子供たちの試験は極めて厳正に行い、その結果下忍引き上げには至らなかったのだが、火影にはご不興を買ったようだ。それもそのはずで、ナルトのためにもカカシを子供たちに馴らしておく心積もりがぶち壊しになったからだ。しかしカカシは自分の判断を間違ったとは思っていない。あの子供たちの覚悟程度ならすぐに死んでしまうだろうし、一番最悪な事は子供たちも火影もそれをわかっていないということだ。
ただ、これでアカデミー職員であるイルカとの接点がなくなってしまったのは痛かった。私事のために子供たちを犠牲にする気にもなれなかったので、ここは涙を呑んで次の機会を待つ事にした。最長でも四ヵ月後のアカデミー卒業試験の後には会えるのだ。居場所が解っただけでも良しとしなければ――――と自分を励ますカカシだった。
しかし、その翌日報告書を提出する受付で邂逅した人物は、イルカだった。
「あ、はたけ上忍」
「あ…」
思い切り笑顔で迎えられてカカシは思わずあとずさる。
「報告書ですか? お受け取りしますよ」
促されてカカシはおずおずと書類を差し出す。少しカカシは後ろめたい気分だった。なぜならば昨日は下忍承認審査であっさりと彼の生徒に落第の烙印を落とした張本人こそカカシなのだから。もしかして師さえ違えば彼らは余命が短くなろうとも下忍に昇格していたかもしれないのに。
しかし、イルカはそんなことを表情に出さず、丁寧にカカシの書面に目を走らせている。何のわだかまりも抱えた様子がなくて、カカシは戸惑いを隠せなかった。
「あの、…なじったりしないの?」
「――――は?」
考えても見なかったことを問われてしまったという顔をして、イルカは再びカカシを見上げる。
「その、子供たちを失格にしたから…」
そのカカシに言葉に、イルカは、ああと漸く何のことか理解したようで何度か頷くと、そんなことしませんよ、と笑った。
「もうあの子供たちは俺達が教えられることは全て教えているつもりです。それでも上忍の方々に役立たずの烙印を押されたというのはきっと、子供たちに覚悟が足りてなかった所為だと思うんですよ。簡単に下忍にして捨て駒にしてしまうの楽ですけど、きちんと見極めて落第を決められる事は彼らにとって悪い事ではないと思っていますので」
その答えにカカシは心が震えるのを感じた。
当の子供たちも火影だってカカシの判断に難色を示したのだ。カカシの考えを聞く事もなく。それに対してイルカはカカシの心境に近い感想を抱き、カカシを責める事もせずに笑っている。
あまりに思考の近さにカカシは感動さえ覚えてしまった。
「あの、あなたは…えー…」
本当は名前を知っているけれども、そらとぼけてみれば。
「ああ、イルカです。うみのイルカ」
ようやくイルカは自分が自己紹介をしていないことに気が付いたのか笑顔で手を差し出してくる。いろいろと順番が変だったがこれで正式に出会えた事になって、カカシは緊張を押し隠してその手を取った。
「うみの先生…」
呼び方は違うけれども、久しぶりにその名前を舌に転がしてみれば、心臓がときんと脈打つ。
「うみの先生はよしてください、イルカで良いです」
みんなそう呼びますから、とイルカは以前と変わらない心安さで笑いかけてくれた。
もうカカシは認めるしかなかった。
イルカのことが好きだ。
男ということは最早大した障害ではない。カカシは二年前にもイルカを抱いているのだから、間違いなくそういう対象になり得るのだ。
それから何故かカカシがびっくりするほどにイルカはカカシに懐く様子を見せて、一緒に食事をするような仲になるにはそう時間を要しなかった。
イルカを好きだと認めてしまえば心は納得して落ち着いたし、仕事にもやりがいを見出せるようになった。何より夕方になってイルカに会えることが楽しみになっていた。
思い返してみればカカシにはこれまで楽しみというものは少なかった。嗜好という意味での趣味はなかったし、特定のおんなや友達が常駐しているわけでもなく、娯楽という娯楽に触れたこともない。酒にもドラッグにも強いカカシだが、それを楽しんだという経験は今まで全く無かったのだ。
裏表紙に載った作品紹介を読んでイルカとカカシの出会いに似てると感じたイチャイチャパラダイスという本に今、嵌りきっている。
「カカシ先生って面白いですね!」
それを白状すればイルカは裏を全く感じさせずに明るくそう言った。
「そうですか?」
「そうですよ。上忍でお金も持ってるし、身長も高いし、仕事も出来る。もてそうで遊んでいそうなのに、唯一の娯楽がコレ」
これと指差したものは卓上のイチャイチャパラダイス、通称イチャパラの前編。
「遊んでいそうってなんですか…」
