その後もカカシはいくつもの戦地を転々としたけれど、そこでイルカに出会うことはなかった。その戦地で人を殺すたびに少しずつイルカのことは忘れていった。カカシの中で戦地からは連想できない人だからかもしれない。
一年が経つ頃には思い出すこともなくなっていたが、時折店で買うおんなの趣味が変わったことにカカシのみが気づいていなかった。
いままで線がはかなく色白でそれでいて色気のあるはっきりとした美人が好きだったはずなのに、今は知的な瞳に黒髪の、すこしばかり凡庸なおんなを好んで呼んでいた。店や同僚などは気が付いていたが、その原因を知る由もなく、ただ首を傾げるだけだ。
その戦地から二年後にカカシは里へと呼び戻された。
「…後進育成ですか」
「そうじゃ」
呼び戻されてみれば驚くことに、火影はカカシに子供を育てろという。その傍らで里周辺の任務に従事しろというのだ。きつい仕事になりそうだという感じはあまりなかったものの、面倒そうだという第一印象だけはしっかり持ってしまった。
「来年にはナルトが十二になる。このままいけばアカデミーは順調に卒業するだろう。彼奴は忍びになることを望んでいるし、そのことを妨げる事は誰にもできん。それならばいっそ信頼の置ける師をおいて育てる方がよかろうと思ってな。おぬしなら適任じゃろう」
九尾を忌避するこの里において、確かにそれを腹に宿すナルトはうってつけのいじめの対象になるだろう。カカシはそんな偏見を持っていない数少ない人間のうちの一人だと火影は知っているのだ。あの子供が師の忘れ形見であるから。
「この一年はほかの子供たちの様子を見つつ、里に居れ。いざという時には暗部の仕事を回すことがあるかもしれんが、そのときはよろしく頼むぞ」
「了解」
久々に里に長居する事になって、カカシは戸惑った。長く帰っていなかった自宅というものに足を運んでみたけれど、それは思い出の積もった某かでしかなく、適当に整理して引き払ってしまった。その日のうちに新しく家を借りて、近くにあった花屋で戯れに鉢植えを購入してみた。家に何もないことが少し寂しいと思ったからだ。
里に戻ってきての一週間は火影の配慮によってそんな風に身辺整理や息抜きに消えていった。平和の中で、雨や風に吹き付けられる事もなくのんびりと寝てすごすのも悪くない。
カカシは高い部屋の窓から、何をするでもなく街を見下ろして、通りを歩く人々を飽かず眺めていた。
すぐに子供たちを受け持つわけではなく、年に三回あるアカデミー卒業試験の後下忍承認審査からカカシたち上忍師が関る事になっているため、それまでカカシは暗部ではなく一般の上忍として仕事に従事することになった。人を殺さないSランク任務はこのとき初めて体験したもので、新鮮だった。久々に頭をフル回転させて実行した任務だったような気がする。
暗部を懲戒ではないが里の意向で辞めさせられて自分の力が腐っていくものだろうと考えた事もあったが、この緊張感ならそんな心配も杞憂だと理解するのに時間はそう掛からなかった。
その日は雨で、任務の終了も遅くなってしまった。個人の任務だったから、降られたのは自分一人でよかった。受付けは二十四時間開いていると聞いているが本当にこんな日付が変わった時間でも空いているのか不安になりながらも、規定どおり受付へ向かった。
確かにその建物には明かりが煌々と照らされていて、門扉に鍵も架かっていない。恐る恐る中を覗いてみると確かにそこに働いている人間が居た。どうやらカカシと同じく報告書を提出しに来た人間も二三人居るようで、カカシはほっと胸を撫で下ろして雨に濡れた手甲をはずしてから報告書を書いた。
この報告書というものには慣れない。何度書いても間違いや書き漏れを指摘される。口頭ならそれを言葉で簡単に補完することが出来たし、慣れてもいたのだが、この紙面での報告書は、カカシには書かなくても行間を読んで理解して当然のところを書き足せと指摘してくるのだから厄介だ。
何とか四苦八苦して書類を描き終えると、今は一つしか空いていない窓口に提出した。
