異変は徐々に起こったようだったが、カカシが察知したのは自陣までもう半里という所に至ってからだった。
中忍の足が急に遅くなって、それからヒユラも時々荒い息を吐くようになった。
「大丈夫?」
そう尋ねても二人は無言で唇を噛み締めて先に急ごうとするばかりで、カカシの事態把握が遅れた。
「先輩」
自然と遅くなった足取りの中声を掛けてきたのは、カカシと一番打ち解けている蛇面の暗部だった。
「…どうやら、あの薬は伝染する媚薬のようですよ…」
「なに…?」
思わず振り返ってみても、後輩の表情は蛇面の奥底に隠れている。自分もきっと声さえ抑えれば感情は読み取れない面をしているけれど、耳にした事があまりにも想定外のことだったために声のトーンは高くなった。
「…一番初めに中忍がやられました。被った上忍ではなくて――――ですよ。それからその上忍本人に症状が出て、もう一人の中忍も息が上がってきてます…」
振り返って部下を見てみると、どうやら蛇面の言うとおり暗部以外の忍びの様子がおかしいのが見て取れた。
「…感染経路は?」
「解りません。空気感染も疑った方がいいです」
カカシは思わず舌打ちした。
だからこそ敵の忍びは薬をかけた後に手早く退いたに違いない。こうすれば薬の効果をキャリアしたまま自陣に戻る事を想定して。
このまま八名全員が自陣に戻って効果を蔓延させれば戦どころではなくなってしまう。敵陣の物資を処分したところで一日二日で此方が全滅するという結果を招いてしまいかねない。
不幸中の幸い、まだ自陣から距離がある。
「それにどうやら個体差もあるようだし、いくらか媚薬に耐性を持ってる人間には効きにくそうですけど…」
確かにそれなからば暗部に今だ症状が出ていないのには頷ける。カカシも数々の薬に耐性をつけているから、この中では発症が最後の方になるだろう。
「仕方ないな…」
カカシは全員を立ち止まらせると、ポーチから地図を取り出し広げる。現在地にあたりをつけ、風向きを調べてさらさらっと手紙を書いた。
部下達はみんな不安そうにカカシのしていることを黙って見ている。最初に症状の出た中忍は既に可哀想なくらい息が上がっていた。
「天幕には戻らないよ。悪いけどちょっと寄り道して、そこで一息入れてもらうから」
この八名が抜けてしまう事は痛かったが仕方ない。暫く隔離して様子を見ないことには自軍に多大な影響を及ぼしかねない。せめて感染経路が解ればどうにか対処の方法も確立するのだが。
カカシはポーチからもう一本巻物を取り出すと、紐解いて手早く印を組む。もう手馴れてしまった術は口寄せの術だ。術の完了と共に白煙が噴出し、その煙が収まると、そこには精悍な体つきの一頭の犬が現れた。首には一般の忍びと同様に木の葉の鉢金が巻かれている、一端の忍犬だ。
「コレをアスマの所にまで持って行って」
カカシはしたためた手紙を忍犬の鉢金に括りつける。行けと鋭く命じればその賢い犬は一声返事をして迷いもせずに駆け出した。
「後衛隊長に何を…?」
「…前線まで出向いてもらうことにする」
大仰に立ち上がってカカシは開きっぱなしだった地図を巻き直した。
「皆聞いて。今後方部隊長に手紙を送った。まず俺達は前線を離れて、自軍に影響の出ないところで様子を見る。アスマには医療忍者とその手の姉さん達の手配をお願いしたから」
いつもならば歓声が上がってもおかしくない内容なのに、性的状況が切羽詰りすぎて、ぎらぎらとした雰囲気が立ちのぼるだけだ。
「きっちり吐き出したいなら、ちゃんとついてきてね」
集合場所にはカカシの腹積もりよりも半時ばかり遅い到着になった。一般の忍びどころか薬に対しては特別な訓練を受けているはずの暗部の一名にも症状が出てしまったためだ。
森が少し開けて小川になっているところで、そこには既に三名の医療忍者と八人のその筋の人間と思しき女が待ち構えていた。
カカシは彼らに接触を許さず、まず衣服を完全に燃やし小川の水で禊をさせる。勿論それはカカシだって例外ではない。持ってきてくれていた衣服に着替えてから、漸く許可を出して、早速症状の重い五名が女を連れて行ってしまった。随分先にここに到着してくれていたらしい医療忍者が天幕を張っていてくれたようだ。ご丁寧にも八つ。これはカカシの指示した事ではないから、きっとアスマの気遣いだろう。