確かにそんな時期もあったかもしれないが、それは里の外の事であって、イルカには知る由も無いはずだ。
「聞きましたよ〜。カカシ先生って実は外回りの上忍だったんそうですね。その頃の部下という人がアカデミーにも居まして」
「あ〜…」
カカシは星の数ほどの部下を今まで抱えているから、きっと顔を見ても名前を聞いても思い出せないだろう。そして、それだけの数が居れば一人や二人アカデミー教員として働いていてもおかしくは無い。
「過去のことですよ。今は違います」
そこだけは明言しておかないと、ときっちりはっきり「今は」にアクセントを置けば、イルカは知っています、と再びけらけら笑った。
「そうじゃないと俺なんかとこんな所でほぼ毎週飲み歩いたりしませんよね」
こんなところでとは、確かによく言ったもの。カカシはイルカと付き合いを持つまでこういう大衆居酒屋で飲み明かす事なんて殆どなかった。周りはざわざわとしているし、綺麗な女性が接客しているわけでもない。むさいオヤジの経営するむさい集団の集まりだ。
「イルカ先生と一緒に飲むのが楽しいからですよ」
「またまた〜」
至極まじめにそう告げたはずなのに、イルカにはあっさりと切り捨てられてしまった。
「正直カカシ先生は彼女とか居ないんですか?」
酔っ払いの無遠慮さで、イルカは天真爛漫な様子でカカシにものを訊ねる。素面ならばこんな風なあけすけな聞き方はしないし、そもそもプライベートな質問に至る事も無い。それを少し寂しいと思っていたカカシはだから、イルカに酒を飲ませるのは大好きだ。
「…そっくりそのままお返ししますよ」
そして、それはカカシの聞きたかったことでもある。
期待を押し隠してイルカの様子を伺えば、素直に答えを考えている。
「んーそうですねー…、お付き合いしている方は居ませんが、随分前から好きな人は居ます」
ぐぐっと胸に岩が落ちてきたような圧迫感があった。イルカはカカシにとって重大な事を滑らせたという感じではなく、ごく軽い調子でカカシ先生はどうですかと話を振っている。勿論カカシはそれに乗ることが出来ずに強引に話を戻した。
「その随分前とは何時ごろなんですか…」
カカシの声のテンションは地を這っていたが、イルカはそれに気づかない。
「そうですね〜、確か……二年くらい前でしょうか……」
「二年… え、二年?」
その単語にカカシが引っかかると、イルカは子供のようにはい、と頷いた。
「俺の戦忍として最後の任務で出会った人なんですけど…」
酔いの所為なのかその時の事を思い出している所為なのか、うっすらとイルカの頬が幸せそうに赤く染まる。
「ちょっと普通じゃない出会い方だったし、顔も知らないんですけど」
「か、顔を知らない…」
そのことにカカシは動揺する。
戦地は二年前にも沢山あったが、カカシは偶然イルカと出会った地がある。そして、その頃カカシは暗部として顔を隠していてイルカに知られているはずも無い。
「普通じゃない出会い方って…?」
そのことを訊ねるとイルカはさっきまで饒舌だったのに、急に口を閉ざして、その代わりに顔を真っ赤にさせた。
つまり言いにくくて恥ずかしいことなのか。それというのは、カカシがイルカと出会ったときと同じようなシチュエーションなのではないか。
「もしかして、いきなりエッチでもしちゃった…?」
冗談の調子でそう告げてみると、みるみるうちにイルカの顔に赤みが増す。このまま頭に血が昇って失神するのではないかと心配するほどだが、その変化はカカシに肯定を示していた。
「まさか本当に…?」
駄目押ししてしまえば、果たしてイルカは小さく頷いたのだった。
つまり、今イルカの好きな人というのは二年前のカカシという事か。それを自覚した瞬間に色々な計算や考えがカカシの中を廻る。
カカシはイルカにただの上忍として目の前に現れて、漸く打ち解けてきたばかりだ。そしてイルカのことを好きになり、あわよくばもっと仲良くなりたいと思っている。しかしイルカには好きな人が居て、それは顔も名前も隠した過去のカカシ。勿論名乗り出る事は暗部規定違反だし、もし規定で定められていなかったとしても、そ知らぬ顔を通していた手前今さら名乗り出る事なんて出来るわけもない。しかし、過去の自分とはいえ、両思いであることが解って嬉しい気持ちも強かった。
どうしよう。
目の前には本当は両思いのイルカ。
「あの、そんなのの、どこがよかったの…?」
その質問にイルカは顔を上げたり俯いたり、周囲を見回したりしたのち、出ましょうかとカカシを外に誘った。
会計を済ませて外に出ると、取り巻く空気が急に静かになっている。居酒屋の喧騒は過去の事になった。
二人は並んで家までの道のりをゆっくりと歩く。既に深夜と呼ぶに相応しい時間になりつつあったから、人通りもまばらだ。
