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   * * *



 再会を果たしたあの日から、キスを交わしたあの日からどうにも奇妙な日々が続いていた。カカシとは、頻繁に顔を合わせてしまう。下忍の上官というカカシの立場と任務受付所の担当の自分。会わないはずがない。毎日毎日定期的に、否が応でも顔を合わせてしまう。
 それもナルトを始めとした7班の子供達も一緒に。子供達が一緒だから、カカシに対してどういう態度を取っていいのか分からない。それでなくても分からないのに、よけいに分からなくなりそうだった。
 かつての知り合い、という微妙な立場。それを知っている子供達。それすら知らない同僚達。カカシと同じ部隊にいただなんて同僚達には絶対に知られたくなかった。今のこの生活を、崩されたくはなかった。
 始めから中忍だった。上忍になんか、憧れたこともない。そういう風に過ごしてきたのに。
 自分が元上忍で暗部の特務部隊にいただなんて知れたら、同僚達も今までのように気安くはなくなってしまう。子供達にはまだそこまでの判断材料がないからいいけれど、こんな事なら最初の時お久しぶりですなんて言わなければ良かった。
 過去を聞きたがる子供をのらりくらりと交わしながら、さり気なくカカシがそれをフォローしてくれているのが分かった。
 どうして、と思う。どうしてそんな風に優しくするのか。自分との過去を抹殺したがっている人間に、どうしてそんな風に優しくするのだろうか。
 カカシの考えていることが分からない。あんな事をしておいて。あんな風に自分から奪ったくせに。どうして。イルカの疑問は、そうして少しずつ少しずつ胸の中に降り積もっていた。解けない疑問が少しずつ。忘れようと思っていたカカシのことを、気が付けば思いだしている自分をイルカは呪った。
 どうして、どうしてこんなにも、心がかき乱されるのか。子供達の目の前で自分を呑みに誘うカカシ。仕事を口実に断り続けてはいるけれど、頷いてしまうのも時間の問題のような気がした。子供達が不審がるから―――。そんな言い訳をしながら頷いてしまうのも、きっと時間の問題だと、そんな気がした。



   * * *



 そんな風に微妙な均衡を保って表面上は何事もなく過ぎていたある日のこと。
「イルカ先生ー!!」
 盛大な掛け声と共にナルトがイルカに走り寄った。どすんと音を立てて腰にまとわりつきながら、甘えたようにイルカを揺さぶる。
「今日こそはラーメン喰いに連れてってくれってばよ!」
「ったくお前は口を開けばそればっかりだな」
 ぐしゃぐしゃと金の髪をかき混ぜてしょうがないな、とイルカは溜息混じりに笑った。
「分かったよ。お前も頑張ってるみたいだし、しょうがねぇな」
「やった!」
 手放しで喜ぶナルトにイルカも知らず笑いがこぼれる。大きくなったと、大人になったと思った側から、まだ子供だと思わずにはいられない幼い顔をする。この年齢の子供はあっという間に大人になってしまうから、こうしてラーメンを強請られるのもあと僅かかも知れない、そんな風に思いながら。
 ナルトとこうしているときはひどく心が穏やかだった。いつもの日常。カカシのいなかった頃の日常を思い出せたから。遠ざかってしまった平穏な日常。
「早くいこーぜ!イルカ先生!」
 ぐいぐいと腕を引っ張る子供をたしなめようとしたとき、その視界に見慣れた銀の髪が現れた。不意に動きの止まったイルカを不審に思ったのかナルトも顔を上げる。そうして。
「あ!カカシ先生!」
 そうして子供は引っ張っていた手を離すと、カカシの元へ同じように駆け寄った。
「なにしてんだってばよ」
 今度はカカシの手をぐいぐいと引きながらこちらに戻ってくる。余計なことを、と思った。思ってしまった。
 ナルトがカカシにひどく懐いていることは知っていた。なぜあんなにも懐いているのかそれは理解出来なかったけれど、技術的なことだけではあんなにナルトは懐かないだろう、と思う。
 けれども子供思いで優しいカカシなどイルカの理解の範疇をとっくに越えていて、だから懐いている理由などさっぱり分からなかった。ぎゃーぎゃーとナルトがカカシに何か喚き倒している。
「なぁ、イルカ先生、いいだろ?」
 そうナルトに問われたとき思わず、あぁ、と頷いてしまった。何の話だ?ありありと聞いていなかったことが分かったのか、ナルトは不満そうに頬を膨らませる。
「聞いてなかったのかよ、イルカ先生」
「す、すまん。で、何だって?」
「だから、カカシ先生も一緒に食べに行くってよ!」
 嬉しそうな響きを隠しもしないでナルトは高らかにそう告げた。 絶望的な気分に晒されながらイルカはナルトを見た。
 嬉しそうに笑うナルト。自分の恩師と、そして、尊敬すべき上司と。その大好きな二人と大好きなラーメンを食べに行くことが、嬉しくて堪らないのだろう。そういう、屈託のない笑みだった。
 今更なんと言えばいいのか。やっぱり先生仕事があるから、などといって断れるはずもない。こんな嬉しそうな顔を曇らせるなど、できはしない。カカシと顔を突き合わせてラーメンを啜るしかないのだ。あとはカカシが余計な事を言わない事を願うだけ。
 あの頃のことを。自分が上忍だった頃のことを。ナルトが乞い願うままに昔話をしないことを、願うだけだ。
「早くいこーぜ!」
 笑うナルトの後ろにカカシの姿が見えた。良く知った、懐かしい顔が。それなのに眼を細めたカカシの顔は全然知らない人みたいだった。