「コレ、扱いには気をつけて」
カカシは拾ってきていたビンのかけらの入ったビンを医療忍者の一人に手渡す。
「完全無味無臭。どうやら伝染性の媚薬みたい…。感染経路は不明」
「…そうですか…」
流石の医療忍者もちょっと腰が引けている。それはそうだ。伝染する上感染経路が解らないものの解析をしなければいけない。更に言えば、いつまでその症状が続くかも解らないのだ。腎虚なんかで死にたくは無い。
すぐに天幕の方から嬌声が聞こえてくる。コレだけでもかなり下半身によろしくない環境だ。
あぶれた女三人はカカシたち残りの暗部に秋波を送ってくるものの、近寄っては来ない。流石に本能的なことを生業にしている所為か鼻はいい、暗部のまとう死臭や殺伐とした気配を感じ取っているのだろう。その時一人につき一人ずつで事足りるのだろうかとカカシはふと不安に思ったが、どう転ぶにしろその時にはまたアスマに手配してもらうしかないと溜息を吐いた。
「三人のうちの一人は木の葉に飛んでもらえる?木の葉にその薬を持ち帰り、火影様に報告を」
医療忍者達は困惑した視線のまま頷き、ぼそぼそと誰が木の葉に向かうか話し合い始める。その話し合いは早々に片が付き、一番足の速い医療忍がカカシに名乗りを上げて、木の葉に向かった。
「おれはちょっと天幕を覗いてくる。おんな達に媚薬の効果が伝染しているのか知りたいし…」
カカシは蛇面の男に森の奥に向かいながらそう声を掛けた。蛇面は片手を挙げて了解を示す。
部下達はなぜか一番近くにあった天幕を避けて、二番目の天幕から順に近い所にもぐりこんでいるようだった。奥の二つにも同様に明かりが点けられていない。ここまで近寄れば嬌声どころか肉を打つ音まで聞こえてくる。
部下の情事を覗き見するとは正直気の滅入る事だが、自分や部下だけの問題ではなくなる可能性も高い。そしてそんな異常な状況に自分の劣情はくすぐられなかった。カカシは溜息をこらえつつ一番近くの天幕の裾を僅かにめくりあげて中の様子を伺った。
そこは最初に症状の出た中忍の天幕だった。小柄なおんなを背後から犯している部下はまさに愉悦の極みを味わっているような顔をしていたが、責められる女は顔を伏せて時々呻いている様だ。享楽を味わっているような様子ではない。この中忍が余程ヘタなのだろうか。
次の天幕はヒユラだった。こちらは積極的におんながヒユラを跨いで腰を振りたてている。その表情に微塵も苦しみを感じていないような恍惚を満喫している。さっきの中忍とは全く違う様子にカカシは首を傾げた。相性や手管でこれほどに差が出るだろうか。
次の天幕はもう一人の上忍。此方はさっきの中忍と同じく切羽詰ったような上忍が苦しがるおんなを責め立てている。
もう一つの天幕には暗部の男が入っている。おんなは目隠しをされていたが――――媚薬に冒されていても顔を見せてはいけないという暗部の理性は働いたらしい――――、盛大に声を上げて腰を震わせている。顔はよく分からなかったが、感じていないとは言えないようなみだらな反応を示していた。
最後は残りの中忍。こちらの女は完全にトリップしている。二人とも我を忘れているようだった。
あからさまに女の反応に差がある。おんな三人には恐らく媚薬の効果がうつっている。残りの二人には感染せずにただ嵐が過ぎ去るのを待っているような状態だった。そもそも手練の女たちが集められているはずなのに、感じている演技も出来ていない。
環境は同じで、空気感染するというのなら女全員にかかっていてもおかしくない状況だ。
ならば感染経路は空気感染ではないということか。
カカシはそう結論付けて医療忍たちのもとに報告がてら戻った。もしかしたら自分や残りの暗部にはうつっていないかもしれない。
しかし、そんな願いもはかなく散った。蛇面の男が発症していた所為だ。
「…すみません、先輩」
「…いや…」
いつも冷静な声色の男の息が少し荒くなっている。もう一人の暗部の表情は面の所為で見えはしないが不安に感じているだろう。蛇面の男はカカシに小さく頭を下げるとおんなを一人伴って奥の天幕に行ってしまった。
空気感染ではないのに、直接触れていない蛇面や中忍連中に効果が出てきてしまう。特殊な感染経路を持っているようだ。
