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昨日からも明日からも永遠に遠い今日のために




「はたけ、カカシ…?」



 ナルトの担当上官になる男の名前を火影から聞き出したイルカは、愕然として呟いた。忘れたくとも忘れられるはずもない、その名。
「うむ。おヌシが驚くのも無理はないの。何年ぶりだ?」
 呑気に話の矛先を向けた火影に、イルカはらしからぬ態度で食ってかかった。
「火影様何故です!何故、あの男が暗部から…?!」
 なぜ。どうしてカカシが今になって、暗部から下忍担当の上忍になるというのだ。もう二度と会うこともないと思っていたのに、何故、今になって。
「他に誰がナルトの面倒を見られるというんじゃ、イルカよ。それに7班にはサスケもおる。写輪眼使いがカカシしか居らぬ今、カカシ以外に適任はおるまいよ」
 静かな火影の声にイルカは腹の底から湧きあがってくる熱い息をようやく吐き出した。確かに、他にナルトの担当上忍になれそうな人間は、思いつかないかもしれない。
 そうでなくとも7班は難しい編成の班だ。たった一人残されたうちはの直系サスケの正統な写輪眼を発現させることが出来るのはカカシしかいないかもしれない。
 けれど。だけれども、それでも。カカシから一番遠い場所に来たと思っていたのに。
「それにの、イルカ」
 ぽつりと呟いた火影の声にイルカは顔を上げる。それに?
「あやつはもう何年も前から暗部の脱退要請を出しておる。今までは担当する下忍が見つからなかっただけじゃ」
 笠の陰に隠れた老人の顔にどんな表情が浮かんでいるのか、イルカには分からない。
「しかし…」
 分からないけれど、でも。カカシと再び相まみえなくてはならない、その事がイルカの心にひどい動揺を与えていた。
「しかしも何もあるまい。カカシは下忍の担当になった、それだけじゃ」
 この老人は全てを知っているわけではあるまいが、それでも何か察するところがあるようでそれ以上は何も言わなかった。がたりと音を立てて椅子から立ち上がる。
「何年ぶりの再会かの?」
 立ち去り際、もう一度そうイルカに訊ねた。あれから、一体何年が過ぎたのか。思い出すまでもない。ずっと忘れたことなどなかったのだから。
「…5年、です」
 喉の奥がひり付いて、上手く声が出なかった。掠れた声でようやく絞り出したその年月に、イルカ自身が驚いた。あれから、もう、5年も経っているのか。
 忘れた事など一度もなかったけれど、改めて口に出したその年月の長さはイルカの心に言いようのない鈍い痛みを与えた。
「そうか、もうそんなになるかの。早いもんじゃな」
 そう言った火影の声色からは深い感情は全く読みとれない。ただ本当に過去を懐かしんでいるのか、それとも、それ以上の何かを知っているのか。
 歴代の火影の中でも在任期間は群を抜いて長いその老獪な人物は、一体どれほどの真実を胸に秘めているのだろうか。火影に返す言葉を見つけることも出来ずにイルカは俯いた。