「ごちそーさまだってばよ!」
 ぺろりと2杯のラーメンを平らげてナルトは神妙に手を合わせて言った。その食欲に苦笑しながらイルカも手を合わせる。会計に立ったのはカカシだった。
「オヤジさん、幾ら?」
 慌てるイルカを後目にさっさと会計をすませてカカシは暖簾をくぐる。その後に、嬉しそうにナルトが続く。
 慌てているのはイルカだけだった。払ってもらう義理など無い。どちらかというとそんなことをしてもらっては困る、とイルカは思った。
 食事中カカシは何も言わなかった。ナルトが聞いてもそれとなく話をはぐらかしてくれた。それだけでも、何となくカカシに負い目を感じてしまっていたのに。感じる必要のない、負い目を。
 のろのろと暖簾をくぐると、先に出ていたナルトとカカシが楽しげに何か会話を交わしているのにぶつかる。仲の良い、師弟といった風の。二人に並んで帰り道を歩きながらどうしても気まずい思いが消えなくて、どことなく上の空で二人のほんの少し後ろを歩いていた。
 ナルトよりもカカシが気になる自分が嫌だった。あの子供よりもカカシの方が深く胸を穿っているのが、とても耐えられなかった。溜息が、零れる。吐いた息が空気に拡散しているのをぼんやりと眺めていたイルカに、ふとナルトが振り返った。
「なぁ、イルカ先生とカカシ先生って仲悪いのか?」
 ひたと見つめる子供の澄んだ瞳にイルカは瞬間怯んだ。見透かされている、こんな子供にまで。息を詰まらせたイルカに何を思ったかカカシが助け船を出した。
「仲悪いっていうんじゃないんだ」
「じゃあ何で全然口聞かないんだよ。友達なんだろ?」
 子供は鋭い。何気ない顔をして、ずっと見ていたのだ。再会したあの日からの自分たちを。ぎこちなく笑みを浮かべる、自分を。
「友達、だったっていうかなぁ。オレがねぇ、イルカ先生に酷いことしちゃってさ」
 カカシは何でもないことのようにナルトにそう言った。酷いこと。確かに酷いことをされた。けれど。それはそんな風に簡単に言ってしまえるようなことではないはずだ。
「ヒドイこと?カカシ先生何したんだってばよ」
「ん〜、それはな」
 寝とぼけたようなカカシの声に、瞬間頭に血が上った。
「カカシッ!」
 頭に血が上っていたとしか思えない。気が付いたときにはカカシの胸倉を掴みあげていた。
「お前…!」
 何を言うつもりだ、と問い質したかった。この、子供に一体何を言うつもりだと。
「何も言わないよ。お前が望まないなら」
 カカシはナルトには聞こえないくらい小さな声でそう呟いた。その言葉に掴んだ手の平をほんの少し弛める。一体何を考えているのか。
「イルカ先生、どうしたんだってばよ」
 ナルトは不安そうにイルカを見上げている。ほんの少し、怯えたような表情を浮かべて。
 その声に強張っていた力が抜けた。カカシを掴んでいた右手がするりと離れる。感情は顕わにしないと、誓ったはずなのに。この男の前では決して感情的にはなるまいと、誓ったのに。よりにもよって教え子の前でこんな風になってしまうなんてどうにかしている。