早く帰って暖かい風呂に浸かって寝たいなどと考えていると、やはり間違いを指摘された。
「あの、済みませんがココ…」
と、申し訳なさそうにカカシに報告書をそれでも突き返そうとしてくる。そいつの顔を一度見てやろうと機嫌を傾けながらも顔を上げてみれば、そこに座っていたのは黒髪を頭のてっぺんで括った忍びだった。カカシを真っ直ぐ見上げてくる目は黒曜石のようで、鼻梁を迷いなく横切った刀傷がある。
それは間違いなくイルカだった。
いきなり、カカシは記憶喪失から復帰したかのように、様々な記憶が湧き上がるのを感じた。
あの戦地での潜伏任務、薬、七人の部下達、八つの天幕、アスマ、イルカ、イルカ、イルカ…
一番鮮明に思い出した映像は、焚き火に照らされて目隠しのままカカシの上に跨ったイルカの姿だった。
「…あの…?」
受付けに座った男は報告書を受け取る気配もなく硬直してしまったカカシに、訝しげに声を掛ける。その声ではっとカカシは我に返ると取り繕うかのようにその紙を受け取り、訂正箇所を指示された。
「ここに名前と階級の記載がまだですね。それだけお願いします」
「あ、はい…」
確かにこの声はあの時聞いた声と同じもののような気がする。主に聞いたのは喘ぎ声だったのだが、微かに残っている記憶がそう訴えていた。
どうぞ、と差し出されたペンを握る手が何故か震えている。ゆれる文字で何とか書き終えて再提出すると、イルカはにっこりと笑ってソレを受理した。
「お疲れ様でした、はたけ上忍」
その笑顔にカカシは、くらっと眩暈をするのを感じた。
「あ、あの…大丈夫ですか?」
イルカはそんなカカシの様子を見て心配そうに声を掛けてくる。もしかして任務で疲れているとでも思っているのだろか。実際それまで疲れきっていたのだが、それは既に吹っ飛んでしまっている。何とか「大丈夫です」と応えてカカシはそこを後にした。
家に辿りつくと末端の冷えを癒すために早速カカシは湯船を準備した。
まさかイルカとこんなところで再会するとは思っても見なかった。カカシはのんびりと湯船に浸かって考える事はイルカのことに始終していた。
イルカはやはりカカシをあのときの暗部だと覚えていないようだったが、カカシはイルカのことをすっかり思い出してしまっていた。それは今まで忘れていた事が不思議なくらい鮮明にはっきりと。二年前の事だと思えないくらいに。
確かに少しイルカの印象は変わっていたが、それは彼の全体像を崩すものではなく、記憶の中の彼よりも少し逞しく、雰囲気が丸くなった程度のものだ。
あの時の別れ方は急で、カカシはもう一度きちんと話をして彼の事を知りたい。変な話だけど礼も言いたいし、きっと普通に出会っていればカカシはイルカを気の置けない友人として扱っていただろう。イルカはカカシに気づいていないのだからもしかして新しい関係を築くことが出来るかもしれない。
そう考えてカカシの心が少し高揚するのを感じた。個人的に仲良くなりたいと考える事なんて珍しいことだった。何時だってカカシは恋人どころか友人さえもなりたい人間が多く、選べる立場だったからそんな風に感じたことはなかったし、そんな人間の中から極めて仲良くなりたいと感じる人間も少なかったからだ。
今里にカカシに仲のいい人間は数えるほどしか居ない。きっとその中にイルカが加われば里の中でカカシはもっと呼吸がしやすくなる事だろう。
その考えにカカシはひとりはっとした。
明日のカカシの仕事は午前中か遅くても夕方には終了してしまうような簡単なものだ。あさってもそんな調子で、今日のような深夜に至ることは暫くない。そもそも腕鳴らし期間なのだから今日のような遅くになることのほうが珍しいのだ。そして、カカシは今まで受付でイルカらしき人物が働いているところを見たことがなく、それに気が付いた途端少し焦った。
もしかしてイルカは深夜の受付けに入るのではないかという事に気が付いたからだ。深夜勤務だったらまずカカシと時間が合うことは少ない。他のイルカの出没ポイントが分かっていればそこで声を掛けることも可能だが、そんな場所を知るわけもなかった。
