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   * * *





 体は震えてはいなかっただろうか?
 手は?声は?震えはしなかっただろうか?
 あの人を目の前にして、みっともなく無様に、震えてはいなかっただろうか。
 久しぶりに会ったあの人は、懐かしい同僚に会うような顔をして笑った。まるで何もかも忘れてしまったみたいに、笑ったのだ。誰も気が付かないくらいのほんの僅かな瞬間あの人の瞳に浮かんだ殺意を見逃していたら、オレはその場であの人に一体何をしたか分からない。
 昏い底のない闇をまだ、あの人はちゃんと抱えている。闇の中にオレを飼ったまま、何もなかったような振りをしている。
 その事に気が付いた瞬間の気の狂いそうな歓喜に、あの人は多分生涯気付きはしないだろう。

 この出会いは、偶然なんかじゃない。込み上げる笑いを堪えられたことに、自分の忍耐力を褒めてやりたいくらいだった。





   * * *





 じゃあまた、そう言って別れた。また、だなんて真っ平ゴメンだ。
 そう思うものの自分が任務受付所の当番をしている限り、近いうちに否が応でも顔を合わせなくてはならない。暮れかけた商店街の人混みを歩きながら、イルカは深い溜息を漏らした。
 会いたくなかった。出来るならばもう二度と。会わなければ何も思い出すことはなかっただろう。会わずにいられたのならば、苦い思い出ではあるけれど彼を過去の人に出来たかもしれない。
 けれど、出会ってしまった。自分があの時のことを忘れられない以上、もう一度出会うような気はしていたけれど、こうして本当に出会ってしまうとどうしていいのか分からなかった。
 どうしていいのか、なんて。どうにも出来ないことなんか分かってる。彼は上忍で自分は中忍。自分の実力でアレを括り殺すなんて事が出来るわけがなかった。
 ましてやこの鈍った身体では到底無理だ。無理だけれど。自分たちは再び出会ってしまったのだ。この再会が一体どんな意味を持つのか、イルカにはまだ想像も付かない。
 久しぶりに会ったカカシは、あの時と同じ瞳でイルカを見ていた。ほんの一瞬でイルカの全てを喰らい尽くすようなあの時と同じ瞳で。自分が忘れていないように、彼もまだ自分を過去の遺物とは思ってくれていない。
 忘れてくれたらいいのに。本当に何もなかったように、忘れてくれていたらよかったのに。それでも心のどこかでまだカカシの執着を疎んじてはいない自分が、いる。
 夕飯の買い物を片手に商店街を抜けアパートまでの道をのろのろと歩きながら、ふと気が付けばいつの間にかカカシのことを考えてしまっていた。
 かつて自分の隣で笑っていたカカシ。それと同じ顔で、今日、カカシは笑った。笑い顔も、声も、何もかもカカシは全然変わっていなくて。変わってしまったところなど、見つけることも出来ないまま。
 だからこんなにも心がかき乱されるのか。まだ絶望の意味さえ知らなかったあの頃の自分。そんな自分が哀れで不幸でだからこそこんなにも胸が痛むのだろうか。
 一人鬱々と考えながら歩くイルカの肌を不意にちり、と何かが掠めたような気がした。経験ではなく本能が何かを察知したような、そんな感覚。
 イルカは立ち止まって辺りの気配を伺った。静かな水面に広がる波紋のようにゆったりと皮膚を掠めた感覚を追ったが、取りあえず目立って不審なものはないように思う。
 気のせいか?
 思うまでもない、気のせいに決まっている。ここは里の中なのだ。戦場ならともかく、里の中でそんな気配を感じるなんて事有り得ない。カカシに会ったことで、神経が過敏になっているだけだ。
 だからそれは、気のせいに決まっているけれど。けれど心のどこかで、この先の道にカカシが佇んでいるような気もしていた。自意識過剰なのかもしれない。カカシに再会してから少し神経が高ぶりすぎている。
 出会っただけなのに。ただ出会っただけなのに。5年も経っているのに。その歳月にあざ笑われるかのように、自分はあの時から一歩も前へは進んでいない。
 カカシに再会して、その事を思い知らされた。左腕に負った古い傷跡がじくりと痛みを訴えたような気がした。