「お前さんがあれほど優秀な上忍だったことも、暗部に属していたことも、今ではカカシとワシくらいしか知らぬ事実になってしもうたの」
 一抹の寂しさを滲ませて老人はイルカの肩を叩いた。軽く、触れるか触れないか。そんな風にイルカの肩を叩く人間も、もう多分、火影以外には一人しかいない。そんな風に腫れ物に触るみたいにそっと触れる人間なんて、たった二人だけしか、居ない。
「オレはしがない中忍教師ですよ」
 去り際の火影に聞こえたのかどうか、ほんの小さな声でイルカは言った。
 そう、自分は中忍に過ぎない。カカシは上忍で。上忍のままで、そして自分の生徒だった子供達の担当上官なのだ。だから、そういう顔をしなくてはならない。何事もなかったように、普通に。
 そうして必要以上に近づかないように、しなくては。カカシを目の前にして本当に平常心が保てるなんて思ってはいなかったけれど、だからこそ平気な顔をしなくてはいけない。この心中の何一つとしてカカシに悟られてはならない。
 イルカは苦渋に満ちた顔で深い深い溜息を付いた。カカシが7班を合格させれば、あと数日もしないうちに再会してしまうだろう。あれほど会いたくないと思い、会わないためにここへ来たのにまた出会ってしまう。
 これは避けられない事実で。自分が受付の席に座っている以上、避けられない事で。だから、この感情をけして表に出さないよう細心の注意を払わなくてはいけない。心の準備をするには数日という不確定な時間は短すぎてイルカの溜め息はますます深くなる。
 火影が立ち去ってからしばらくの間そこから動けないまま、イルカは深く過去に取り込まれていた。怒り、悲しみ、裏切られたことの絶望や築いてきた全てのものが灰燼に帰すその瞬間。封印した過去は、忘れ去ってしまったはずの過去は、その名を聞いただけであっさりと鮮やかに甦った。
 あの時の痛みを、つい昨日のことのように思い出せる自分がいる。身体の傷は確かに癒えた。けれどあの時からまだ心は血を流したまま。ざっくりと斬りつけられて、血を流したまま。
 その傷口は塞がることなく、そこにあった。ただ見ないようにしていただけなのだ。見て見ぬ振りをして、何もないような振りをして、自分を偽っていただけなのだ。まだこんなにもカカシに捕らわれている自分。
 憎くて憎くて殺しても殺し足りないと思うほどに、あの男に捕らわれている。忘れたと、もうあんなのは過去のことだと、次にもし再会するときが来ればそう言えると信じていたのに、まだ全然過去になんてなっていない。
 醜い負の感情がまだこんなにも心を真っ黒に塗り潰している。笑って何もなかったように振る舞って、あの男の妄執を切り捨てようと思っていたのに。どうして、まだこんなにも。
「クソッ!!」
 力任せにテーブルを叩いて、イルカは吐き捨てた。まだ5年しか経ってなかったのだ。あれからまだ、たった5年しか。無意識に左腕を握りしめてイルカはようやくのろのろと腰を上げた。
 明日か、明後日か。いずれにせよ再会の時は目前まで迫っている。心の整理をしなくてはならない。何気ないふりをする準備を。