「あー…やらかした」
カカシは思わず頭を抱えた。そうすると長い前髪が水面に浸かり、痛んだ毛先が湯の中に広がる。
今日イルカに気づいたとき声を掛けておけば良かったのだ。そうすればこんなにもやもやとした気分にならずに済んだに違いない。
「勿体無い…」
思わずカカシが呟いた言葉は、湯気に曇った風呂場に反響して自分の身体に吸い込まれる。カカシはずぶずぶと頭の先まで湯船に沈んだ。
買おうとしていた馴染みのおんなに先客が居るよりも微妙に沈んだ気分だ。後手後手に廻ってしまっている。
まるでいつもの自分じゃないようだった。ただ一人の存在に右往左往している。扱い方も分からずそれでも求めてしまうのは――――。
カカシは思考を振り払うように湯船から身体を起こした。
それ以上考えると、取り返しのつかない結論に達してしまいそうで恐怖したからだ。カカシは雑念を払うように体と髪を洗って風呂から上がると、髪も乾かさずにさっさと布団に潜り込んだ。
このときばかりは長年の戦場経験に感謝するしかない。いつでもどこでも眠る事の出来る特技が役に立ち、あっさり眠りに就く事が出来たのだった。
翌日任務を終えてみれば、やはり予定通り昼というには遅く、夕方というには早い時間に終了してしまった。受付を覗いて見てもイルカらしき人間の姿は見当たらない。仕方なく報告書は提出したものの、カカシは下忍のやるようなレベルの仕事を請け負う事にした。全ては深夜の受付でイルカに会う為だ。
今後こういう仕事の指示をするかもしれないからという言い訳をして奪い取った(?)任務の内容は、新聞の広告折だった。見た瞬間にアルバイトかよと突っ込みを入れたい気分になったが、依頼書によれば紙折の機械が壊れたのだという。しんどい作業になりそうだとげんなりしたものの、素直に任地に向かった。
流石に上忍が派遣されるとは思っていなかったらしい作業所では、カカシを困惑でもって迎えてくれた。簡単に作業内容を聞いただけでどんどん仕事を進めていくカカシを人々は奇異の目で見ていたが、暫く時間が経つと、カカシが新規の紙折機械だと納得したようで各自の仕事を全うするようになった。
仕事が終わったのは午前一時で、これから広告を新聞に挟みこむ作業を経て配達に向かうのだそうだ。カカシはその直前に依頼主から仕事終了のサインを貰って受付に直行した。
結論から言えば、深夜の受付でイルカと会うという計画はもろく崩れ去った。
その日の深夜に受付けに座っていた人間は、イルカとは似ても似つかない壮年の男性で、カカシを見るなり冷淡な態度を取ってくれた。きっと、こんな時間に来るんじゃないよという視線だ。
カカシはその日一日会えなかったことで落胆はしたけれども、しかし諦めはしなかった。翌日もその翌日も深夜の任務を続けた。それは、もしかしたらその曜日の深夜だけイルカがシフトに入るのではないかと、自分に良い様に考えた結果だ。
そして、イルカと再会して丁度一週間後のその日、玉砕した。
七日間土日も含めて朝から深夜まで仕事を続けていて、それが報われないと悟ったときの緊張の緩みといったら凄まじい。カカシはイルカと再会して九日目にそのゴムが切れてしまって、目覚めてみたらすっかり昼だった。
「……やらかした」
それが一番正直な感想だった。
ずっと寝不足を押して任務に出ていた。火影などはカカシがやる気になったことを喜んでいたのに、結局この体たらくで自分でも呆れるしかない。
しかしそこで燻っていても事態が改善されるわけでもなく、カカシはのろのろとだが極めて効率的に着替えを済ませると、今日の任務の集合場所へと向かった。
そもそも、緊張の糸が切れてしまった原因は今日の任務の所為だとカカシは思っている。
今日からカカシは正式に上忍師として働く事になるかもしれないのだ。つまり、アカデミーの子供たちと顔合わせで、そっちがひと段落つくまで上忍の任務はお休みということなのだ。イルカを探したくても自由な時間の持てない身になってしまう事実が、カカシの張り詰めていたものを断ち切ってくれた。