 そして。

 アパートまでもう少しという、その道の傍らにやはりカカシが佇んでいた。気配を殺して、佇んでいた。
「こんばんは」
 そう言ってカカシは、空々しいまでに明るく笑った。
「こんばんは、イルカセンセイ?」
 カカシは笑っていた。顔のほとんどを隠しているが、分かる。
 以前と同じように。彼が自分の側に当たり前のようにいた頃と、同じように。顔のほとんどを覆い隠してしまっていたけれど、カカシが笑ったのが分かった。分かって、しまった。
 黙ったままそこから動こうとしないイルカに、カカシは一歩近づく。
「ねぇ、挨拶も返してくれないの?」
 返したくないのは確かだった。それ以上にカカシにこうして1対1で対峙することに動揺して、それどころではないというのが本音だったけれども。そうしてカカシはそれを知っているのに、聞くのだ。
 ざりざりと音を立ててイルカに近寄るカカシ。この人がここでこうして待っていることを、自分は察していたというのに。心のどこかで、分かっていたのに。
 何故逃げなかったんだろう。不審な気配を感じたと思った瞬間、踵を返すべきだった。たとえ今日家に帰れなかったとしても、カカシに会うくらいなら逃げた方がマシだったのに。
 何故か自分は知っていて逃げ出さなかった。逃げ出せなかったのかも、しれない。
「久しぶりだね、イルカ」
 唐突にカカシはそう言った。あの頃と同じような、親しみを込めた柔らかな口調で。その事にまた、ひどく動揺してしまう。この男は一体、何を考えているのだろう。
「元気そうで安心したよ。そうそう、三代目から聞いたんだけどアカデミーで教師をしてるんだってね。仕事の方はどう?」
 笑みを張り付かせたまま、カカシはそう問いを重ねる。この男が一体何を考えているかなんて分かるはずもない。もうずっと、あの頃から。
 ざりざりと音を立てて近づくカカシにイルカは無意識に距離を開けようと下がる。下がって、そうして背中に堅い感触を感じて初めて、自分が追いつめられていることに気が付いた。壁を背にイルカにはもう逃げる場所もなく、カカシは歩みを止めない。
「―――左手の調子はどう?」
 世間話でもするように何気ない口調でカカシは聞いた。左手の、調子はどう?今はもう塞がってしまったその傷口が、瞬間じわりと痛みを訴えた気がした。
 調子なんて、悪いに決まってる。カカシの考えていることなんて、今も昔もさっぱり分からない。どの面下げて、今更左手の調子なんか聞くのだろうか。
「…一体何が聞きたいんです、あなたは」
 やっとの事で絞り出したのは、そんな台詞だった。
「何って、その左手のことだよ」
 嗤う、カカシ。口先だけは楽しそうに。そのくせちっともその眼は笑ってなくて、イルカは知らず背筋が震えた。この男は、何も変わってはいない。あの頃から、あの時からずっと、今まで、何一つ。何一つ変わってなどいない。
「もう引退してると思ってたのに」
「引退?」
「そう、その左手が使い物にならなくて、もう忍者をやめてると思ってた。なのにアンタの左手は問題なさそうだし、アンタはまだ忍者のままだ。どうして?」
 イルカの顔の横に両手をついて、カカシは笑いながらそう聞いた。どうしてだなんて、こっちが聞きたいくらいなのに。
 なぜあんな事をしたのか。なぜ、あんな事をしたくせに、俺の前に平気な顔で現れたりするのか。問いに答えることも問いを返すこともなく、イルカは黙ったまま俯いた。
 目の前にはカカシがいる。この距離なら、ひょっとすると仕留めることが出来るかもしれない。息の根を止めるまで行かずとも、相当の深手を負わせることが出来るのではないかと、ふと思った。
 ホルダーからクナイを抜き出す右手には何の問題もない。問題があるとすれば、それは。5年の間に培われた戦闘経験の差だけだ。カカシは油断しているのか、していないのか。
 じり、と身の内を灼く感情の正体をなんと位置づけていいのかイルカには分からない。分からなかったけれど。
 純粋な殺意はぐるりと全身を巡り、右手の指先に留まっていた。ここでカカシを殺すことは、思うよりずっと容易いのかもしれない。イルカの心を見透かしたようにカカシは眠たげな目を細めた。
「オレを殺すには力が足りないね」
 くすりと笑いを漏らしてカカシはイルカの右手をそっと握りしめる。愛しい人の手を握るような優しさを滲ませて。
「あの頃のイルカなら簡単だったろうに」
 くすくすと笑いながらカカシはイルカに顔を寄せた。空いた手で口布を引き下げながら、笑う。
「逃がさないよ。もう、二度と」
 そうして久しぶりに素顔を晒したカカシは触れそうなくらい近くまで唇を寄せて囁いた。
「逃げる口実も逃げる時間も用意したのに、逃げなかったイルカが悪い。だから、もう、逃げられないよ」
 可哀想にね。可哀想に、とカカシは囁いた。嬉しそうに。ゆっくりと唇が押し当てられてもイルカは逃げることも出来ないまま立ちつくしていた。
 逃げられたのに逃げなかったのは、自分。逃げたくなかったのか、逃げられなかったのか。いずれにせよ、この男がこの先自分の回りをうろちょろするようになることは確かな事実だった。
 ならば、殺す機会が増えたと思えばいい。この男に、復讐するチャンスが巡ってきたと思えば、いいのだ。
 触れた唇は灼けそうに熱く、握られたままの右手が震えていることに気が付かれていると思いながら、イルカは胸を締め付ける痛みの正体にわざと気付かないふりをしていた。