「何でもない、何でもないんだナルト」
 カカシは何も言わないでイルカを見ていた。
「だったらいいけどよ」
 ナルトはまだ何か言いたげにイルカを見上げている。言葉が上手く纏まらないようにもどかしげに眉を顰めて、そしてくるりと背を向けた。
「…ナルト?」
「オレもう帰るからさ」
 さりさりと土を踏みしめて二人から遠ざかりながらナルトは言った。訳も分からず見送っていた背中がぴたりと止まって、振り向いて。そして。
「あのさ、二人に仲直りして欲しいんだってばよ、オレは。だからさ、カカシ先生も悪いことしたんなら素直に謝れよな!イルカ先生もいつまでも怒ってたらダメなんだってば!」
 わかったかよ!
 そう言ってほんの少し照れたような顔をして、子供は今度こそ走り去った。月明かりに照らされて遠ざかる背中を見ながらイルカは溜息をついた。
 子供は許してやれと言う。いつまでも怒っていてはダメだと、そう、言うのだ。それは自分が子供達に言ってることと同じだった。そう、あの子もそうやって教育してきたのだから。ふらりとこちらに寄ってくるカカシに振り向きもしないまま、イルカは口を開いた。
「一体どういうつもりだ」
 拒絶の色の濃い声だった。そんな事にはお構いなくカカシは歩みを止めない。
「カカシ、一体どういうつもりなんだ、お前」
 カカシは質問に答えないまま、ほんの触れるほど近くまで来てようやく立ち止まった。
「聞いてるのか?」
 苛々と問いかけるイルカにカカシは笑う。
「一体なんのことについて聞きたいの?」
 くつくつとからかうように笑いながらカカシは問い返した。いちいち気に障る、と思う。けれど、それを気取られるわけには行かなかった。極めて冷静に、何でもないようなふりをして。
「一体ナルトに何を話すつもりだった?」
「何も話すつもりなんて無かったさ」
 極めて冷静に。そう唱えながら問うたイルカに、何でもないようにカカシは言った。その答えにイルカはただ混乱するだけで。
「…じゃあ何で…?」
 吐き出す息と共に口に出せたのはそれだけだった。カカシがどんな表情をしているのか、それが妙に気になってイルカはカカシを振り返って見た。
「何で?そりゃ簡単な理由さ」
 振り向いた先、視界に映ったカカシはとても綺麗な顔で笑っていた。見るモノを魅了する、優しいとさえ思える笑顔で。それをなぜだか、酷く怖いと思う。
 一体何が、簡単なんだろう。カカシの口からこぼれ落ちる台詞が何であろうとも、それがイルカを満足させることなんて有り得ないと、思う。なぜ聞いてしまったのか。
「簡単な理由なんだよ、イルカ。オレはね、お前にもう一度昔みたいに呼んでもらいたかった。それだけさ」
 はたけ上忍なんて呼ばれたら吐き気がする。そう言ってカカシは満足そうに笑った。笑うカカシにそうしてようやく気が付いた。
 とっさに昔のようにカカシに話しかけてしまっている自分に。



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