんやりと考え事をした挙げ句、溜め息を吐くなどというそんな失礼極まりないことを。
「いえ、何でもありません」
姿勢を正すイルカに、老人は微かに眉を顰めただけだった。
「それよりも火影様、何か伝令がありましたら言付かりますが」
老人は息を吐き出し背筋を伸ばしたイルカを見やる。
「うむ。失敗は許されぬ、時間と金は惜しまぬゆえ慎重に、とだけ伝えて置いてくれ」
そう言いながらキセルをふかす。笠から少しだけ覗く瞳は全てを見透かしているようでイルカは居心地の悪さを感じて身動いだ。
「申しつかりました。では失礼いたします」
これ以上何かを言われる前に退散しようと踵を返したとたん、その背中を里長のしわがれた声が追いかけてきた。
「時にイルカ」
そう声を掛けられては退散することもままならず、イルカは気が付かれないようこっそり溜め息を吐いてようやく振り返る。
「何でしょうか?」
「カカシは上手くやっておるか?」
不意に予想もしてなかった名がその口からこぼれ落ちて、イルカはほんの少し狼狽した。なぜ、自分にそんなことを聞くのか。
「えぇ、まぁ、子供たちからの評判は悪くないようですが。でもなぜ私に?」
老人の顔色は変わらない。たとえその表情に変化がみられたとしても、それが自分に分かるとも思えなかった。だからなぜそんなことをいきなり聞かれるのか、分からない。
「おヌシとカカシは暗部にいた頃、ずいぶんと親しくしておったではないか。カカシが暗部を外れ里に戻ってきたのじゃ。会ってはおらんのか?」
当然のように切り返されてイルカは口籠もる。確かにあのころ、自分たちはひどく仲がよくて。仲がいい、というのか。それでもとても親しくしていたのは事実で、火影もそれを知っていた。だから、だからそれを聞かれるのは別におかしいことではないけれど、でも。
でも。
三代目は知らないから。カカシが自分を中忍に貶めたことを知らないから。そう聞くのは当たり前なのだけれど。
吸った息を吐き出す音がいやに耳に付いた。一体どんな風に答えたらよいのか。イルカは口籠もったまま何も言えずに立ちすくんでいた。何も言わなければ不審に思われるけれど何を言っても不審に思われそうで、どうしようもなく濁る思考のままイルカはようやく口を開いた。
「…あまり時間帯も合いませんし、それに」
そう、それに。
「私にはあいつが何を考えているのかさっぱり分かりません」
あの頃とは違うのだ。互いに必要と思っていたあの頃とは。多分。
「ほ、あやつの考えてることが分からんかの、イルカ」
さも可笑しそうに笑いながら老人はそう言った。
「分かりません。火影様には分かるのですか?」
焦燥が胸を焼く。ちりと刺した痛みにわずかに顔を顰めて、イルカは呟くように弱く言った。火影はなおも笑いを含んだままイルカに返す。
「あやつの思考は分かりやすいぞ、イルカ。真っ直ぐにただ一つのことだけを思うておる」
分かりやすいなんてことがあるか。カカシの行動はイルカにとっては支離滅裂そのもので、理解の範疇を軽く越えている。それなのに、この老人はそんなことも分からないのかと言う。
まるでカカシと同じように。
「カカシのことを難しくしておるのはおヌシ自身じゃ。あれの考えてることが分からんのはおヌシくらいなモノかもしれんぞ」
老人の顔にはもう笑みは浮かんではいなかった。笠に隠れて表情は相変わらず読み取りづらかったけれど、イルカの心に深く突き刺さる一言を残す。
「おまえさんも、分かりやすいの」
キセルを吸い込みながら里長は何でもないことのように呟いた。
「しかしいずれにしても不幸なことじゃ。おまえさんがどちらの心も分からんままだということは」
ぷかりと吐き出された煙が、白く執務室の中を濁らせている。カカシどころか、火影のいうことさえ理解できないままイルカは呆然とした。
「もう、行ってもよろしいでしょうか?」
震えないようにそう言うのだけが精一杯だった。思考が急速に纏まりそうな気配がしていた。
そうして不意に気がついた。分からないのではなく、分かりたくないのだ、自分は。多分そういうことなのだ。分かっているのだ、きっと本当は。何が分かっているのか、今はまだ考えてはいないけれど。
火影の言葉も、ひょっとしたらカカシの言葉もきっと多分。カカシの矛盾でさえ、分かっているのではないだろうか。そのことに気が付きそうでイルカは思考を意識的に停止した。
これ以上何かを考えてはいけない。カカシのことを、考えては。まだ分かってはいけない、きっと。