待ち合わせ場所はアカデミー講堂。既に集合時間から二時間の遅刻だ。重い足を何とか引きずってカカシは敷地内に踏み込んだ。途端に子供たちの声が大きく聴こえたような気がしたがそれは勿論空耳で、ただ気分が滅入っているカカシにとって耳障りなだけに過ぎない。
講堂はすぐに分かった。カカシはアカデミーに長く在籍する事はなかったために、初めて学校内にも方向指示の看板があることを認識した。
廊下をのんびり講堂へ向かっているときだった。
「あ、はたけ上忍!」
そう声を掛けられて、びっくりして振り返った。まさかアカデミーでカカシの外見と名前が一致する人間が居て、且つカカシに気付き呼び止めるなどということがあると思っていなかった所為だ。
そして、声の主を振り返ってカカシは更に驚いた。
廊下であるにも関らずカカシの方へ駆けて来るその人は、今までずっと探していたイルカその人だったからだ。
「――――!」
一瞬失語症に陥るカカシ。イルカはそれに気づかない。
「遅いじゃないですか! 子供たち、もう二時間も先生を待ってるんですよ!」
硬直してしまったカカシの腕をがっつりと掴むと、イルカはぐいぐいと引っ張り始める。
何でこの人はこんな所に居るんだ。それにカカシの名前を知っていた。
「あ、あの…!」
思わずカカシは講堂の扉の前と思われる所で踏みとどまり、自分の腕を掴んだイルカの手首を捉え直す。イルカはその手には何の不審も抱かないのか、それでもカカシを中に促そうとした。
「ちょっと待って、あなたに話が…」
慌ててカカシがそういうと漸くイルカの動きが止まる。
「え…?」
何故かカカシは呼吸を整えようとして手を胸に当てる。こんな短距離を引きずられたくらいで息が上がるわけはないと解っているのに、動悸が激しくなっている。
「大丈夫ですか…?」
もしかして呼吸器系の病気でも持ってましたか?とイルカは的外れな質問をしてくるが、実際そうなのかも知れない。この動悸はカカシにも説明がつけられない。
「いや、そうじゃなくて…。あの、何でココに?」
「アカデミー職員がアカデミーに居たらおかしいでしょうか…?」
途端にイルカが不安そうな顔をしたが、カカシは漸くココにイルカが居る理由が理解できた。しかしそれならば。
「…深夜の受付に居たのは…?」
「ああ、あの日に限らず受付には臨時で入ってますよ」
イルカはソレがどうした当然だといわんばかりの口ぶりで、真っ直ぐカカシを見上げてくる。その視線を正面から受け止める事が出来ずに、カカシは思わず視線を逸らしてしまった。
「さ、はたけ上忍」
話は終わったとばかりにイルカは掴んだままの手を引っ張る。はっとしてカカシはもう一度それに抵抗すれば、イルカは困った顔をして振り返った。きっと自分もあんな顔をしているのに違いない。
「あの、なんであなたは俺の名前を…?」
イルカは首を傾げる。
「だって受付でお会いしてるじゃないですか。あなたは覚えていないかもしれないですけど」
いやきっちりはっきり覚えている。だからこそ確認したかったのだ。イルカが本当にあの一度だけでカカシを覚えてくれたのかどうかが。
「さあ、そんなことはもうどうでもいいことじゃないですか。子供たちが待っていますから」
今度こそはカカシは抵抗する気力もなく講堂の中に放り込まれた。天井が高く広々とした空間に半すり鉢型の座席が並び、そこには三人の子供たちが不安そうな顔で座っていて、カカシを見て、イルカに救いを求める。
「じゃあ、はたけ上忍。あとは宜しくお願いしますね」
イルカはカカシに書類を押し付けるとそれと一緒に笑顔を残して去って行ってしまった。途方に暮れる三人の子供とカカシ。きっと子供たちはカカシに一抹の不安を感じたに違いなかった。
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