カカシはそのことを残った医療忍者に伝える。彼らは一応の対策としてマスクを装備してカカシの話を聞いてくれた。
「…感染の仕方が違う…」
と、一人が反芻して俯いた。その視線は右下、思考をめぐらす時の癖だろうか。
「そうなると一人一人、女性との接触の仕方を観察しておけばよかったですね…」
そうすることがさも当然だといわんばかりの反応にカカシは少し苦笑した。彼らは良くも悪くも医療忍者でこの性交を治療の一環だと割り切っているのだ。
「今見てきたら?」
そう言ってみたら一人が本気にして「じゃあ」と蛇面の消えていった方に駆けて行く。
「…まあ、空気感染の恐れは薄くなりましたね…」
残った医療忍者はメモした事柄を何度も指でなぞるようにしながら呟く。
「もしかしたら感染のルートが弱まるタイプなのかもしれません」
「弱まる…」
「はい。一次感染者――――今のところ男性六名がこれにあたる訳ですが、この六名は恐らく衣服に着いた薬品の揮発によっての空気感染ではないでしょうか。薬との相性、面やマスクなどの環境で発症に個体差が出ていると考えられます。ご婦人方三名は二次感染者となり薬を実際に嗅いで感染しているわけではないので、恐らくは一次感染者が保持する効果を直接体液でうつされたものではないかと…」
カカシはその意見を聞いて小さく唸った。確かにその経路ならおんな達にうつったりうつらなかったりしている説明もつく。薬のついた衣服は風下である川向こうで燃やしてきたから医療忍者には影響が出ていない。敵の忍者もそそくさと戦線離脱した理由がよく分かる。
「…じゃあ、俺がキャリアでも誰かに体液をばら撒かない限り無差別に感染させる事は無いってことだね」
「はい。この考えが正しいのならば」
流石に事実が確定しない事にははっきりと物を言わない医療忍者らしい釘の刺し方をする。
「ただ問題は効力がどれほどのものか解らないところが恐ろしいですね…」
その医療忍者は性欲の坩堝となりつつある森の奥に視線を寄越して、眉をひそめたのだった。
その推理を後押しするかのように、カカシ以外の七名が一次感染者と確定し、おんなたちも徐々に薬に影響されて、最終的には一次感染者と交わったすべてのおんなが二次感染者になってしまった。どの体液をどうやって身体に取り込めば二次感染者にしてしまうのかは解らなかったが、体液の介在という線が一番濃いようだ。
その様子を夜明けまでずっと観察していたカカシだったが、自分に兆候が現れることが無いため、その場を離れる事にした。
「護衛の人間を送るから、ここのことは出来るだけバレないように。念のために物資も運ばせる」
カカシは明晰な医療忍にこの場の指揮を任せる書類をメモ程度に走り書きして、その紙を押し付ける。
これだけ感染能力の高い薬を敵の忍びにかけることが出来たなら、その好機を自分だったら逃したくない。敵は此陣の中に薬が蔓延していると睨んでいるだろう。今日明日に総攻撃を仕掛けてくる可能性が高く、それに気がついてしまえばカカシはじっとしている事も出来なかった。
「おれは陣地に戻るよ。明日またここに戻ってくるから」
「はい」
医療忍は不安そうな顔だったが、はっきりと頷いて見せた。
その理由がカカシにも何となくわかる。感染者達の宴は夜が明けても終りを見せていないからだ。交わっては浅く眠り、周りの声で起こされてまた交わりを繰り返している彼らに、医療忍は今のところ眠った隙を見計らって思いつく限りの解毒薬を持ち運ぶことぐらいしか出来ない。夜明けまで狂乱が続けばその効果は無いに等しものだ。出来る事が無くなれば人間は不安になってくる。その上、患者は医療忍よりも忍びとしては格上になる暗部も三名混じっていた。自分がこうならないという補償も無い中で気丈に振舞うのは精神的に辛いだろう。
「守ってあげてね」
しかしカカシには事態を解決するだけの力も無く、他の感染者を出さないように努力する事しか出来ない。それならばここでじっとしているよりも戦力として自陣に戻ったほうが確実だった。敵の忍びを捕まえてこの薬について吐かせるのも手だろう。
カカシはその場に部下達を残してひとりで自陣へと舞い戻った。
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