「うむ、ご苦労だったの」
火影はそう言ってキセルをふかしながらイルカに背を向けた。まるで今までの会話などなかったかのように。イルカのことも、カカシのことも分かりやすいと言った老人は、ひょっとしたら何もかも知っているのかもしれない。5年前カカシがイルカの左腕を潰したことも、そのせいでイルカが上忍を退いたことも何もかも、知っているのかもしれない。どうしてカカシがそんなことをしたのかさえ。イルカよりも一回りは小さいはずのその背中がやけに大きく見えた。
何もかも知っているなら、教えてくれたらいいのに。オレがこれからどうしたらいいか、教えてくれたらいいのに。小さな溜め息が知らず口からこぼれ落ちた。未練がましく背中に縋る視線を引きはがしてイルカもドアに手を掛けた、その時。
背を向けたままの里長から不意に言葉が発せられた。
「イルカ、よくない噂がある」
その言葉に首だけ向ける。視線の先には革張りの背もたれがある。
「何でしょうか?」
「笹岡一族の残党が、奈賀月の城に匿われておるという」
「……え?」
「奈賀月の城攻めがもうすぐ始まる。何か良くないことが起こるかもしれぬ」
笹岡一族。5年前の惨状が脳裏を駆けめぐる。あの悲劇がもう一度繰り返されるのか。どうして、今になって。無意識に痛む左腕を押さえたまま、イルカは注意深く息を吸った。困惑を隠せないまま里長の背中に苛立ちを含んだ言葉をぶつける。
「なぜそれを私に…?」
そう、今になって笹岡が何をしようが自分には関係ない話だ。少なくとも、上忍でなくなった自分には。あの一族がもたらした悲劇は自分にとっても悲劇だった。悲痛な痛みが甦って、イルカは深く息を吐き出す。
「………忘れてくれても構わぬが、おヌシの力が必要になるかもしれぬ」
「なっ…!」
「もう行ってよいぞ、イルカ。引き留めてすまなかったな」
それ以上の質問を許さない言葉だった。ひどく勝手な言い分にイルカは思わず舌打ちをしそうになった。悪態すら付いてしまいそうだった。里長に向かって、自分のもっとも尊敬する人物に向かって。またあの戦場に自分を狩り出すのか。苦い思いが胸をどす黒く埋めていく。
「失礼します」
だから足早に執務室をあとにした。戦場に駆り出されるのが嫌なのではない。あの場所で、カカシを思い出すのが、嫌だった。
足早に執務室から遠ざかりながら、纏めようのない乱れた自分の心をイルカは罵っていた。カカシのことも、先ほどの火影のことも。本当は分かっているのかもしれないし、本当に分からないのかもしれない。何が分かるとか分からないとか、それすらあやふやで自分の心がどこかに行ってしまったみたいだった。
カカシのことを許したいのか、そうでないのか。一体何がそんなに辛いのか。カカシを殺してやろうと思うのにできない自分。本当はそう思っていないから出来ないのか、それとも。
それとも。
「イルカセンセー!」
ぐらぐらと煮えたぎるような思考をふつりと遮ったのは、愛しい教え子の声だった。駆け寄るその姿に思わずほっと安堵の溜め息が漏れる。とりあえず、この難問から目を逸らすことが出来たことに。
「ナルト」
相変わらずもの凄い勢いで腰に抱きついてくる子供を受け止めて、その確かな体温に心がじんわりと温かくなった。カカシがいてもいなくても、自分は必要とされている。少なくともこの子供にだけは。
「イルカ先生ラーメン食いにいこーぜ!」
ごろごろと懐く子供に笑みが零れた。これが日常。今のオレにある、日常。カカシは自分の日常ではない。あれは、過去なのだ。もう触れることすら出来ぬ過去なのだから。
「しょうがねぇなあ。もうちょっと待ってろよ、仕事片付けて来るから」
わしゃわしゃと髪をかき混ぜてイルカはナルトに笑う。もう自分からは血の臭いはしないだろう。あの頃の闇もなりを潜めているはずだから。だから大丈夫。カカシがかつて自分にしたことももう遠い過去で、だからなるべく会わないようにするだけだ。
自分はきっと一生許せないから。あの男の事を一生許せないから。
だから、思い出だけでいい。カカシが今イルカに優しくする訳も考える必要はないのだ。オレに必要なのは真実じゃない、きっと。事実がそこにある、そのことがきっと一番大切なのだ。
かき混ぜたナルトの髪の毛からふわりとひなたの匂いがして、イルカは自分がひどく汚れたモノのような気がしていた。
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