 口付けられていたのは一体どのくらいの間だったのか。ひどく長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。ただ回らない頭を抱えたまま、イルカはカカシが自分の唇を貪るのを、何か遠くの出来事を見るような気分で見ていた。
 唇が離れても感触はまだそこに残ったまま。イルカはカカシの濡れた唇をぼんやりと眺める。口付けは、甘かった。
「そんなに無防備な顔してたら、攫っちゃうよ?」
 密やかに耳元に落とされた声に、我に返る。にこりと綺麗な笑みを浮かべてから、カカシは口布を引き上げた。隠れる素顔。
「じゃあまたね、イルカ先生」
 そうして唐突に、カカシはいなくなった。イルカは混乱を引きずったま、ままだその場から動けない。寄りかかった壁は自分の体温にまで温まっていた。
 壁により掛かったままイルカは大きな溜息を吐く。ここに寄りかかるものがあって良かった。そうでなければ、震える足を支えるために、カカシに縋り付いていたかもしれない。
 カカシが腹の底で何を考えているか分からない。相変わらず、その思考回路は読めないままだった。
 けれど、カカシの気持ちは分かる。分かるような気がした。カカシは自分を手に入れようとしている。それは、多分間違いないように思う。
 カカシの思考は思ってる以上にシンプルなのかもしれない。複雑なのは、自分の思考回路だった。
 あれだけ憎くて殺したいと思ってるのに、いざというときには金縛りにあったように身体がまるでいうことを聞かないなんて。キスされている間なら左手でも、カカシを殺せたろうに。自分の身体も自分の思考も、あっけなく活動を放棄していた。
 殺したいのか、殺したくないのか。まだ憎んでいるのか、もう許しているのか。否、許してるなんて事があり得るだろうか。
 彼が奪ったものはあまりにも大きく許せるようなものではない。それなのになぜカカシを目の前にすると何も出来ないのだろうか。
 分からない。答えの見あたらない自分の思考を半ば放棄しつつ、イルカは小さく息を吐き出した。

 あの男を殺せば、答えは見つかるだろうか。



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