「…あの、驚かないで聞いて欲しいんですけど…」
イルカはカカシの方にも進行方向にも眼を向けずに、ただ赤い頬を持て余したまま俯いて歩く。
もう、きっとこれ以上びっくりするのは無理だろうなと思いながらも、神妙な振りをしてカカシは頷いた。
「その…相手の人は、男なんです…」
ここでぎょっと身を固めてしまうのが普通の反応だろうが、カカシはイルカの思い人が自分という疑惑がさらに確定に近づいたのを感じて、ごくりと生唾を嚥下するにとどまる。
「…本当に驚きませんね…」
そのカカシの反応はイルカにとって合格だったらしく、イルカは漸く笑ってカカシのほうを振り返った。
「いや、驚きましたけど…」
予想できた事だし、とはようよう口に出さなかった。
「だいたい男友達はこのことを言うとドン引きするんですよね〜。俺がゲイで自分が狙われているとかそんな自意識過剰なことを考えちゃうんですよ。俺にだって好みがあるんだっつうの」
イルカは冗談じゃないという風に明るくそう吐き出したが、もし全員カカシと同じように酒を適度に入れて、人気の少ない夜道を歩くというこのシチュエーションでそれを告げられたなら、誰でもそういう勘違いをするかもしれない。正直カカシは、ちょっとした。
イルカはふっとその酔っ払い特有の明るさを引っ込めて一つ溜息をついた。
「…あなたが初めてですよ、カカシ先生。こんなに冷静に話を聞いてくれたの…」
イルカのカカシに向ける無償の上にある尊敬のまなざしが眩しい。
「…戦忍だったから偏見がないんですよ。戦場じゃ、時々そういうの、ありましたし…」
カカシだって戦場でイルカを抱いたのだ。珍しいこととはいえ機会は全くの皆無ではない。
「その時になんですけどね、こういう話は下世話なのかもしれませんけれど…、すっごく良かったんですよ…」
「――――」
そのイルカの何気ない発言に思わずカカシは頬を赤らめた。そうか良かったのか。
「その時おれは自分が正真正銘のゲイなのかと疑いました。里に戻ってきて何人か女性と付き合いましたがあの時の程の絶頂感は無く、男性とも付き合ってみましたがこちらはキスするのにも抵抗があってすぐに別れました」
「…男性とも付き合ったんですか…?」
あまりにも衝撃的な事実だったから、カカシは思わず足を止めてしまうと、数歩先に行っていたイルカはカカシを振り返って、静かにはい、と頷いた。
という事は何か、今カカシがイルカに付き合いを求めればもしかしてOKしてくれるかもしれない可能性もあるということか。思わず鼻息が荒くなるカカシだ。そんなカカシの心境など露知らず、イルカは一人で哀愁を漂わせている。
「…結局あの人じゃないと駄目な身体にでもなったんですかねえ…。まるで初めて媚薬の耐性を付ける訓練した時みたいでした…」
ふっとその言葉で、カカシの背中に冷たいものが走った。
媚薬。
そういえば、カカシを冒していたあの媚薬は相手に伝染するものではなかったか。一次感染者の体液を介在して二次感染者は生まれていた。
つまり、あの時イルカは媚薬の二次感染者になっていて、それで、未だかつて無い絶頂を味わったという可能性が高いという事か。
それは、二年前のカカシの手管によって恋に落とされたと思っていたイルカだったが、その実、媚薬によって高ぶらされていたに過ぎず、次のカカシとの機会にはその境地に達する保証はどこにも無いという事だ。重ねて、カカシもイルカとの性交でもう一度あの興奮が味わえるかといったらそうではない、ということに気が付いてしまった。
「カカシ先生?」
硬直してしまったカカシに気づき心配そうに顔を覗き込んでくるイルカ。瞬きするたびに黒い睫毛が翻る。
好きだとは思う。
しかし、もし素面でセックスした場合に気持ちよくなれなくて、むしろ勃たなくて、そんな状況でお互いに幻滅しないと言えるだろうか。
カカシにはその自信が無かった。
――――だから。
「…いつか、その人に会えると良いですね」
逃げてしまった。
イルカはそんなカカシの心境を知る由も無く、ただ満面に笑みを浮かべて「はい」と無邪気に返事をしたのだった。
それから道々カカシはイルカの恋のお相手の話を聞きながら自宅近くまで一緒に帰った。聞けば聞くほどその特徴は自分に一致したが、ところどころ誇張されていてくすぐったかったし、それ以上に気分は複雑だった。
こんなに好かれているのに、名乗り出ることも出来ず、新しく踏み出す勇気も出ない。
臆病なのは相手が男だからなのか、イルカだからなのか。
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