 けれど。

 けれど再会の時は思っていた以上に早く訪れることになる。イルカの心にはまだ、処理しきれないどろりとした醜い感情が抱えられたまま。



   * * *



 火影と別れ午後の日差しが差し込むアカデミーの廊下を一人職員室へ向かって歩く。校庭で駆け回る生徒達の声がまるでスクリーンの向こうの出来事のように聞こえていた。
 ざわざわと心がいつまでも落ち着かないのは、来るべき再会が目前まで迫っていると分かっているからだ。この動揺は明日になったら収まるのだろうか。明後日になったら?
 なにより苛立たしいのはカカシのことでこうまで動揺してしまう己の心の弱さだった。忘れて笑い飛ばしてやることすら出来ない。この心に深く根を下ろした憎悪。
 薄い膜越しに聞こえているような校庭の子供達の声に、ふとイルカのよく知った声が混ざった。
「イルカ先生ー!」
 遠くから聞こえる声は確かに自分を呼んでいる。呼ばれるままに振り向けば、満面の笑みを湛えた金髪の子供が手を振りながらこちらへ駆けてくるのが見えた。
 そうしてイルカに走り寄る金の子供の後ろに、カカシは、いた。5年前と寸分違わぬその容姿。少し猫背気味に歩くその姿。懐かしい、そう、思った。本当にその姿はひどく懐かしかった。
 懐かしさとともに押さえきれない憎悪が湧き上がったとしても。今はそれを、カカシ以外の誰にも気が付かれてはいけない。
「イルカ先生っ!」
 子供は腰にじゃれつきながら嬉しそうな様子でイルカに捲し立てた。
「先生、オレ受かったってばよ!今日から忍者だってばよ!」
 見ればサクラはもちろん、あのサスケまでもが嬉しそうな表情を浮かべている。
「ホントか?よく頑張ったな!」
 ぐしゃぐしゃと金色の髪をかき混ぜて、イルカはいつもと同じように笑った。そう、いつもと同じように。決して誰にも気取られてはいけない。
 わいわいとまとわりつく子供をひとしきり褒めてやってから、イルカは改めてカカシに向き直った。再会はあまりにも突然でイルカは自分が平静でないと分かっていながら、それでもこの場を乗り切るにはカカシに話しかける以外道はない。
 息を吸い込み視線をあげたその先で佇むのは、懐かしい影。どう声を掛けるべきか迷ったのはほんの一瞬だった。
 何もなかったように。まるで自分たちの過去には何の不幸な出来事もなかったかのように、しばらくぶりに合う只の知り合いみたいな顔をしなくてはならない。
「お久しぶりです、はたけ上忍」
 笑う顔を作る。とても懐かしい人に久しぶりに会うような、笑顔を、作る。心の中でそう唱えてみても、上手く笑えてる自信なんてこれっぽっちもなかった。
「お元気でしたか?」
 カカシが何か言うのが怖くて立て続けに捲し立てるみたいにそう言ってしまう。問いかけたイルカに答えたのは、好奇心を刺激された子供達だった。
「え?イルカ先生とカカシ先生って知り合いなんですか?」
 そう問うたのはサクラ。
「友達なのかよ?」
 矢継ぎ早に言葉を継いだのはナルト。さすがにサスケは口を挟むことはしなかったけれど、その瞳にありありと二人と同じ疑問が浮かんでいてイルカは苦笑した。明け透けで、何を聞くことも躊躇しない子供達が羨ましいくらいだ。
「昔な、先生がまだアカデミーの教師になる前、同じ部隊にいたことがあるんだ」
 イルカはただ事実をありのまま話した。省いた部分も多大にあるものの、それは嘘ではない。かつて自分は彼と同じ部隊に、いた。きゃあきゃあと詳しい事情を聞きたがる子供を遮るように、今まで黙っていたカカシが不意に口を開いた。
「………お久しぶり、です」
 たった、一言。その声に、無意識に体が震えた。あの頃とまるで変わらない、柔らかい声。何度も何度も数え切れないくらい、あの声に、名を呼ばれたのだ。
 かつて。
「でもさ、イルカ先生が先生じゃなかった頃なんて想像も付かないってばよ」
「そうよね、確かにイルカ先生ってずっと先生って感じだもんね〜」
 二人の言葉にサスケは黙って頷いた。子供達のその言葉に、イルカは気が付かれないほど小さく安堵の息を漏らした。
 上手くやれている。誰もイルカが、長い間戦場に身を置いていたなんて思いつかない。そのくらいには、上手くやれている。
 染みついた血の臭いは絶対に落ちないと思っていたけれど、それを誰にも気が付かれないくらいにはちゃんと教師をやれているらしい。
「イルカ、先生も、結構凄い忍者だったんだぞ」
 騒ぎ立てる子供にカカシが口を挟んでそう言った。イルカ、というその単語が、カカシの薄い唇から紡がれる。たった、たったそれだけのことにイルカはひどく動揺した。
 かつて共に戦場を駆けたとき、気が遠くなるくらいあの唇が紡ぎ出した、単語なのに。何年もその声が自分の名を呼ぶのを、聞いてなかったからなのか。心がさざめくのは、一体どういう感情なのだろう。
 知らず動揺する心をイルカは叱咤する。カカシにまつわる感情は、封印すると決めたではないか。何の気紛れかは分からないがカカシは自分に話を合わせてくれている。
 だから彼とはただの知り合いなのだ、と言い聞かせた。昔戦場を共にした、ただの知り合いに過ぎない。必死で言い聞かせる。
「そんなことないですよ」
 笑いながら、懐かしい相手と昔話をするみたいに。子供達からの矢継ぎ早の質問をのらりくらりとかわしながら、イルカはカカシの喉元にふと視線を合わせた。
 今ここで、あの首をクナイで掻き切ったのなら、このもやもやとした感情は晴れるのだろうか。あの首から吹き出す鮮血に身を染めれば、身の内に巣くうこの感情は、消えてなくなるのだろうか。

 上手く笑えてる自信なんて、どこにもなかった。



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